九
まただ。また、ここに来た。
何も見えない暗闇の中で、ユーリックは、辺りを見渡した。
何故、ここに来てしまうのだろう。鉄の感触も、冷たい石の床も、今では慣れたものだ。夢の筈なのに、昔感じた感覚を覚えているせいか、その感触は夢とは思えない程に鮮明だ。
あの頃と違うのは、恐怖だけ。
十年の歳月を耐え抜いたと言うのに、何故こんなにも怖いのだろう。
コツコツと、階段を下る音が近づいている。その音が近づく程に角灯の灯りが段々と大きくなり、あの男が現れた。
これは夢だ。夢なら、思い通りになっても良いはずだ。ユーリックは鎖を引っ張るが、外れる気配は無い。何の意味の無い行為に、また、男は笑った。
「よくやる。俺は殺せそうか?」
男の挑発に、恐怖より殺意が勝る。
ユーリックは踠いた。せめて、夢の中でぐらい、この男を殺したい。
湧き上がる殺意を抑えきれず、ユーリックはがむしゃらに鎖を掴み、力を込めた。だが、びくともしない。
そうしている間に、男は牢の鍵を開け、ユーリックに近づいた。
「今日は、これを持ってきた」
そう言って見せたのは、透明の小瓶だった。角灯の灯りに照らされ手も、はっきりと中身の色がわからないが、碌なものでは無い事だけは、男の表情が物語っている。
「口を開けろ」
そう言われて、素直に従う馬鹿が何処にいるのだろう。勿論、ユーリックもその口を固く閉ざし、反抗の態度を見せると、男は分かりやすく盛大にため息を吐いていた。
「まあ、そんな事だろうとは思った」
男は、小瓶とは別に、一つの木箱をユーリックの目の前にチラつかせる。わざとらしく、ユーリックに見せつけるように箱を開けると、中には入っていた注射器を取り出した。
「高かったんだ。針を折ってくれるなよ」
男は、小瓶の中身を注射針に吸わせると、ユーリックの腕を掴み、血管に突き刺した。
そうして暫くも経たないうちに、血管の中を駆け巡る刺すような痛みが、腕に広がった。やがてそれは全身を巡り、刺すような痛みと共に、身体中で火で炙られている様な痛みに変わる。手を握り締め、歯を食いしばり、目を閉じ、滝の様に汗が流れた。
痛い。痛い、痛い、痛い。
身体中が痛みで支配され、ひたすらそれを耐えた。
早く、終わってくれ。
これは、記憶だ。過去に、同じ痛みを味わった記憶が、夢となって現れただけだ。
「なあ、ユーリック。楽しいなあ」
その言葉は、痛みに耐えるユーリックにもよく届いた。この男は、壊れている。
昔は、どうやって耐えていただろう。どうやって、この男の言葉を聞き流したのだろう。
長く、幸福を感じているうちに、忘れてしまった。
どれだけ痛めつけられようが、詰られようが、辱めを受けようが、全て気にもならなかったのに。
ユーリックが苦しむ様を見届けた男は、ユーリックの胸元に手を伸ばした。痛みが終わりつつある中、息も絶え絶えに、ユーリックはそれに抵抗する力すら無かった。
魔素が取り出され、毒とは比べ物にならない激痛に、ユーリックは気を失った。
――
「……り……ま……悠李様!!」
目を開け、呆然と声を掛ける人物を見上げた。
赤い髪。これは、誰だったか。
綺麗な金の瞳が、月明かりに照らされ美しく輝いている。初めて見る特徴に、悠李は、何気無く手を伸ばした。
「悠李様、お気を確かに!」
「(ユウリとは、誰なのだろう)」
視界がはっきりとし、身を起こし、悠李は辺りを見渡した。
「悠李様、申し訳ありません」
その言葉と共に、悠李の左頬に痛みが走った。
じんじんと痛むそれに、漸く平手打ちをされたのだと、気づいた。そして、目の前にいる人物が、侍従の花月である事も。
「……花月、ごめん」
何故、起きて直ぐに花月と気付けなかったのだろう。丹を離れてからは、毎日顔を合わせている。彼女の背に乗り、藍まで来たというのに。
悠李の侍従として、長い付き合いでもあるが、花月は今までにないぐらい、不安な表情を見せていた。
「悠李様、一度、お医者様に診てもらいましょう」
