十四
藍領主城では、諸侯である正亥が困惑していた。
二人の元老院と、元老院の義理の娘、そして青海の監視役の甥孫。
異邦人である、姜悠李の存在は知っていても、彼女が不死身であるとは、知らなかった。そもそも、その情報を知り得ているのは、関係者と皇帝、神子そして元老院だけだった。
青海の主に呼ばれたと、不死身である女が言っても、到底信じられる話ではなかった。
何故、この国の生まれですら無い女が呼ばれ、四海竜王により近い存在である、蒼家には何の言葉も無いのか。問いただしても、本人も、よく分からないと、答えは曖昧だ。
「神子ですら無い者の言葉を兄上は信じるのですか?」
正直、正亥は元老院である兄すらも、信用に置けない部類の者ではあった。
飄々として、時折、何を考えているかも分からない。
ある日突然、父を元老院の座から引き摺り下ろし、正亥に諸侯の座を明け渡した時も、何の相談も無かった。今も、何一つ情報を明け渡さずにいたかと思えば、途端に青海へ出る話になっている。
「今は信じるしかないだろう。他に手立ても無い。神域に行けるのも、彼女ぐらいだ」
神域すら、軽々と抜けるとは、不死身とは、恐ろしい。
「不安は、悠李が神域を抜けた後だがな。白仙山を抜けた後は、眠っていたと聞いている」
「……十日程。その時は飲まず食わずで、おそらく二年程度は神域に留まっていたと思うので、今回はそこまででは無いかと」
とても、人の所業では無いとしか言えなかった。淡々と述べてはいるが、その会話に違和感を持つ者は、自分だけなのだろうかと、思ったが、よく見れば、甥孫も戸惑いを隠せずに目を見開いて口を開けたまま、そこにいた。
「まあ、俺も行くつもりだが」
元老院である、姜公の言葉に絶句した。
蒼公も最初こそ冗談と思ったのか、笑ったが、姜公の真剣な目に、本気なのだと察し笑うのを止めた。
「いくら貴公とて、神域は……」
「昔、何度か入った事がある。一週間が限界だったが」
こちらも、人では無かった。凡そ、千年を越えて生きているとされるのは、共に元老院を担う姜祝融と風鸚史だけと言われている。風鸚史は、老いが見られるが、姜祝融は壮年の若さを保ったまま。
恐れ多く、誰も口にはしないが、異質な存在である事は確かだった。
「もし、貴公の身に何かあっても、こちらは何の保証もでき兼ねます。お嬢様をお待ち頂くことは?」
真っ当な意見を言ったと思ったが、姜公は意に返さないと言い返した。
「神子でも無い義娘だけを危険極まりない場所に行かせたとなれば、それこそ恥だ」
正亥は、姜祝融の義理の娘である、姜校尉を見たが、最早何も言うまいと、口を閉ざしたまま。
「姜公、遺言では無いにしろ、何かしら丹への言付けは頼みたい」
蒼郭園の無礼極まりない言葉に、正亥は睨みつけた。遺言など、口にすべきでは無いと言っているつもりではあったが、郭園はそう怖い顔をするなと、笑みを崩さない。
「わかった。志鳥は送っておこう」
「助かる。それで、いつ実行する?」
「面倒事は、さっさと終わらせるに限る」
リショウと言う魔術師が目覚めぬ今、他に出来る事も無い。
神が呼んでいるとなれば、どの道、早い方が良いのは確かだった。
「分かりました。船は皇軍が管理しております。皇帝陛下には、兄上から通達をお願い致します」
「良いだろう。智庚、共に行き、陛下から利用の許可が下りるまで、知らせを待て。陛下も事態が収束されるのを、お待ちの筈だ。姜公、姜校尉、宜しく頼む」
姜公と、姜校尉そして甥孫が部屋を後にすると、息つく間もなく、異常ばかり起こるとうんざりした。
「兄上、四海竜王は何を考えておいでなのでしょうか」
「さっぱり分からん。神の考えなど、誰も見通せん」
そう言うと、兄は懐から白玉を取り出した。
白く発光したそれから、白い鳥が飛び出しては無垢姿を見せる。志鳥を手に出来る事を名誉ある事だと言われている。身分は最上位である事が要求され、更には重責なる役目を追わねばならないからだ。だが今は、正亥の目には、この白い鳥が自らの手に降り立つたびに、凶兆を知らせるのでは無いかと、脅威に見えていた。
