六
藍省 グイ村付近 藍省軍停留地
海から潮の香りが風と共に漂った。
遥か彼方まで続く緑と青が混じり合った色合いに見惚れ、何処までも続く水平線が、この国が封じられている事を一時、忘れさせる。何も無ければいつまでも同じ景色を眺めな過ごし、のんびりと寛ぎたいところだ。
だがそれも、海に程近いグイの村は漁に向かえない村人達が、やる事もなく暇そうな姿を見ると気分が変わる。漁で生計を建てる彼等にとっては致命的とも言える今回の件。軍によって、海どころか浜にまで入る事を禁じられ、誰も彼もが憂鬱そうな顔を見せる。
そんな中、呆然と海を観る者たちを尻目に、皇軍や省軍の姿が珍しいのか、子供達のはしゃぐ声が響いた。この件が無ければ穏やかな村なのだろう。
あの、一隻の船が無ければ。
悠李は打ち上げられた、黒ずむそれを見た。この国では見た事が無かった大きな帆船。大した損傷もなく、波打ち際で沈黙を貫いているそれは、陽皇国では異質な存在だった。
「あれが、船か?」
隣で同じ景色を見ていた祝融が、初めて見た大きな船に驚いていた。
「ええ、長距離移動や異国に渡航する際などに使われます」
「頑丈そうだが、一体どうやって神域を通り抜けたんだ?」
悠李は不死身だったから、この国に来る事ができたが、来訪者達は違うだろう。どの様な手段を使ったか。それが一番の問題にも思えた。
そうな祝融と悠李の心配を他所に、突如背後より声が掛かった。
「手早い対応に感謝する。丹から此処までは長旅であっただろう」
振り返れば、そこには二人の青髪の男が立っていた。一人は終始和かで、若々しい男は一歩後ろに下がり、無表情を貫いている。
悠李は、無表情の方こそ知らなかったが、笑みを溢す男には見覚えがあった。
元老院が一人、蒼郭園。出迎えの為、わざわざ元老院自ら現れる事には想定外で驚くも、祝融や蚩尤に警告されていたせいか、悠李の瞳に映る、その笑顔が胡散臭いものに見えて仕方が無かった。姜一族に仕える龍人族、朱家を見慣れているのもあって、青い髪と金の瞳を除けば何ら人と変わらぬ素振りが、それを際立たせた。
「以前目にはしているだろうが、養女の姜悠李だ」
祝融の身内で有ると強調する物言いにも、蒼公は笑顔を崩さなかった。
「わざわざ、姜公まで御足労痛み入る。今回は、丹諸侯に志鳥を送ったつもりだったが、まさか貴公までいらっしゃるとは」
「そちらこそ、校尉が私の養女であると知っているのだから、直接こちらに連絡くだされば宜しいものを」
いくら、言葉遊びが苦手な悠李でも、あからさまに牽制し合う二人の様子が見て取れる。
「(お前は来なくても良いのに、という事か)」
彼が元老院だからこそ、祝融に向かって言える言葉なのだろう。国事であるなら、元老院である祝融を通すべきだ。悠李は丹に属しているから、玄瑛に報せを送るのも間違ってはいないが、祝融を遠ざけようとしているのだろうが、やり方が明からさまだ。蒼公の目的が、明らかに呼び出した件以外にも有ると言っている様なものだが、それを隠す素振りもない。
「(いまいち、目的が掴めない)」
変わらず笑顔を崩さない男の後ろにいたもう一人の蒼公に顔立ちの似た龍人族が声を上げた。
「お祖父様、そろそろ本題に入りましょう」
不死は歳がよく分からない。聞かない事が礼儀で有り、暗黙の了解で有る事を当たり前と思う様に教わったが、龍人族は特に年齢の近しい顔つきが多く、関係性が見た目で判断しにくい。
彼の「お祖父様」という言葉で、二人が近しい親類だと漸くわかる程だった。
「そうだな。これは、私の孫で蒼智庚と言う。青海の監視役として、此度の件でここに居る」
蒼公よりも若々しい顔付きだが、いかにも真面目と顔に書いてある。
