天が降る(前)
「ふむ。そこは 潔 いのだな」
「勘弁してくれ、礼儀は教わってねえんだ」
これは本当だった。
全てを 武林 で学んだ訳ではない。
そこに自分を誘ってくれたのは、礼儀を気にしない人だった。
――義を軽んじる者でなければ、それで足りる。
――言葉づかいは、その後でも遅くはない。
――この者の身は、わしが預かろう。
反対の声を、そうして押し切った。
大きな考えの人だったと、山民は思う。
「もっとも、教わったところで相手は選ぶがね」
その恩師も、今はとうに亡い。
礼儀について教わる時間がなかった。
そう言ってもいいだろう。
「礼儀はどうでも良いが――まずは座れ、若いの」
「だから、俺には山民って名前が……」
「では山民、座れ」
一応、譲ってはいる。
少なくとも、そのつもりではあるのだろう。
ここで何か言ったところで、話は進みそうにない。
やや理不尽を感じつつも、山民は座った。
「そのまま、こちらに背を向けてくれるか」
「二度目の怪我はゴメンだぜ」
「お望みとあらば」
今度は素直に背を向けた。
敵意がないのは明らかだからだ。
そのまま、師尊は傷跡を調べていく。
「――ふむ。動いて開くでもない、治り具合はまずまずだ」
「秘術、てやつかい」
「そうでもない。まだ知られてないだけだ」
卑下とも謙遜とも言いがたい。
淡々、事実を述べる口調だった。
「秘があるとすれば、針と糸を煮ることだろうな。むろん、傷を縫う前に」
「わざわざ道具を?」
「さもなくば、傷が膿む。だがこの様子なら、心配はいるまい。もう良いぞ」
山民は肌着を直し、向き直る。
そこでようやく、己の服が縫われていることに気付いた。
着慣れた衣服を直したのは、目の前の者以外あり得まい。
と言ってことさら、恩を着せるでもない。
その素っ気なさに、山民はかえって好感を抱いた。
「あんたが大丈夫と言うなら、安心して良さそうだ。……しかし、分からねえ」
「ふむ? 何がだね」
「こいつが、だ」
右手を曲げ、背の方を指した。
そのまま、指で振り下ろす素振りをとる。
「不覚をとったのは分かる。だがいったい、何に対してだか」
殺意悪意で、己に感知できぬものはない。
自らそう認め、事実そうであった。
では、あの不意打ちはなんだったのか。
人でも獣でも、そこに意があれば察せたはずである。
かすかに覚えていることと言えば、ひとつ。
倒れて意識を失う間際の、焼け焦げたような匂いだけだ。
「ふむ、なるほど。知りたいのか」
「出来るのなら、な」
「――天が降る、との故事がある」
「あん?」
「昔の話だ。ある国の者は、今にも天が降ると思い込み、眠れぬ夜を過ごしたという」
「損な性分だな、どうあっても気のせいだろ」
「もちろん、気のせいだ――たいていの場合は」
静かに、白師尊は夜空を指した。
星また星が、一面に散らばっている。
人里の明かりは遠く、光はいっそう瞬いて見える。
「つまり、だ。天の星の中には、石で出来ているものもある」
「訳が分かんねえな。第一、そんな所に石ころがあったら……」
はたと、山民は気づく。