十五
船は、無事に藍省の浜辺へと辿り着いた。祝融と悠李は共に、数刻程、海を漂っていただけだと思っていたが、実際にはそれ以上の時が過ぎていた。それを明示する様に浜には既に皇軍の姿は無く、不安な面持ちを抱えた花月と、怪訝な顔つきの豪雷が、二人の帰りを待っているだけだった。
「私は、お二人が戻られた事を、お伝して来ます」
そう言って、豪雷は姿を変えると、あっという間に飛び立った。
「船旅でお疲れでしょう。一度、宿に戻り、お休み下さい」
祝融と共に花月の背に乗り、悠李は少しずつ瞼が重くなるのを堪えていた。うつらうつらと、頭が揺れ、今にも眠りに落ちそうになるのを祝融が心配になり背後から支える程に。何とか邸宅まで持ち堪えるも身体はくたくただった。神域の負担は、知らず知らずに身体に影響していたのか、身体はふらつき今にも倒れそうで、祝融に支えられながらでなければ、部屋にもたどり着けなかっただろう。
ただ、悠李の微睡む視界の中、不死身でもない祝融は平気そうで訝しむも、今はそれ以上に眠気が勝っていた。
――
悠李は丸一日眠った。
目が覚めた時には、既に昼下がりで、遅めの昼食にありついていた。
「一日で良かったな」
祝融は既に食事を済ませ、悠李が起きるのを待っていた。嫌味にも思える言葉を口にした祝融だったが、いつもと変わらない様子に悠李も心なしかほっとしていた。
「僅かな時間でしたから。祝融様もお元気そうで何よりです」
何故、不死身の自分よりも丈夫なのかと問う事も出来ず、遠回しに嫌味を口にしてみるものの、その言葉は祝融によって、あっさりと躱される。
「リショウが目覚めたらしい。大人しくしているらしいが、すぐに来て欲しいとの事だ」
「分かりました」
「それと、もう一人の女が、お前に話があるそうだ」
悠李は、食後の茶を一口啜りながら、ルネを思い浮かべた。友人というわけでもなければ、最後に会った時の心象も最悪で、正直言って、話す事など何も無い。
「……気が向いたら」
ぶっきらぼうに答えた悠李に対し、祝融はあっさりしたものだった。
「そちらはそれで構わん。特に重要な話でも無いだろうしな」
――
瑠璃城の一角。
リショウの腕は、包帯が巻かれ、僅かに除く部分からは、生々しい火傷が見え隠れしている。顔やその他の部位も火膨れを起こし、満身創痍と言ったところだった。
寝台から身を起こし、悠李の顔を見れば暴れるかと警戒されていたが、その顔は実に落ち着いたもの。その落ち着き様に永く生きているだけの事は有ると、祝融は言った。
祝融と悠李が見守る中、蒼公は傍の椅子に座った。
「貴方の身柄は拘束された。他の生き残りは、ただ一人。最早、聞く事も無くなったが、さてどうする?」
蒼公の挑発とも取れる言葉にも、リショウは動じなかった。
「状況は分かっている。抵抗する気もない……出来ないと言った方が正しいか。帰る手段も無ければ、帰った所で、多くの魔術師を失った責任を追求されるだけだ」
まだ、身体は完全に癒えていないのか、脂汗が額に滲んでいる。それでも、リショウは毅然とした態度を崩す事は無かった。
リショウは、悠李を一瞥し、更に続けた。
「その女に利用価値が有り、此方で仕えているのなら、私も同様に価値は有るだろうか」
思わぬ発言に蒼公は、口の端を吊り上げ鼻で笑った。
「お前を信用しろと言うのか?それをどう証明して見せる」
リショウはそれなりの地位に着いている。帰る事が出来ぬからと、そう安易と信用するわけにはいかなかった。
「異国の事であれば、その女よりも私の方がより詳しい。お力になれるだろう。全ての情報を開示すると御約束する」
悠李は反論出来なかった。老師の弟子と、老師本人では、持っている情報の量が違う。何より、悠李の持つ情報は古い。ルネだけでは手に入らない情報も、リショウなら知り得ていることに間違いは無かった。
「では、この国に尽くすと?」
「それが望みならば、そう致しましょう」
蒼公は、顎に手を当て、考える素振りを見せた。
「蒼公、その男を信じるのは構わんが、事が事だ。陛下の許諾が要る。何より、制御出来るのか?」
祝融の言葉に、蒼公は悠李を見た。
「それは、姜校尉も同じだろう」
その言葉に、祝融の顔が強張った。
「悠李は、この国に一度として敵意を向けてはいない。その差を、どう捉えるのかと言っている」
リショウと違い、悠李には目的が無かった。平穏に暮らすことだけを望んだ悠李と比べれば、祝融の目には、リショウは危険な存在として写っていた。
