四
悠李が部屋を出ても尚、祝融の顔付きは以前、険しいままだった。苛つきを前面に出し、蚩尤に向けていた。
「玄瑛、とばっちりを喰いたくないなら、早めに出たほうが良いぞ」
普段温厚な祝融がこれ程迄に怒りを露わにするのは、珍しい。玄瑛は、怒りの矛先である義父の身を案じつつも、そそくさと退室した。
それを見届けるや否や、祝融は怒りという名の説教を吐露した。
「蚩尤、本来なら武官の親類にこういった話を知らせる必要はない。お前が俺の甥だからこの場に同席を許されているに過ぎない」
「承知しています」
「だったら、先程の発言は何だ」
蚩尤の目は祝融を捉えてはいるものの、どこか上の空だった。
「本音を述べただけです」
「お前が悠李を利用価値等で考えていない事は良くわかった。だが、この場ですべき発言では無いし、悠李の不安を煽るだけだ」
「ええ」
適当では無いものの、本当に自分の立場を弁えて発言しているとは思えない返事ばかり返す。それが祝融の怒りを煽っていた。
「お前は俺に喧嘩を売っているのか?」
「滅相もありません」
「ならば、釈明ぐらい述べたらどうだ」
蚩尤は俯き、悠李が夢に苛まれている事が脳裏に浮かんでいた。たかが夢だと言われてしまえばそれまでだ。それでも、夢に恐怖する悲痛な姿が、蚩尤の心を痛めていた。
「……悠李が未だ夢に見る程、心に傷を負ったままです。今の状態で向かわせるのは、危険と考えたまで」
祝融は、厄介な女に惚れたものだと、甥を哀れんだ。悠李を利用価値だけで考えていたなら、此処まで傷心する事も無かっただろう。蚩尤には悠李の存在が必要だとは分かっていたが、此処までとは考えていなかった。
「だが、行かなければ悠李が培って来た物が全て消える事もあるぞ」
「それも良いかもしれませんね」
その言葉に、祝融の眉が動いた。
「元々悠李は穏やかな生活を望んでいた。また、イルドに戻るのも悪くは無い」
半年程、悠李と共に山奥の小さな村で過ごしていた日々が、蚩尤の脳裏を過った。あの頃に、悠李に対して何かしらの感情は無かった。それこそ、祝融が言う利用価値の方が強かっただろう。だが、今は違う。もし本当にあの場所へと戻ったならば、悠李と二人で、ただ穏やかな日々を過ごすだけなのだ。
過去を垣間見る顔を見せ、甥の過去を懐かしむ言動に、祝融は目も当てられなかった。顔を歪ませ、文字通り頭を抱えるしかない。
「蚩尤、今の悠李はそれを望んでいるのか?」
「多分、望んでいないでしょう。丹の武官である事に誇りを持っている」
「だとしたら、安易に口にすべきでは無いとは思わんのか!」
祝融は声を荒げたが、蚩尤は一切動じなかった。顔を窓に向け、その目には遥か彼方にある白仙山を捉えていた。
虚な目。祝融には、蚩尤の心がまた澱んでいる様に思えた。
蚩尤は、一度家族を失った。それは、丹を、国を救った代償とも言えたが、使命の為とは言え、蚩尤の心に穴を開けるには十分だった。
そしてまた、かけがえのないものを手に入れ、その手からこぼれ落ちる事を危惧する事が、蚩尤の心を濁していた。
「蚩尤、お前はそのままだと……」
祝融は言葉を続けられなかった。
不死に寿命は無い。それでも、心が弱り衰えると、同様に肉体も衰えた。不死の死因の多くは、永く生きることに疲れ、自ら命を絶つか、心の衰えと共に起こる肉体の死だった。
だが蚩尤は例外だ。見た目こそ老齢を思わせるが、心の衰えが原因ではない。
彼は、一度死に恐怖した。それまで、傲慢だった自分を省みる程の恐怖が、蚩尤を襲ったのだ。肉体は、僅か数日でみるみるうちに老い、今の姿となった。
蚩尤は、自分を律した。内面までは衰えさせぬと、肉体を鍛え続け、精神を保ち、只々自分に厳しくあった。
だからこそ、それまで以上に欲深く他人に擦り寄る様な人間を忌み嫌った。老齢の姿はかえって好都合な時もあったが、決して気に入っている訳ではなかった。
