十三
白い景色が広がっていた。途方もなく続くそれに、悠李は辺りを見渡すも、此処がどこかも分からなかった。
ただ、なんとなく、夢という事だけが理解出来た。あの夢で無くて安心したが、どうして良いか分からず、戸惑った。
『夢には意味が有る』
ふと、祝融が放った言葉を思い出した。どう捉えるかは本人次第だが、意味が有るというならば、この夢はどんな意味が有るというのだろう。
考えたところで、見渡す限りの白に、悠李は意味などわかるはずもなく、その場に寝転がり天を見上げた。
そこも変わらず白が続き、これといって面白味もない。はっきりと夢とわかるのに、なんの変化も無いそれにお手上げの状態だった。
「何かしら、現れれば良いのに」
ポツリと呟いた独り言の筈だった。
「何がと聞くべきかえ?」
突如降り注いだ言葉に飛び起き、声の方へ警戒し構えたるも、目に映ったものを見て悠李は驚きを隠せなかった。
そこに佇んでいたのは、自分と全く同じ姿をしたものだった。
「お前は誰だ」
自分に誰と問いかけるなど、荒唐無稽にも思えるも、それしか言葉は出てこなかった。
「誰、かなど重要では無かろう」
自身よりも余程、淑女や貴婦人と言える様を見せる。鏡では無い、自分ではない、誰か。
「さて、困っている事が有ろう」
自分が別人の様に同じ声で語り掛けてくるなど、不気味でしか無いが、悠李の心情を理解していないそれは、淡々と話し続けた。
「四海竜王と対話する事ぐらいは、力を貸してやれるが如何様かえ?」
悠李にも、それが語り掛けている事が、何を指し示しているかが理解できた。
「何故、私に?神子ですら無い」
「そなたになら、私の姿を晒す事も許容出来る。それだけよ」
「答えになっていない」
それは、にこりと笑った。
「親子そろって、警戒心の強いことよ」
その言葉が指す親とは、実の両親か、それとも戸籍上の親か。この地で会った者ならば、答えは後者だろう。
「祝融様と会ったことがある様な言い回しだな」
「まっこと、つまらん男であった。あの男には、もう会いたくは無い」
それも、答えでは無かった。
答える気は無い、それに、悠李は諦めるしかないと、息を吐いた。
「それで、四海竜王はどうやって話せば良い」
「そなたが行くしかあるまい。神域で、真っ当に過ごせる者など、そうはおるまいからな」
「行くって、どこに」
その言葉を口にして、悠李は気づいた。四海竜王がいるとされるのは、青海。しかも、真っ只中だ。
「気が付いたか。船まで用意したのじゃ、あちらも来いと言っておる」
遠回しであったが、悠李は、魔術師達がこちらに来れた理由が分かった気がした。
彼らは、利用されたのだ。
「ならば、何故生かして、あれらをこの地まで運んで来た」
「この国の者達に対して、ささやかな手土産じゃ」
神の考える事など、到底理解が出来ない。はっきり伝えれば良いものを、わざわざ分かり難く言っているように思えてならない。
「そうか、お前はこの国で生まれておらんから、分からんか」
悠李は考えた。自分が知っていて、この国の者達が知らないもの。
「……危機感か」
「この国が、外界にとって未知である様に、こちら側から見た外界も、また同様。それが理由じゃ」
悠李は、正直最初から手緩いとは感じていた。他国ならば、百名もの魔術師が来訪したとなれば、即刻殺害命令が下されるだろう。それが、保護か討伐か悩み、監視とした。仕方が無いとはいえ、手順もなく手間取り、戸惑っていた。
だが、その危機感を与えたのならば、それは、これからそういった時代が来る事を意味する。
「……この国の封は解けるのか?」
「さあの、とにかく一度、四海竜王に会ってみよ」
「待ってくれ、船は私一人では動かせない」
あれだけ大型の船など、動かし方も知らなければ、知っていた所で動かしようもない。