「蒼郭園だ。姜公御息女、姜悠李が、女神より夢にて言葉を告げられた。四海竜王と面会が許され、異邦人達が乗りし船は、四海竜王が用意したものと、言葉を賜った。これを神託とし、船の利用許可を頂きたい」
言葉を告げられた鳥は、羽ばたきと共に飛び去った。
「陛下は、神託と信じるでしょうか」
「姜校尉は、白神に導かれた前例も有る。他に啓示を受けた者が現れぬ限りは、信じて頂けるだろう」
他に手立ても無いしな、と兄は余裕な笑みを浮かべていた。
「神子でも無い者が神託を受けるなど、おかしな事ばかりだ」
一昔前ならば、戯言と一蹴されていただろう。それ程までに、神子とは尊大な存在だった。
元より、四海竜王に神子などいなかったが。
「……時代が変わっているのかも知れんな」
ぽつりと郭園が溢した言葉に正亥が顔を向けると、神妙な面持ちをしていた。
「では、どういう時代になると?」
聞き返すも、郭園は答えなかった。
いつもこうだ。思わせ振りな事を言っては、自分で考えろと言わんばかりに、腹に溜め込む。
郭園は、確証を得ない事は、容易に口にしない。それでももう少しばかり曝け出してくれたなら、意を汲みやすいと、正亥は何度、頭を悩ませた事かと、溜め息が出た。
兄弟にすら本音を話さぬ郭園の姿は、正亥に信用ならないとすら思わせていた。孫だけが信用に足ると、言ってのけた事すらある。その腹いせに、正亥は智庚を青海の監視役に就かせたが、より一層、郭園との溝は深まり何も話さなくなっていた。
だが、今回はばかりは、藍が大きく関わる。
郭園並びに正亥にも、その重責がのし掛かっている。正亥も、郭園が蒼家当主として、役目を果たしてくれぬでは困るのだ。
「兄上、あの女はどうするおつもりで?」
リショウとは別に、生かしたあの女。これと言って使い道がある様にも見えず、何のために生かしたか、郭園からは何一つ聞かされておらず、今は監視の上で隔離している。
生かすも殺すも郭園次第なのだが、その返答を待っていると、郭園の表情が無になった。
「お前は、本当に詰まらんな」
その言葉は、兄が父を退かせる少し前に、父に向かって言い放った言葉と同じだった。
――
船の前に立ち、一刻程経った頃、蒼公より皇帝から返事があったと知らせが入った。
許可は簡単に下りた。姜校尉の言葉は信じるに値すると、何ともあっけないものだったと志鳥は蒼公の言葉を伝えた。
船を監視していた、皇軍の将にも、皇帝直々の志鳥が届くと、あっさり船を明け渡した。
「それでは、健闘を祈ります」
智庚は、何も出来ずに申し訳ないと、船に乗り込む二人を見送った。祝融が先に乗り、悠李が看板に立つと、船は静かに動き出した。
風も無く、帆も畳まれたまま。それが神の力としか言えなかった。
悠李は船の先端に立ち、水平線の先を見た。
何も無い青色だけが続く。陽の光を反射し、きらきらと輝く水面を見つめ、事が起こるのを待つしか無かった。
「腕は平気か」
祝融が近づき、悠李の隣に立った。悪夢から呼び起こす為とは言え、痛々しい様を自分の行いと責めている様だった。
悠李は自分の腕を見た。痛みは薬や湿布のお陰で引いたが、包帯を巻くなど経験がなく、少しばかりむず痒い。
これが、普通の事なのだと、今更ながらに気付いた。
「もう痛みはありません」
せめて、安心させようと、言ってはみたものの、未だに治らない事が不安ではあった。それは、祝融も同じだったようで、包帯の巻かれた部分に触れぬように、腕を手に取ってまじまじと見た。
「蚩尤に殺されるかもな」
傷を見れば、誰がやったかなど、一目瞭然だろう。
「蚩尤様は、祝融様に怒りをぶつけたりはしません」
「どうかな」
冗談を口にしているのかとも思ったが、顔つきは真剣だった。
「……別の手段を考えるべきだったな」
その時、手元には何も無く、安易に異能を使った。
祝融は、治らないという考えに至らなかった事を悔いていた。
「いいえ、現実の痛みで、夢が遮られたのは、今回が初めてでした」
夢の全てが燃えた。祝融の力の影響かは分からないが、何もかもが燃え尽き、何ともあっけなく、記憶の中の男は死んだ。
