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虚構の夢人  作者: 柊
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 悠李が仕事を終え、宮に戻る頃には、日は傾きかけていた。


「(遅くなったな……)」


 藍は遠い。龍が馬より早く、一直線に飛んで行けるが、それでも時間がかかる事に変わりはない。どれだけの期間を藍で過ごすか予測がつけばまだ良かったのだが、緊急の件とあって、誰の知る由も無いだろう。

 それもあって、悠李は残っていた仕事を片付け玄瑛へとそのまま届けに行くと、玄瑛は追加の書類を用意して待っていたのだ。再び手の上に積まれた書類を眺めるも、減る訳もなく、玄瑛に文句を言おうにも、嫌味が返ってくるだけだ。

 誰かに押し付けてやろうかなどと考えもしたが、そんな時間があったら自分でやったほうが早い。悠李は大人しく再び軍部に逆戻りとなり、今に至る。

 やっと帰れたと、一息つきたいところだが、まだやる事がある。

 宮に着くなり、悠李は出迎えた女官の(しん)に声をかけた。


「お帰りなさいませ」

「蚩尤様は?」

「私室においでです」


 既に夕餉の準備は整っているだろう。それでも、悠李は先に話を済まさねばならないと、蚩尤の元に向かった。


「ただいま帰りました」


 部屋の中は薄暗く、その中で蚩尤は窓際に置かれた椅子に腰掛け、静かに窓の外を眺めているだけだった。簡単な返事すら帰ってはこない。


「……怒っているのですか?」


 悠李は恐る恐る近付き、蚩尤の肩に触れた。

 蚩尤はそれを一瞥すると、それに手を重ねた。愛おしそうに触れ、離そうとはしない。


「悠李、このまま何処かに行ってしまおうか」


 ポツリと呟く蚩尤に、悠李の胸が痛めた。その姿は、人が煩わしいと、イルドで過ごしていた時を思い起こさせる。あの時の様に穏やかに暮らせば、彼の心がすり減る事は無いだろう。

 だが、今逃げる事は出来ない。

 悠李は蚩尤の前に回り込むと、跪き、蚩尤の手を包み込んだ。


「蚩尤様、この件が終わったら、(うん)省にでも行きましょう。春は過ぎてしまいますが、祭りの時期に間に合うやも知れません」


 悠李は笑顔を見せ、少しでも、蚩尤の不安を減らそうと必死だった。


「恐怖は無いのか?貴女を探してきたとなれば、何を仕出かすか分からない」


 淡々と胸の内を晒す痛ましい蚩尤の姿に、悠李もまた、自分の思いをぶつけるしか無かった。


「……捕らえられていた時の恐怖は未だに有ります。でも、漠然とした存在に恐怖する程、弱いつもりも有りません」


 悠李の強い眼差しに、蚩尤は目を背けたくなった。本当なら、自分が逃げるなと、言わなければならない立場であったはずなのに、今は逃げろと言っている。

 過去の自分と矛盾した姿が、今、目の前にいる存在よりも弱く思えた。


「来訪者の中に私を陥れた者は居ません」

「何故言い切れる」

「あの人は、異国にいます」


 悠李の目は嘘をついている様には見えなかった。ただ、蚩尤には、「あの人」という言い方だけが気になった。


「恨んでいないような口振りだな」

「裏切られたからこそ、ここにいます」


 とても、裏切られたと口にする顔では無かった。穏やかで、恨みなどとうの昔に消えたと言っている様にも見える。


「蚩尤様、私は何が欠けても、ここには居なかった様に思うのです」


 悠李の言葉に、蚩尤は黙って耳を傾けた。


「不死身でなければ、十にも満たない内に死んでいました。魔術師に育てられなければ、強さを追い求める事もなかった。囚われることがなければ、…師の言いなりのままに生きていた。逃げ出さなければ、そのまま傀儡として生きていた。それが全てです」


