49話、温かみのある無音
「私、メリーさん。今、あなたが切ってくれたリンゴを食べているの」
「甘くて美味しいでしょ? 夜は長いから、大事に食べてね」
電話越しと背後から聞こえる、眠たそうにまどろんだハルの声。何も言っていないのに、私が寝ないであろうと判断したハルが、食べやすいサイズに切ったリンゴを用意してくれた。
「ええ、分かったわ。食べ終わったら、皿を台所に持っていけばいいのよね?」
「そうそう、置いといてくれるだけでいいよー。っと、そうだ。メリーさん、今更なんだけどさ」
「なに?」
「寝込みは、流石に襲ってこないよね?」
「……本当に、今更ね」
その確認って、普通私を泊める前にすべき事じゃ? それにハルは、私に殺されるかもしれないという危機感を、まだちゃんと抱いているようだ。今の確認がいい証拠ね。
けど私は、ハルの安眠を妨げないよう、その危機感を払拭しなければならない。日常生活にも支障が出ないよう、ほぼ根こそぎに。
「安心しなさい。私が例の決め台詞を言わない限り、あんたが死ぬ事なんて、まずありえないわ」
「例の決め台詞? ……ああ~、『今、あなたの後ろにいるの』ってやつ?」
「そう、それよ。普段は絶対に言わないと約束するから、ゆっくり寝なさい」
「おお、マジで? それは嬉しい約束だね」
少し弾んだハルの声色を察するに、どうやら信じてくれたらしい。これで、ハルが安心してくれるといいんだけども。
「んじゃ、気にせずぐっすり眠っちゃおうかなー」
「私のせいで眠れなくなるのも困るから、そうして欲しいわ」
「オッケー。それじゃあメリーさん、お先に失礼するね。おやすみー」
「ええ、おやすみ」
寝る合図の言葉を最後に通話が切れたので、耳に当てていた携帯電話を、ハルから貰ったパジャマのポケットにしまい込んだ。
通話が終われば、耳には何の音も届かない。窓もしっかり閉まっているので、雨足すら聞こえてこない。でも、なんだか今日の無音は、そことなく温かみを感じる。
ハルが近くに居るから、冷たい孤独感も無い。心も安心して落ち着いているのか、聞き飽きた無音が心地いい。私のペースで、リンゴが食べられる。
「……甘い」
噛むと、『シャリッ』というみずみずしく澄んだ音が、無音を一瞬だけ払った。食感は固く、嚙み砕くと爽快な芳香が漂っていく。
透明感がありながらも、ギュッと詰まった濃い甘さと、その甘さを引き立てるほのかな酸味がたまらない。塩水に浸かっていたから、邪魔にならない程度で塩味も混ざっている。
けれども、その塩味が甘さをより一層際立てていくわね。なんで、塩味が混ざると甘さが強くなっていくんだろう? 不思議だわ。
一つ食べ終わったので、皿の隣にある布巾で手を拭き、床に両手をつけた。白が薄いカーテンの向こう側には、いつもより狭い夜空がある。
雨雲に阻まれているせいで、星は拝めない。色も単調だし、明るい闇の一枚絵を見ている様な気分だ。普段なら、これを朝まで見続けている。何もせず、ひたすらボーッとしながら。
しかし、今日は違う。リンゴという、とても心強い味方が居る。そして食べ終わったら、ハルが私の為に用意してくれたお布団に潜って、タブレットをいじる!
イヤホンも貸してくれたので、ハルの睡眠を妨げずに動画だって観れる! まさに至れり尽くせり。苦痛な暇を持て余していた夜長が、これから一気に忙しくなるんだ。
「楽しみだなぁ」
これも全ては、ハルのお陰だ。私に無かった物を全部くれた。料理に対する喜びを。テレビやスマホ、タブレットといった娯楽を。
お風呂という、最高のひと時を。パジャマといった、新品の衣服を。温かな無音が心地よい、暇を持て余さず孤独感の無い場所を。
最初は料理の味を知ってしまい、また食べてみたいという感情が生まれ、ただ付きまとっていただけだというのに。気が付いたら、ここまで来ていた。
きっと、ハルは何か企んでいる。でも、何を企んでいるのかまでは分からない。何も無かった都市伝説である私に、人間らしい衣食住を与えて、何をしようとしているんだろう。
「リンゴ、おいしいなぁ」
甘いまどろみが、思考の邪魔をする。明るい闇の一枚絵に黄昏ろと、誘惑してくる。見飽きた景色だけれども、今はただボーッと眺めていたい。
『シャリッ』という音が、少しずつ遠ざかっていく。考えるのが、だんだん面倒臭くなってきた。瞬きの回数が増えて、狭い夜空がより狭まっていく。
なんだか、体がふわふわしてきた様な気がする。最近、食後に感じる妙な浮遊感だけど、そろそろ身を委ねてしまおうかしら。