女神の褒美と言うのが、それならば、荒っぽいと言ったのも頷ける。あの夢を二度と見ないのであれば、片腕の火傷など安い物だ。
「何の夢を見ていたかなど、聞くべきでは無いか?」
悠李は躊躇うも、傷の事も有り、口を開いた。
「……囚われて何年かは、ある男が私に苦痛を与え続けていました。私は、名前ぐらいしか知らない男だったのですが、私を妬んでいた様です。手足を拘束され、私が苦痛に悶える姿を楽しんでいる様でした。何度、殺してやろうかと考えたのですが、それが叶うことは無かった」
「お前が、逃げた時に殺した者の中にはいなかったのか?」
「ええ、いませんでした。今もどこかで、生きているのでは無いでしょうか」
どこかで、のうのうと生きている。忘れてしまえば良いものを、未だに過去を引きずっている。悲劇に浸っていたと、認めても、簡単に忘れてしまえるものでも無かった。
「あの国でやり残した事があるとすれば、それぐらいでしょうか」
逃げている時は、そんな事を考える余裕など無かった。二度と捕まりたくは無い。何より、導く者がいたお陰で、そんな事を考えずに済んでいた。
「せめて、この手で殺せていれば、こんな夢に囚われる事も無かったのではないかと……」
悠李は、その男を記憶から消したいばかりに、物騒な事ばかりを吐露している事に気がついた。
「……不届きな事ばかり口にしているのに、怒らないのですね」
祝融の顔を見ても、これと言って、変わりは無い。どちらかと言えば、腕の傷ばかり気にしている様だった。
「お前の心情を慮れば、殺したいくらい憎い奴がいてもおかしくは無いだろう。俺は聖人じゃない。話し合って全てが片付くなら、件の船人は全員生きている」
それもそうだと、悠李は船の欄干を背に座り込んだ。
――
悠李は大型船にこそ乗った事は無かったが、その速度が異様に速い事だけは理解していた。
ただの遊覧なら、どれ程良かっただろうか。役目を与えられた事が脳裏に不安を募らせるも、船は進み続けた。
それから、一刻程経った頃、空気が変わった。
波音は消え、風もない。静寂に包まれ、身体は重く、威圧ともとれる気配がそこら中に漂った。空は雲が覆い、靄が出始めた。視界は閉ざされ、船尾すら確認出来ない。
最早、どこに向かっているのかすら、分からなくなっていた。
本当に、帰れるのだろうか。立ち所に、悠李は不安で一杯になった。
白仙山を彷徨うとでは、訳が違う。あれは自力で移動できるが、海はそう思う様にはいかないだろう。
二人は、無言で時を待った。
そして、船はぴたりと止まった。
悠李は、欄干に手を掛けると、立ち上がり周りを見渡した。
何が現れるでもなく、靄の中、静けさだけがあった。
だが、次の瞬間、大きな鐘の音が幾つも鳴り響いた。
悠李は堪らず耳を塞いだ。鼓膜が破れるかと思うくらいの音に、身体を強張らせながらも、耐えた。隣に居た祝融を見たが、音が聞こえていないのかと思われるほど、毅然とした姿で一点を見ている。
悠李も、音に苦しみながらも、何が見えるのかと、目を向けた。
その瞬間、音が止み、船が大きく揺れた。振り落とされない様にと、何とか欄干に捕まる。
海がうねり、波が立つ。
嵐と見間違わんばかりに、海は荒れ狂った。
神域とは言え、それは何かが怒りを見せている様に思えてならなかった。
そして、悠李にも漸く何かが見えた。海が盛り上がり、それは姿を見せた何か。
龍人族など、比べ物にならないくらい大きな龍と思しきその姿。白銀ではなく、鈍く青とも銀とも取れる、その姿に悠李は慄いた。
それの瞳が此方を捉えている。
それが、口を開けると、また鐘の音が鳴る。音では無く、それが四海竜王の声だと悠李は理解するも、言葉の意味まで理解が出来ない。
耳を塞ぐばかりの悠李の姿に、それは口を閉じた。更には、目を閉じ、暫くすると、水になり海に溶けた。
そして、また海が盛り上がったかと思うと、船の上を波が覆った。あまりにも急で、祝融は慌てて振り落とされぬ様にと悠李を抱え、欄干に捕まった。
その波は、船の上で人らしき姿に変わった。