「安心せい、乗れば、お前を導く」
それは、悠李に近づき、手で悠李の頬を覆った。
「そこまで、お前に伝えて、何故全てを話さない」
「妾に伝えたのでは、意味が無い。四海竜王の身元まで行った者が必要なだけじゃ」
悠李は神子では無い。夢に、正体が分からぬものが出たと伝えたところで、誰も信じないだろう。
何より、今回の件で、四海竜王に対して、欺瞞が生まれている。この国の生まれですらない、悠李の言葉を神の言葉と信じる者は少ないだろう。
「……私が行かなければならない理由は分かった。船に乗れば良いのだな」
「良い子だ」
それは、悠李が幼い子供かの様に頭を撫でた。自分に頭を撫でられるなど気味が悪い、その一言に尽きる。
「素直な子には、褒美もやろう」
「褒美?」
それは、また笑った。
「そなたを苦しめる夢から、解放してやろうではないか」
悠李は目を丸くした。願ってもない事だった。
「出来るのか?」
「……出来る。少々、手荒いがの」
「何をする」
それは、今度は不気味に笑った。
「そなたの記憶に染み付いた、あの男を殺せば良い」
そう言って、それは、悠李の目を掌で覆い隠した。
その瞬間、暗闇が訪れた。
悠李は、辺りを見渡し、それの気配も無い事に気がついた。ふと、そこがあの夢の中である事、手に、いつもの冷たい感触がある事にも。
騙された。そう思えてならなかった。
階段の先から、灯りが見えた。
あの男だ。
角灯の灯りで照らされた、その顔は、変わらず下卑た笑みを浮かべていた。
「今日は、大人しいんだな」
男は、牢の鍵を開けて近づくも、今日は何も用意ができなかったと、残念そうにぼやいた。
「せっかくの楽しみが無くて残念だな」
悠李はただ、その男を睨んだ。どうやって殺せば良いか、分からない。手枷は変わらず頑丈で、外れる様子もなく、耳慣れた金属音だけが妙に響くだけ。
期待しただけに、より悠李に絶望を与えただけだった。
「だから、少し、じっくりやろうと思うんだ」
男は、悠李の胸元に手を伸ばし、いつものように魔素を掴んだ。そして、それを握りしめ、抜き取る事はせず、苦悶を浮かべる悠李をただ見た。
「……うぅっ……」
呻き、苦しみ、もがく。
何も変わらない。何故、あんな事を言ったのか、悠李はただ恨めしく思った。
結果が変わらないのであれば、何も言わないで欲しかった。
ひたすらに時間をかけ、楽しむ男の笑い声だけが、耳に響き続ける。永遠とも思える苦痛な時間。
不意に男は、手を止め、悠李から離れた。
残り火の様に、僅かにじんじんとした痛みが続く中、悠李は不審に思い男を見た。
突如、男は何かに苦しみ出したかと思うと、男の左腕に火が着いた。火は瞬く間に全身に行き渡り、男を包み込んでいく。
猛々しく燃え盛る炎に、男はこの世の物とは思えない声をあげ続けた。両手で顔を抑い身悶える姿に、悠李は言葉も無く、唖然としていた。
やがて、火は男から燃え移り、悠李以外の全てが燃え始めた。石造の牢も、鉄格子も、手枷も。
およそ燃えるはずの無いものまで、炎に包まれていた。
――
酷い痛みが、左腕に走った。声すら出ない程の痛みに、悠李は悶えた。
「祝融様、水を持ってきました!」
瞼を開けると朧げな意識の中、悠李の霞む目にその場にいて欲しくない男が映っている。だが、そんな事よりも、尋常じゃない痛みが悠李を襲っていた。
痛む左腕を庇おうとするも、それも男によって止められた。
「触らない方が良い」
漸く、視界がはっきりとし、申し訳なさそうにしている主の姿がはっきりと瞳に映った。
「悪いな、これぐらいしか思いつかなかった」
そう言われ、はっきりとした視界に映った左腕は、リショウ程ではないにしろ、焼け爛れている。主の憔悴した顔と合わせれば、主人が何をしたかなど、考える必要もないだろう。