性根は元より曲がっていたが、より捻じ曲げた一因でもあった。
祝融も、その時の事を今でも忘れた訳ではない。死に恐怖したのは、蚩尤だけではなかった。祝融の妻と娘も、その時、その場にいた。二人が一瞬で老い、死に行く様を見て、自らの近しい者が死ぬ事をより恐れる様になった。
そして、祝融が蚩尤に甘い原因にもなってはいた。
祝融には、もう、蚩尤をどう扱って良いかが分からなくなっていた。優秀な男で、祝融には忠実と行って良い程、付き従っていた。共に生きた年月が余りに永く、甥という感覚は薄れつつある。
そして、唯一の蚩尤をこの世に留めて置ける存在が、蚩尤を不安定にさせている。最早、手立てが無いとしか言いようが無かった。
顔に手を当て、項垂れる祝融を他所に、蚩尤は静かに口を開いた。
「……ご安心を、今は死を迎えたいとは思っていません」
「前に、俺に聞いたな、生きる意味を。今の、その意味は悠李か?」
「それ以外、何もありません」
蚩尤は立ち上がった。
「今日はこれで失礼します」
蚩尤が部屋から居なくなると、途端に祝融に虚しさが込み上げた。最も頼りにしていた男は、どこに行ってしまったのだろうか。
空虚な部屋の中で、祝融はただ一人、せめて甥が馬鹿な真似をしない様に祈るだけだった。
――
誰も居ない軍部の司令室で悠李は一人、積まれた書類を片付けていた。
そこへ、丹省将軍であり、祝融の実子である共工が姿を現した。悠李は来客用の椅子に腰掛ける身の丈が六尺五寸もある大男を横目で見るものの、直ぐに書類に目を戻した。
「出かけるらしいな」
「耳が早いですね。突如決まりまして」
一応義理の兄妹に当たるが、どちらにもその手の感情はない。そもそも、悠李が養女となった経緯も、政治的なものが大きく、祝融に対しても養父と言うよりは仕えるべき主人だった。そして、共工と悠李もまた上官と下僚ただそれだけだったが、それなりにお互い信頼はしていた。
「こっちは問題ないだろう。お前の隊は俺が引き受ける」
「助かります」
「それよりもだ。いい加減、勾を甘やかすのを止めろ」
姜将軍の娘。であり、姜家当主の孫。それこそが、誰もが勾に甘い理由だ。叱る事が出来る者は限られており、義理だが叔母に当たる悠李もその一人に数えられてはいるが、どうにも甘い。
身内である悠李が厳しくしなければ他の者に示しが付かない。共工が再三、悠李に言っていた事でもあった。
「そのつもりは、無いんですけどね」
「嘘を付くな」
共工は勾の父親としてよりも、上官としての立場を優先している。性格上、共工にはそれが出来るのだろうが、悠李は今ひとつ、勾に対して上官になりきれていない。
悠李は書類に目を通しつつも、僅かに目線を共工に向けた。
「……軍に、入って欲しく無かったんですよ」
有事の際、最も危険な立場にあるのは、やはり軍部という事が大きかった。現状、妖魔は大した事は無いが、今後、何か起きないと言う保証もない。
「だったら、厳しくして追い出す方が早い」
悠李の言葉に、共工も同意しているかの答えだった。
「翠玲に、出来れば軍を辞めさせて欲しいと言われている」
「私も言われました。説得してみようとはしたんですが、誰かに似て頑固の様で聞く耳を持ちません」
普段嫌味を言われているのもあって、その誰かに言うものの、共工は鼻で笑って返した。
「お前に憧れているらしい」
悠李の手が止まり、途端に表情が暗くなった。
「……本性を見てないから、でしょうね」
ぼそりと呟いた言葉は、共工には聞こえていなかった。自分の過去の姿を知れば、きっとそんな事は言わなかっただろう。勾の知る悠李は、殆どが城で過ごす姿だ。それは、他の者達も同じだが、悠李は自分がひた隠す、過去の姿に目を逸らし続けていた。