青い髪が蒼家を思わせたが、それよりも更に濃い青の髪に、肌は銀色の鱗、耳は尖り、鋭い金の瞳、男とも女とも取れる顔をしたそれの雰囲気に、悠李は背筋がぞくりと凍りつきそうだった。
それは、表情は変わらず、口を開いた。
『よく、我々の前に姿を晒せたものだな』
悠李は、漸くまともに聞こえる声だと、安堵したが、その言葉の意味に首を傾げた。すると、目の前とは違う声が何処からとも無く、響いた。
『兄者、殺しても問題無かろう。少しは気も紛れる』
『止めておけ。この男は彼の地に生きる者。この者もまた、盟約に含まれる』
その言葉で、彼らが敵意を向けているのが、祝融だと気付き、悠李は祝融を見た。
祝融は、ただ四海竜王を見据えていた。
「話を聞きに来ただけだ」
祝融は、敵意を気にも留めず、最初からわかっていたかの様に振る舞い、冷静だった。
『真に遺憾だが、仕方があるまい』
それは、悠李を捉えた。
『我等はいずれ、この地を去る。さすれば、青海の神域は消え、異国の地より異形の者が訪れるであろう』
「何故、去るのですか?」
『人の力が強くなり過ぎた。不可視の存在は、個としての力を失い、神は消える』
「それは、いつ?」
『我等は人と時間の流れが違う。十年か、はたまた百年か』
「私は何をすれば……」
『その知を、その力を、死を持たぬその身を、彼の地の為に捧げよ』
四海竜王は、祝融を見た。
『……姜祝融、お前の選択は間違ってはいない。だが、我らは主を殺したお前を許せぬ。その身に与えられた力を彼の地の為に使い、その身に縛られて生きろ』
言葉を全て終え、それは、姿を水に変え、海に帰った。
静寂の中、船が動き出す。波に押され、ゆっくりとその場を離れた。
次第に靄は晴れ、青海の優美な青色が煌めいていた。
「祝融様、あの……」
悠李は、どう聞けば良いかが分からなかった。四海竜王が祝融に向けた言葉の節々に、恨みが篭っていた。それが一体、何を意味しているのか。
「悠李、聞きたい事があるなら、聞けば良い」
祝融は、悠李を見なかった。ただ、険しい顔付きで、海を眺めていた。
「……祝融様は何を殺したのですか?」
「六十年以上前になる。俺は、国を守る男神を殺した」
祝融は海から目を逸らすと、欄干を背に座り込んだ。顔を曇らせ、後悔していると、吐露した。
「国に妖魔が溢れ、各地に業魔と呼ばれる異形が人を襲った。それを食い止めるには、理性を失い、悪神と成り果てた神を殺すしか無かった」
淡々と語る祝融の目は、何処か遠くを見ていた。
「神殺しは成功したが、代償は大きく俺は呪われ、受けきれなかった呪いで、俺と血族としての繋がりのある姜一族の殆どが死んだ。分家は滅び、生き残ったのは、俺と共にその場に居た、三人だけだ」
それだけが、僅かな救いだったと、小さく呟いた。
「正直に言って、何の為に、神を殺したかが分からなかった」
救いたかったのは国よりも、身近な存在だった。会った事も無い他人が助かり、共に丹を支えた一族が犠牲となった。
祝融は、悠李を見た。
「……蚩尤の家族も死んだ。息子とその妻、そして孫。それであいつは、心が澱んだ」
国を救い、家族が死んだ。
「あいつがやっと人らしく生きれると、言っていた矢先だった」
だから、蚩尤はイルドに身を寄せていたのだと悠李は納得したが、その心情を思えば、ただ心が痛んだ。
「悲しみに暮れたが、老いが進まなかったのが不思議なぐらいだ」
本来ならば、精神の衰弱は老いへと繋がる。
「……蚩尤様は、使命を果たしたのに、命が尽きないと言っていました」
祝融は、項垂れた。表情は見えなくなり、悠李は戸惑いながらも隣に座り、そっと祝融の肩に触れた。
まだ聞きたい事はあった。だが、それ以上は何も聞けなかった。
「四海竜王の恨み言は忘れろ。藍には神託だけ伝えれば良い」
「……はい」
「頼みが有る」
「何でしょうか」
祝融は、僅かに顔を上げ、その目を悠李に向けた。
「……できる限り、蚩尤の側にいてやってくれ」
そう言った男の顔は、悲嘆を浮かべていた。それが指す意味を、悠李は知りたくなくとも、目を逸らすわけにはいかなかった。
「……勿論です」
悠李の心に不安がよぎる。まだ、大丈夫だ。そう、自分を納得させるしか無かった。