 僅かな言葉の機微に蚩尤は気づいた。


「……裏切ったのは、師か」


 悠李は静かに頷いた。そこには、悲しみも、恨みも、侮蔑すらも無かった。


「異国に行くために、私を売りました」

「怒りは無いのか」

「育てたのが、師でなければ、私は逃げ出す事はできなかったでしょう。例え逃げ出せたとしても、蚩尤様に出会う事もなければ、目に止まる事も無かったかも知れません」


 悠李は、蚩尤の性格を理解した上で、夫婦となった。

 蚩尤は、人嫌いで、相手を選り好みする。悠李が気に入ったのも、礼儀正しく、それなりの強さを持ち合わせていたからだと、理解していた。


「以前、私が不誠実な者ならば放り出したと言われました。彼が私を育てなければ、そうなり得たかも知れないのです」


 だから、恨まないと決めたのだと。過去を否定し続けるのは容易だが、過去がある意味を考えれば、恨みは消え去った。

 悠李は、前に進んでいた。乗り越えなければならないことはまだあるが、それでも、一歩一歩進んでいた。


「蚩尤様、逃げれば何も得られません。今、藍に手を貸せば、私は姜家の者として扱われます。逃げれば、同類とみなされます」


 悠李は蚩尤の手を強く握った。


「何も持っていなかった以前の私なら、逃げ出したでしょう。でも、今は失いたく無いものばかりです」


 この国に来たばかりの頃は、借り物の生活だった。自分の物と言えるのは、その身と心だけだ。今は、生活も、地位も、自分が得た物だと、言える様になっていた。


「……悠李、ここの生活は好きか」

「ええ、普通とは言えないのでしょうが、私が人として生きれる場所です」


 強い意志に満ちた目が、ただ蚩尤を見つめた。かくも強く美しい紅色の瞳は、矢張り蚩尤の心を捉えて離さない。

 それを逃さないかの様に、蚩尤は、悠李の手を強く握り、自身の膝の上に引き寄せた。あまりに急で、気付けば悠李は、抵抗も出来ぬまま、ちょこんと蚩尤の膝の上に座る形となっていた。


「誰かに見られます」


 思わず悠李の頬が赤らんだ。夫婦とは言え、悠李は蚩尤よりは小さくとも、男と見間違われる程に身の丈がある。とても、膝上に座らされる様な愛らしい女性でも無いと自覚しているのもあって、羞恥心で一杯だった。

 