「憧れるなら、珊子様の方が翠玲様も喜んだでしょうね」
「女狐になられても困る」
諸侯夫人に何て言い草だろうと思ったが、時には祝融すら言葉巧みに躱していく姿に、確かに当てはまるとも思えた。
「出来れば、可愛い姪のままが良かったんですが……」
「本人が望んで、軍部に所属した。なら、望んだ通りにしてやるべきだな」
娘だからと、甘やかさない。それには見習う所でもあると思える。
「お父さんは厳しいですね」
悠李の茶化す物言いに、共工の顔は青ざめた。
「お前が言うと気色悪い。二度と口にするな」
「では、義兄上と?」
「それも無しだ」
面白がる悠李を他所目に、共工はよく喋る悠李を不審に思った。
「お前が藍に行く理由は何だ」
「話せないと分かってて聞くのですね」
元老院からの依頼をそう易々と口には出来ない。書類に目を通しながらも、適当に躱していた。
「軍部に情報は入り辛い。お前なら、うかつに喋るかと思ったが……」
つまらんと、共工は一言ぼやいた。
「守秘義務って知ってます?」
「一応な。俺は所詮将軍職だからな、情報を手に入れようと思ったら、狡い手を使うしか無い」
「文官に成ろうとは、思わなかったんですか?」
共工は、またも鼻で笑った。
「向いてる様に見えるか?」
「……まあ、見えないですね」
共工の性格は良くも悪くも真っ直ぐだった。思ったままが口に出る。腹の内に隠しておけば、済むところですら、それだ。それが、例え自分よりも立場が上の者であったとしても。
自分の胸の内を簡単に晒してしまう様では、到底政に向いていない。それは、誰が見ても明らかだった。
「俺が生まれる前から、親父は元老院だった。周りには期待されたが、正直うんざりした」
普段は「祝融様」と呼び、親子関係を表面に出さない共工が珍しく口にした言葉に、悠李は驚いた。
「普段もそう呼べば良いのでは?」
「どう見ても、俺はあの人の後継として足りていない。わざわざ愚息であると言いふらす事も無いだろう」
優秀な父親の元に生まれて、共工も自分なりに考えた結果だった。
「誰もそんな事思っていませんよ」
「今はな。実際に俺は色々やらかしてるからな。今この地位に居るのも、親父の功績があるからだ」
「自分を貶めるのが好きなんですか?」
「違うが、蚩尤の様に優秀だったらと、考えた事はある」
文も武も、決して敵わない。共工の物心着いた時には、蚩尤の地位は確立していた。それは、蚩尤の父親が残した物でもあったが、それでも維持するには蚩尤の実力が伴わなければならない。
蚩尤はそれを当然の如く、自分の手中に収め、父親よりも優れていると周りに認めさせた。
「どう考えても、後継は蚩尤としか思えなかった」
「……今日は色々話してくれるんですね」
「義妹が落ち込んでいる様だからな」
悠李はいつも通り接しているつもりだった。
「お前は不安がると、よく喋る」
「それ、お互い様ですけどね」
共工は立ち上が李、後ろ手に手を振ると、邪魔したなと言って部屋を出ていった。
世間話のついでに、情報を探りに来ただけだったのだろうが、気にかけてくれているのだと、素直に思えた。
悠李はそれが嬉しかった。顔が綻び、人らしい会話、人らしい生活、求めていた全てが此処にある事を確かに感じていた。
不安が消え去った訳ではない。それでも、決意を固めるには十分だった。
「(後は、蚩尤様かな……)」
先程の発言は自分を想って言ってくれているのは分かっていたが、彼らしくない。不安にさせているのは、悪夢にうなされている自分なのだろうと、想像はついていた。
そこへ追い討ちをかける様に故郷からの来訪者。
悪夢から揺り起こされた時に見る彼の顔は、見るに堪えないほどに、悲痛なものだった。暫く離れる事になる。これ以上不安にさせない為にも、説得材料が必要だ。
悠李は、早く帰るためにも、一心不乱に机に向かった。