「姜公、姜叔校尉、御足労痛み入ります。お疲れの所申し訳有りませんが、見て頂きたい物が有るので、どうぞ此方へ」
蒼公に似ず、手際良く話を進める姿に、本当に孫かが疑わしい程だ。
案内されたのは、異邦人達が隔離されている天幕とは別の棟だった。船の中の荷を全て検閲の為、回収し補完している様で、様々な物品が置かれている。
「船人達は全て隔離しています。表面では協力的ですが、そろそろ限界です。せめて手荷物だけでも返して、一時的に落ち着かせたいのですが……」
百五名の荷物だ。あまりに多くて何処から手をつけていいかも分からない。
「人手を借りれますか?」
「もちろんです」
監視は皇軍が取り仕切ってはいたが、省軍も僅かながらに残ってはいる。智庚は近くにいた藍省の兵士を呼び止めた。
「こう言った場合の決まりが何も無いし、知識も無い。困ったものです」
法で縛れない存在ほど厄介なものは無い。数が数だけに、智庚は肩を落とし、疲れた様子を見せた。
「この国は孤立している事が前提です。仕方のない事でしょう」
悠李は兵士に手伝わせ、荷物を選り分け、誰の荷物かなど知ったことでは無いと、選別していった。
一番多かったのは衣類だったが、これ等は事前に選り分けられてていた。明らかに辰の印章が押された書状や、悠李が求めてやまなかった、ペンとインクまであった。
そして、幾つかの荷を調べて行くと、酒や煙草を掘り当て、悠李の顔が思わずにやけそうになるも、状況が状況だけに、仕方なく他と一緒に選別していく。更には暇つぶしと思われる書籍も発掘し、読みたかった続刊を見つけた時は、こっそり持って帰りたい衝動を必死で抑えていた。
「此方と同じ文字で書かれた書籍と、嗜好品は渡しても大丈夫でしょう」
智庚は渡された嗜好品を見て首を傾げた。
「これは何ですか?」
智庚はガラス瓶に入っている物が酒だとはわかっても、木箱に入った棒が何に使うかが判別できていなかった。紙に包まれたものと、煙管を使ったもの。どちらも、陽皇国には無いものだ。
「煙草です。中毒性が有り、思考を鈍らせます」
「……それは本当に嗜好品なのですか?」
悠李の説明では危険極まりない物としか認識の仕様が無い。
智庚が訝しんでいると、天幕の入り口で見物していた祝融は、悠李の背後に立つと物珍しさからか、紙煙草を一本手に取った。
「どうやって使う」
「今は火がないので……」
悠李は異国の魔術師だ。本当であれば、火をつける事など容易なのだが、不用意に魔術を使うなと言われている。あくまで、氷の異能と思わせる為に、人前では使えなかった。
だが、目の前の男の異能を思い出した。都合よく、煙草に興味まで持っているではないか。
「祝融様、火は出せますか?」
流れとは言え、目の前の女は安安と言ってのける。
「……見せ物じゃ無いんだが」
普段威厳を保っている男も好奇心には勝てないらしい。祝融は頭を掻く仕草をしたかと思うと、渋りながらも、掌を悠李に向けた。すると、どうだろうか、ぼっと音がしたかと思えば、その掌から一瞬にして炎が現れたのだ。周りにいた者達も、異能が珍しいのか、掌の上で燃え上がるそれを見つめ、言葉を無くしていた。
悠李は気にすること無く、煙草を口に咥えると、その炎で火を付けた。煙を肺に吸い込み、それを吐き出す。手慣れた手つきに、明らかな常習者である事が伺える。
「先程、中毒性があって思考が鈍ると言っていなかったか?」
「ええ、健康に害も及ぼします」
それでも、満足気にぷかぷかと吸い続ける。その顔は、満足の一言だ。
「試してみます?」
悠李は吸いかけのそれを祝融に向けた。祝融も、物は試しと煙草を受け取り、一口吸い込むと、初めての刺激に喉が驚いたのか、上手く煙を吸い込めず咽び込んでしまった。