「女官たちなら、問題ない。彼女らは、見て見ぬふりを心得ている」


 そう言った蚩尤は、見られた所で気にはしないがと付け足すと、悠李をより一層強く抱きしめていた。


「私が浅はかだったな」

「……蚩尤様に、心配を掛けているのは私です。わかっているつもりでしたが、配慮が足りませんでした」

「そうでは無い。貴女は自分が耐えれば良いという癖が未だ抜けていない。今回も、そう考えているのだと思った」


 自分を押し殺すのでは無く、前に進む悠李の姿が、蚩尤の心を落ち着かせていた。


「私も共に行きたいが、事が事だ。祝融様が不在なら、私が残らねばならない」

「わかっております」

「戻ったら、祝融様に休暇を頂こう」


 悠李には、忙しいとぼやく祝融の姿が浮かんだ。一筋縄では、蚩尤に休暇など、言い渡しはしないだろう。


「では、この件で心的障害を受けたと言って、ねだりましょう。共工様は、祝融様に説得してもらいます」


 悪戯に笑う顔に、蚩尤も顔が綻んだ。その顔を見て、漸く蚩尤も安心が出来た。


「そろそろ、部屋の外で女官達が困っている事だろう。夕餉にしよう」


 確かにそうだと、悠李は頷けた。二人で部屋に篭ったのなら、下手に入っては来ないだろう。

 何より、蚩尤の上に座っている姿を見られたなら、明日以降、女官と顔を合わせられなくなる。悠李はいそいそと、その場を降りた。

 蚩尤は悠李の手を離さなかった。暫く会えないのもあったが、心の片隅には、微かな不安が残っていた。


「見られますよ」

「私は気にしない」


 見せられた女官達に、面白みなど無いだろう。誠心誠意仕えてくれている女官達には申し訳なく思っても、蚩尤がそれで満足するなら仕方がないと、悠李が諦めるしか無かった。


――


 明朝、見送りに現れた蚩尤の姿に、祝融は安心した。悠李がどうやって諭したのかは、定かではないが、それでも、これで心置きなく出立できると息を吐いた。

 隣に立つ悠李も、顔に不安は無い。


「悠李、何を言った」

「色々です」


 その答えは何やら意味深だが、綻び微笑む顔が問題無いと告げていた。

 その表情は、自然で人間味を帯びていた。出会った頃のような、ただ従順な姿を見せるだけでなく、誰かを想い、考え、行動しているのだと思わせる。


「まあ、これで心配事は一つ減ったな」

「そうですね」

「あちらまでは、一週間は掛かるが、あちらに着いたら油断はするなよ。辰国の者達は元より、藍の連中にも気を抜くな」

「承知しました」


 祝融と悠李が話し込んでいると、蚩尤が共に立つ悠李の侍従である花月(かげつ)を呼んでいた。悠李には、二人が何を話しているかは聞こえなかったが、花月の頷く姿だけが、良く見える。それは、祝融の目にも止まったが、花月の落ち着いた姿から、気にする事はないだろうと、再び悠李に目を向けた。


「本当は、何人か連れて行きたがったが、下手に藍に疑惑を向ける事になる」

「護衛は不要ですよ。これでも武官です」

「まあ、そうだが……蒼公も、藍の将軍もお前の実力はよく知っている。護衛は寄越さんだろう。」


 悠李は一度、藍の将軍と戦った。御前試合と言う公式の場、一種の催し物だが、なかなか出番のない武官等の見せ場だ。だが、何かと対立したがる諸侯や元老院にとっては、それ以上だろう。睨みを効かせ、その武力を誇示するのだ。

 永く、丹は不参加だったが、悠李の披露目の場として選ばれた訳だが……結果は完勝。悠李に敵う武官は一人もいなかったのだ。そして、その時、蒼夏珀とも剣を交えたのだった。

 龍人族とあって、その実力は確かなもので、悠李も一筋縄では勝てず、少々梃子摺った相手でもあった。

 結果として、校尉が将軍職を倒したと、当時は話題になった事も記憶に新しい。


「確か、蒼夏珀様……でしたっけ」

「藍諸侯の子息で、蒼公の甥だ。多分、現地にいるだろう。そちらは協力的と見て問題は無い」

「では、やはり蒼公だけが?」

「ああ、切れ者だが、恐れ知らずだ」


 掻き乱すのが、元老院の会議だけなら、どれ程よかった事だろうか。せめて、今回ばかりは、大人しくしていて欲しいと、祝融は願うばかりだった。


「そろそろ、行くか。蚩尤、任せて大丈夫だな」


 花月との話を切り上げ、蚩尤は祝融に一言問題有りませんとだけ答えた。それを皮切りに、龍人族である花月と豪雷(ごうらい)が龍の姿に変わっていく。花月は赤い龍へと、豪雷は黒龍へと変貌していた。

 悠李は、花月の背に乗ると蚩尤を見た。


「行ってまいります」

「ああ、無事を祈る」


 蚩尤は、悠李が妖魔討伐の為に不周山(ふしゅうざん)へ出征に行く時は、検討を祈ると送り出したが、今日ばかりは無事を祈らねば、心穏やかに見送れなかった。

 豪雷と花月が飛び立つと、悠李は前だけを見た。

 何事もなく戻ってくると、胸に刻んで。

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