花月は、隣室で、呻く声に目が覚めた。一瞬、不審な者かとも思ったが、それならば悠李が気づくはずだ。蚩尤から、悠李の様子を見るように頼まれていたのもあり、花月は悠李の部屋を除いた。
花月は悠李の姿を見て、驚いた。いつも勇ましい彼女が、眠りながら何かに怯え震えている。蚩尤の心配はこれだったのだと、慌てて悠李を揺り起こしたが、目覚めない。
何度か声をかけ、漸く目覚めたかと思えば、目は虚で、自分を捉えていない。花月は、まさか主人の頬を叩く日が来るとは、夢にも思っていなかった。
「ただの、夢だ」
「この事を祝融様は知っているのですか?」
「知らない。言わないで欲しい」
祝融にとって、悠李は手段の一つだ。面倒事を増やすのは、好ましいとは言えない。
「でもっ……」
「花月、迷惑かけて御免なさい。でも、これは命令と思って」
悠李は、花月に頼み事はしても、命じた事は一度もない。花月は痛ましい姿の主人を想って祝融に言うべきだとは思っても、堪えるしか無かった。
「分かりました。でも、丹に戻ったら、お医者様には診て貰って下さい」
「……分かった」
「着替えた方が良いですね。朝になったら、女官の方々に、お湯を沸かしてもらいましょう。風呂に入れば気分が良くなります」
酷い汗だった。きっとあの夢の所為だろう。夜も風呂に入ったというのに、女官達に少しばかり申し訳なく思えたが、明日も蒼公や蒼家の方々に会う。このままでは、少々拙いのは確かだ。
悠李はもう大丈夫だと言って、花月を自室へと押し戻した。
「(眠れそうに無い)」
いつもなら、蚩尤が居た。彼が大丈夫だと、ただの夢だと諭し、その腕の中でいつの間にか眠っていた。起こしては悪いからと、別の部屋で寝ると言っても、彼は首を縦には降らなかった。
「(甘えていたな……)」
悠李は汗まみれになっていた寝巻きを着替えると、部屋に備え付けられていた椅子に座り、窓から見える月を眺め、朝になるのを待った。
――
悠李は用意された朝食に、少しばかりため息をついた。
出された料理は魚の干物。昨日の夕食も肉料理。
せっかく海近くに来たというのに、新鮮な海魚が出てこない。漁師が漁に出れないのだから、仕方が無かったが、こればかりは不満だった。
「以前食べた、魚がまた食べれると思っていたのに……」
仕事とは言え、山ばかりの丹から、藍に来た唯一の楽しみでもあった。
「また来れば良い、どうせお前らの趣味は読書か旅行だろう」
蚩尤と悠李は、時々長い休暇を取っては旅行に出かけた。
悠李にとっては、珍しいものばかりだったが、永く生きる蚩尤は、これと言って珍しいものはなく、付き添っているに過ぎなかったが、その表情は、いつも満足気だった。
「蚩尤もよくやる、行くところなんぞ、もう無いだろうに」
祝融は呆れた。蚩尤が、悠李の為に旅行に出かけているのも知っていた。
「今度は、どこに行くつもりだ」
「雲ですね。間に合えば、祭の時期かと思いまして」
「白神の龍の祭か」
祝融は、それを何度か見た事があった。丁は街並みだけでも、美しいと有名だが、その中を白銀の龍が駆け抜ける。
白家は、白神の龍と繋がりが深いのもあって、雲では一番盛り上がるものでもあった。
「確かにあれは、見ものだ」
「私は、まだ見た事が無いので、是非行きたいです」
仕事が忙しかったり、蚩尤と予定が合わなかったり、丹を離れる事もできない時もあったりと、中々行けずにいる。
だから、今度こそはと祝融をじっと見た。
「なので、お願いしますね」
和かな笑顔を見せる悠李に、祝融は目を逸らした。その願いを叶えるには、祝融は息子を説得しなければならない。
「(どうやって説得するかな……)」
親子ではあるが、お世辞にも仲が良いとは言えない。話も仕事の事しかせず、最近は専ら悠李の下僚になった孫娘の勾の話ばかりだ。
家族らしい会話などなく、その感情も久しく乏しい。身内としては、大事に思うが、親子には遠い。共工も、祝融の事を名前で呼ぶので、余計に距離は離れていた。
唯一、孫娘の勾が「お祖父様」と呼ぶので、それは純粋に可愛いがれるが、他はお世辞にもそれとは程遠い。