「なんだこれっ」
悠李は、咳き込み続ける祝融から煙草を奪い取ると、そのまま吸い続けた。
「最初は皆、咽せるんですよね」
「何が良いんだ?」
咳き込んだ喉が痛むのか、喉元をおさえる祝融を他所に、至福の時間を楽しむ悠李。普段真面目な姿しか見てこなかった祝融から見ても、いつもと違った一面がそこにあった。
「慣れると癖になるんですよ。少しくすねても?」
悪気があるのか無いのか、久しぶりの煙草を堪能する悠李は上機嫌だった。智庚は悠李を真面目な者と認識していたが、どうやら違った様だと、認識を改めた。
「くすねるのは流石に問題があるかと」
「それは残念」
煙草を咥えたまま、悠李は問題の無い物を兵士に指示して船人達に持って行かせる様に指示した。
「問題は此方ですね」
悠李が残したのは、異国の言葉で書かれた書類や書物だった。
「何と書いてある」
辰帝国とは違う大陸にあるエンディル国。魔術師の共通語として使われる言葉ではあるが、この場で綴られたそれを読めるのは、悠李ただ一人。
「魔術書です。誰かが知識を書き溜めた物でしょう」
何冊かの内、一冊を手に取り、パラパラと頁を捲り、適当に中を確認すると、悠李は再び表紙を見た。
「これらはもう少し詳しく調べても?」
「構いません。後で宿泊先に送ります」
「助かります」
最後に残ったのは、書状だった。辰の印章が押されているが、横書きにエンディルの言葉で書かれ、明らかに只人に読ませないとするそれに、悠李は眉を顰めた。
「これは……」
悠李は言葉が詰まった。書状には、自分が罪人で、逃亡したと書かれている。逃亡した魔術師の捜索及び捕縛を国が勅命を下したと認められていた。
「姜校尉、何か不都合でも?」
後ろで天幕にもたれかかり、見物していた蒼公が口を開いた。変わらず笑みを絶やさず佇む男は、不気味だ。
「(悠李、都合が悪くとも真実を言え)」
祝融は悠李の肩に手を置き、小声で悠李に語りかけた。
「(虚偽を述べれば信用を失くす。どの道、何が真実かなど確認しようも無い)」
祝融に諭され、悠李は一息吐くと、書状に書かれた内容を読み上げた。
『魔術師ユーリックが、投獄中に逃亡。殺人、情報漏洩、脱獄の罪により、魔術師一団に捜索の後、捕縛及び国への送還を皇帝の名を持って命ずる』
読み上げると、周りは静まり返った。
「それは、貴女の名前だな?」
蒼公の言葉に、智庚は悠李に目を向けた。秘匿文書を閲覧できる者は限られている。智庚は、悠李の元の名を知らなかった。
「そうです」
「我々は貴女をあちらに引き渡すべきか?」
「殺人は認めましょう。投獄ではなく、監禁されていた際、逃げる為に数名殺したのは事実ですから」
蒼公は悠李に近づいた。
「成程、さてどうするか。なあ、姜公」
「どうもこうも、虚偽が書かれた文書など、信じるに値しない」
「だが、国主が命じたものだったのだろう?」
悠李は、再度書状に目を向けた。偽造では無い。悠李は幾度となく目にした事のあった印章が正規のものであると、確信していた。
「印章は皇帝のもので間違いは無いでしょう」
悠李は表面上は、無表情を取り繕ってはいたが、内心穏やかでは無かった。祝融がそばにいるとは言え、状況は悪い方に傾いている。蒼公の企みが分からない今、出方を伺うしか無いが――。
「……姜校尉、此処ではなんだ。話をしようじゃないか」
不気味な物言いに、悠李は蒼公から目を逸らせなかった。
「ここでは不都合でしょうか」
「貴女の情報は、この国では秘匿事項として扱われている。とりあえず、お疲れだろうし宿に案内しよう」
獲物を狙う金色の瞳が、悠李を捉え離さなかった。