呆然と火傷を見つめていると、花月が濡れた布をゆっくりと傷に当て始めた。花月は、悠李の腕を水で冷やしながら、申し訳ありませんと小さく呟く。今にも泣きそうな目を潤ませながら。
「二度と、目を覚まさないかと思いました」
震えた声は、本気で悠李を心配していた。よく見れば、部屋は明るく、日が昇っている。それ程長く、悠李は悪夢に魘されながら、眠っていたのだ。
「蚩尤に多少は聞いていたが、これ程だったとはな」
花月は、どうやっても悪夢に魘されたまま目覚めぬ悠李を危険と考え、祝融下へと駆け込んでいた。
「……大丈夫か?」
主もまた、顔を歪ませていた。その顔は、花月同様に、本気で悠李を心配している。
知られたくはなかった。精神に異常をきたした者は、軍に所属出来ない。
悠李は只、手に入れた居場所を失いたくないだけだった。
「祝融様、私は、軍を除籍せねばならないのでしょうか」
目覚めて、最初の言葉がそれだった。
祝融は大きく息を吐いた。
「……安心しろ、第一声にそんな事を口走る女が、精神異常者などでは無い事ぐらい、俺でも分かる」
祝融は、悠李の腕を見た。治るとは言え、自分にはどれ程の痛みなのかも、分からないそれが、ただ痛々しかった。
「花月、後は俺がやる。少し外してくれ」
「でも……」
「後で呼ぶ。それまで、外にいろ」
花月は躊躇うも、言葉に従い部屋を出ていった。
「昨日、魔術師の命を喰らったのは、これが原因か?」
濡れた布で、悠李の腕を労わりながら、祝融は悠李の顔をはっきりと見た。
「……ただの記憶が、私に苦痛を与えに来ます。幻に怯えるなど、馬鹿げているでしょう?」
呆然と祝融を捉え、珍しくも自身の弱さを曝け出す姿は、死に怯える人と何ら変わりは無かった。
「いや、思ったより、お前が普通だと感じた」
静かに呟く姿が、悠李には、いつも堂々としている男とは別人に見えていた。
「お手数をお掛けして申し訳ありません」
「目覚めないからと、腕を燃やされたんだ。怒って良いと思うぞ」
「その権利は私には、ありません」
その言葉に、祝融は、またも息を吐いた。
「俺を薄情者にしたいのか?」
「……意味がわかりません」
祝融は主人で、自分はそれに付き従う者だ。実際に手を煩わせているし、何をされた所で、逆らう権利は無い。
「俺は、お前も身内と数えている。娘とは思えないが、心配はするし、説教をくれてやるぐらいの情は持ってる」
身内が傷ついたり、貶められたりする事を酷く嫌う男である事は知っていた。
その勘定に、悠李は含まれていないと、勝手に思っていた。そんな悠李に気づいてか、祝融は胸の内に溜めていたものを吐き出した。
「俺は、身内や友人を失いすぎて、これ以上失うものを増やしたく無かった。お前を戸籍に置いたのは、建前と言い聞かせていたが、付き合いが長くなるとな……」
悠李は呆然と祝融を眺めた。この男に線引きをしていたのは、自分の方だったと、漸く気づいた。
「私を、有効利用できる存在と考えているかと……」
「確かに、当初はそう考えたな。蚩尤の為でもあったしな。同情で戸籍に入れるなど、そうは出来ない」
従順であれ。師が自分に言った言葉だった。
従わなければ、痛みを与えられた。他に意識を向ければ、消された。恐れる存在を前に、抵抗など、出来なかった。
だから、主である祝融にも、そう有るべきだと思っていた。祝融が温厚で、決して悪戯に手を上げる様な者で無いと知っていても、それは変わらなかった。
「……私は、ずっと過去に囚われたままだった様です」
「好きに生きろと言っただろう。俺が主である事に変わりは無いが、自分を物の様に扱うのは止めろ」
「はい」
「蚩尤は、お前の意志を汲み取るからこそ、今回の様な事を口にする事は無い。お前が、自分で伝えるしか無い」
「はい」
「悪かったな、気づいてやれなくて」