ふと、その勾で思い出した。
「そういえば、勾は説得できそうなのか?」
祝融の言葉に、悠李はじとっとした目線をそちらに向けた。
「元はと言えば、祝融様が許可されたのですよ」
その目に堪えきれず、祝融は思わず目線を逸らしていた。それもその筈、悠李の言葉通り、うっかり口を滑らせたのは、祝融自身だったのだ。
勾は、軍部に入る前、共工と共工の妻である翠玲に反対されていた。いくら才能があっても危険があると諭そうとしたが、共工に似て頑固で自分の意志は曲げない。
二人に育てられ、甘やかされてはいない筈だが、周りは歳若い勾を可愛がった。それは、悠李にも当てはまる事でもあったが、祝融も同じだった。
祝融には、もう一人、脩という孫息子もいたが、既に成人し文官として才能を見出し、早々に皇宮へと行ってしまった。時々、ひょっこり帰ってくるが、そっけない。
それに反して、勾は人懐こく、子供らしい面が目立った。それも、可愛がられる一因だったのだろう。
悠李が丹に来た時には、まだ幼かったが妙に悠李に懐いた。
最初こそ、子供に慣れない悠李は戸惑ったが、人懐こい勾を次第に可愛い姪だと言った。成長しても、それは変わらなかった。鍛錬場を訪れては、勇ましく武官等と肩を並べる悠李を見ては、いつか自分も武官になるとまで言い始めたのだ。
だが、子供の言う事とさして誰も否定をしないでいたものだから、放っておいたら、成人と共に軍部に入ると言い出した。
ある程度、剣を握らせてはいたが、身を守る術を身につける為のもので、武官にする為では無かった。
周りは大慌てだった。誰もが、危険だ、後継としての勉学に励んではどうかと言って、勾が軍部に入るのを止めようとする。父然り、母然り、それが従兄弟叔父叔母と来て、諸侯まで同じ事を言う。
ならばと、勾は最終手段として祝融を頼った。
祝融は基本、本人がやりたい事に口出しはしない。姜家として、責を持った生き方ができるのであれば、好きに生きれば良いと言う、若干に放任気味な考えだった。
ただ、これには祝融も頭を悩ませた。周りが反対しているのは知っていたし、妖魔が出なかった時代は終わった。次にどうなるかなど予測もできない中に、可愛い孫娘を軍へ放り込んでい良いものか。と、悩んだが、本人は妙にやる気だ。
物は試しと、とりあえず入ってみるかと、つい。そう、つい言ってしまったのだった。
祝融の言となると、あっさり通る。
軍部を取りまとめる玄瑛は、せめて、慣れた人物と言う事で、悠李の補佐官に任命されたのだった。
「いやぁ、勾に言われるとな……」
どれだけ厳正たる世界で生きている男だろうと、孫娘には甘かった。普段の威厳は何処に行ったのかと思う程、その姿は動揺している。
「出来れば、私も勾は軍部に居て欲しくは無いです。一度、思い知る事が無ければ、勾は軍に留まり続けますよ」
「……そうか」
「共工様に、厳しくしろと言われました。根を上げるのを待つしかありません」
悠李が厳しくしたところで、高が知れている。きっと、何かしら身の危険か、怖さを知るまで辞める事は無いだろう。
「うっかり言っちまったなぁ」
祝融は頭を抱え、項垂れた。とても、当主の言葉遣いとは思えないが、悠李は聞き流し、食後のお茶を啜っている。
「今の所、妖魔程度では、難なくこなしています。暫くは様子見です」
「分かった。俺はまだ暫く翠玲の冷たい目に耐え続ければ良いんだな」
許可を出したのが、祝融と知れて以来、翠玲は事ある毎に祝融を睨んだ。当主に対して有るまじき行為だが、こればかりは祝融も耐えるしか無かった。
元老院の会議での張り詰めた空気でなら、疎かな発言などしない自信がある。緊迫した空気が有るからこそだが、なのに何故と、後悔ばかり。
いつまでも落ち込む祝融に、時間だと、悠李は告げた。
「そろそろ行きましょう」
「ああ」
悠李の言葉で、祝融はため息を吐きつつも、立ち上がると、がらりと切り替わったのか、顔付きはいつもの厳格な様を取り戻していた。