「この男は平和的に解決しようとはしていた。最後こそ、焦って強硬手段に出たがな。それに敵意を向けたのは国では無く、あくまで姜校尉にのみだ」
蒼公の言葉は明らかに祝融を煽っている。慎まない蒼公の言動に、祝融の目に怒りが篭もりつつあった。
「悠李は今や、この国の民だ。個は国の一部では無いのか」
「そう怒るな、彼等が探していたのは、ユーリックと言う名の魔術師であって、武官としての校尉を知らなかった」
「同じ事だ」
祝融の怒りなど、物ともせずと、蒼公は笑みを絶やさなかった。顎に手を当て、肘を突き、ニヤニヤと祝融の様子を見ては、面白がっている。
「相変わらず、身内の事になると頭に血が昇る様だな。神託を聞いた限りでは、これからの時代、情報は必要だ。姜校尉に無い物を寄越すと言っている。利用価値は有る」
利用価値など、本来本人の前で言うべきではないが、今の状況をリショウ本人にわからせるために、蒼公は敢えて口にし、祝融も、それを否定しなかった。
「他の元老院が黙ってはいない」
「何とかするさ」
祝融は、悠々と言ってのける蒼公から目を逸らし、口を挟まずに見守っていた悠李を見た。
「悠李、お前は良いのか」
悠李は祝融を一瞥すると、リショウを見た。
技術だけなら、自分よりも上なのは、分かりきったことだった。いくら優秀と評価された過去があっても、序列上位の者と、序列に組み込まれない者とでは、大きな差がある。
悠李は息を吐き、口を開いた。
「……私の持つ情報は古い。捕らえられていた期間も考えれば、三十年弱前になります。何より、彼は老師。私よりも、世情に詳しいのは事実でしょう」
「姜校尉、それは、リショウを手の内に入れても問題無いととって良いのか?」
「様子見は必要でしょうが、その男が残虐非道でない事は知っています。私に言える事はそのくらいです」
蒼公に同意しているとも取れる発言だが、悠李自身に及ぶであろう害が一切含まれていない。それを察した祝融は、眉を顰めた。
「……悠李、それは肯定と取れる。あれは、お前の体質を利用するかもしれんのだ」
「いつもなら、虚偽は述べるなと言われるではありませんか。それに、私の我儘で大事な情報を失うわけにはいきません」
達観した悠李と違い、祝融だけが、納得していない様子だった。祝融も、情報は必要だとはわかっていたが、悠李の事を考えれば、リショウは危険な存在だ。
「話は纏まりましたかな」
リショウは、何処か余裕だった。この国が、魔術師に対する対応が遅い事からも、世情に疎く、これ以上の交渉は無いと分かりきっていたのだろう。
最初から、落ち着き払っていたのは、元々の位もあるのだろうが、それが一つの要因でもあった。
「皇帝陛下の承諾と元老院の承認は必要だがな」
「いくらでも待とう。時間は有る」
流石に疲れたと、リショウは言った。
腕の傷からも、まだ万全では無い。尋問の必要も無く、今日はここまでだと、蒼公は切り上げようとしたが、悠李はそれを遮り、徐に口を開いた。
「一つ、聞きたい事が有る」
悠李は息を呑み、込み上げるものをぐっと堪えた。
「グエスの弟子のイドという男を知っているか?」
蒼公は、脈絡も無く誰とも知らぬ名前を口にする悠李に目を向けるも、止める事は無かった。
リショウは何度も小さくイドと言う名を呟き、何も無い一点を見つめ記憶を探っている様子を見せた。
そして、何かを思い出した様に顔を上げた。
「ああ、あの男か。一時話題になったな。確か、処刑された筈だ」
「……処刑?」
思いもよらない言葉に、悠李は唖然とした。
「ああ、師の元を去り、独り立ちしたは良いが、奇行に走ってな。魔術師、只人、女子供関係なく、残虐非道な行いをしたとされ、処分された。二十年程前の話だ。……知り合いか?」
リショウの言葉をどう飲み込めばいいか分からなかった。リショウが嘘を吐く必要は無い。そもそも、悠李は、自分が何故男の行方を口走ったか、よくわかっていなかった。
「ただの、顔見知りだ」
滑稽だと、思うしか無かった。
自分を壊そうとした男が先に壊れ、挙句の果てに死んでいた。
悠李は、低く、くぐもる様に笑った。
「……悠李」
祝融は、不穏な様子を見せる悠李が心配になり、その肩に手を置いた。
「……馬鹿ですよね。存在しない男に怯えるなど。全ては私が作り出した、まやかしだった」
「平気か」
「問題ありません」
悠李は息を吐き平常心を取り戻すと、リショウに向き直った。
「リショウ、感謝する。お陰で心晴れやかだ」
リショウには、その感謝の意味は分からない。
ただ、悠李の澄んだ顔に、懐疑的な目を向けるだけだった。