師尊(シズン)
夢の中のことと、山民は気付いていた。
助かる道理などもはや無い。
ゆえに、夢を見ているのだと。
――されば汝よ、何を望む?
月の大きな夜であった。
二十年に一度、月は大地に近づくという。
潮は高く波はうねる、そんな夜だ。
はるか遠くを望む、特別な鏡もあるとは聞く。
しかし、と山民は思う。
今日という日は、そんな鏡を必要とすまい。
そう感じさせるほど、月は大きく近づいている。
いっそ斬れるとさえ見える月。
世に言う、斬月がそこにあった。
そんな月を見て、刀を手に取った。
構えた刀を、天に向けた。
そして。
そして不意打たれた。
ただただ、それだけのこと。
一度は世を捨てた身だ、未練など無い。
野を行き山を駆け、必要とあれば奪う。
奪う側であった、つい先刻までは。
未練など無い。
己の番が来た、ただそれだけのことだ。
未練など無い。
それでも、この夢は分かりかねた。
――されば汝よ、何を望む?
これは夢だ。
夢ならば覚める。
常なる夢ならば、現し世へと。
しかし、この夢は。
――されば汝よ、何を望む?
ようやく、山民は察する。
この問いは、止むことがないのだと。
答えぬ限り、決して止むことがない。
すなわち、答えぬ限り、覚めることもない。
――されば汝よ、何を望む?
開かぬ眼。
握れぬ手。
尽きぬ問い。
それでも。
それでも、覚めることはないはずだ。
繰り返すこの問いに、自ら答えぬ限り。
――されば汝よ、何を望む?
――月を。月を斬る刃を。
そして。
そして、山民は目覚めた。
・
確かに、世を去るはずだった。
深く斬られ、生き延びた者はいない。
与太ではない、単なる事実だ。
深く斬られたなら、血を流し息絶える。
辛うじて塞がったなら、傷口から弱り、やはり息絶える。
果たして、己はどうだったか。
山民は自問する。
背を走る熱い感触、ついで鼓動。
やがて何かがこぼれ、冷めていく感覚。
覚えているのはそこまでだった。
深く斬られたなら、結局は息絶える。
例外はない。
知る限り、そのはずだった。
身を起こし、背中にあるはずの傷口を確かめる。
真っ直ぐ伸びる、固まりかけのかさぶた。
その端々に走る、おそらくは何十もの糸。
山民は思い出していた。
蚕の糸で傷口を縫う、そんな秘術の話を。
やがて両目が、明かりを取り戻していく。
森の奥、わずかに開けた空き地。
そこそこの焚き火跡は、かつての旅人たちの足取りだ。
そんな空き地で焚き火をおこす、ひとりの者の背中。
山民が導き出すは、ただひとつ。
「――地獄の沙汰はいつだ、閻魔様よ」
「ふむ、目覚めたか、若いの」
振り向かず、小柄なその者は答える。
存外、良い響きであった。
飾りのない、よい声ではある。
しかし威厳とは程遠い。
「”若いの”じゃねえ、山民だ」
「名は覚えた」
閻魔にしては素っ気ない。そして若い。
男とも女ともつかぬ、良く通る声だ。
となると、目の前のこの者は。
白き衣を身にまとい、火を灯すこの者は。
どうやら、と山民は思う。
己の推測は外れたらしかった。
「閻魔じゃないなら、何だ」
「師尊、と呼ばれている」
何とも、ふざけた言い回しだった。
名乗ってはいる、けれども真名では恐らく無い。
なぜならそれは、ただの尊称だから。
「師尊……さんよ、俺の背中のこいつは、あんたの仕業かい」
呼び捨てにしかけ、思い留まる。
恩を受けたのであれば、仇で返す道理はない。
礼を返上するのは、確かめた後でいい。
「気に入らないか」
「あんたの仕業か、と聞いているんだ」
「ああ」
相手は振り向こうともしない。
それでも、山民は深く頭を下げた。
「助かった。礼を言わせてくれ」