それは、今日の事だろうか、それとも、従順な姿勢を向け続ける理由にだろうか。
どちらにしても、忠義を尽くすべき相手を無情な師と重ねていた自分こそ、悪辣であったと思うより他無かった。
この国が夢の様だと宣って、夢を彷徨い、過去の悲劇に浸っていたのだ。
祝融は手を止め、花月を呼んでくると、立ちあがろうとした。
「待って下さい」
悠李は痛む腕を庇いながら、身体を起こした。
「どうした」
「もう一つ、夢を見ました」
悠李は、自分の姿をした何かの夢を全て話した。真偽が定かでは無いそれを話すのは、如何なものかと思っても、夢に意味があるのならば、話す事は必要だろうとも考えた。
「……昨日、女神の末裔という話を聞いたから、この様な夢を見ただけなのでしょうか」
悠李には、それが神託なのか、ただ自分が作り上げた空想なのか。判断を他人に委ねるしか、区別する方法が無かった。
祝融は思い悩むも、流石に判断しきれないと、口を開いた。
「それが本当なら、船に乗ってみるしか無いが……」
祝融は顔を曇らせた。
神が用意した船、招かれた客人達、そして選ばれた者。神の掌の上で転がされているような気がしてならなかった。
神は気紛れだ。目的があって、招いているのだろうが、それでも全てを悠李一人に任せる訳には行かないと、祝融は独り納得した様に頷いた。
「俺も同行しよう」
招かれてはいないが、悠李にばかり負担をかける訳にはいかないと、祝融が述べた言葉に悠李は戸惑った。
「でも、神域には……」
悠李は神域の怖さが、その身では分からないものの、人には毒だとは聞いている。そんな場所に、主を同行させるなど、到底させられないと狼狽えた。
「俺も多少なら耐性が有る。四海竜王の下に辿り着く前に倒れたら、存分に笑えば良い」
倒れたら笑い事では済まされない。祝融は、姜家当主だ。祝融が心配するのも無理はないが、立場で言えば、悠李が祝融を守らねばならない。
祝融の立場を考えても、戻るまで待っているべきだ。
「祝融様の立場なら、普通は下僚に任せ、指示に徹するべきでは?」
「無駄に頑丈に生まれてきた、この身を存分に使っているだけだ」
「祝融様に何かあったら、私は姜家の方々に顔向け出来ません」
「俺が無謀な事など、皆知っている」
悠李は、正論で返していたつもりだったが、祝融の方が上手だった。丸め込まれたとしか言いようがなかったが、それ以上返す言葉が、悠李には思い付かなかった。
「祝融様の身を危険に晒したと、蚩尤様と共工様にお叱りを受けそうです」
悠李の溜息と共に出た言葉に、祝融は高く笑った。
「馬鹿を言え、どちらもお前を信頼している。無茶をしたと言われるのは俺だ」
明るく振る舞う祝融の姿に悠李に一つの想いが浮かんだ。
この方の為ならば、危険に身を投じる事も厭わないと。
今しがた、祝融に自身を物扱いするなと言われたばかりだが、この死を持たぬ身体など、幾らでも利用してやる。そう決意した。
不安が消え去った悠李の顔に、祝融も安心したが、ふと、火傷を負った悠李の腕が目に入った。
「……やり過ぎたのか?」
悠李も思わず腕に触れた。痛みが続いていたのはわかっていたが、微塵も治る気配が無い。
「花月を呼んでくる。治らないのであれば、薬が必要だ」
和やかな雰囲気が一転、不穏なものになった。悠李は治らない、という事を経験した事がなく、ただ傷を見つめ、言葉を失っていた。
祝融は冷静を装いながらも、内心穏やかでは無かった。不死身で有る悠李は傷を負っても、立ち所に治っる。それは、今迄幾度となく目にし、心の臓を貫かれた時すら、僅かな間に息を吹き返し、起き上がっていた。
「(今迄と何が違う)」
祝融は部屋の外で待っていた花月に医者を手配する様に命じると、花月は何かを察し、颯爽とその場から離れていった。