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夏の呪いとラムネ色の海  作者: Hiroko
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「うん。そうする」私はそう答えた。「五分だけ待って。着替えてくるから」私はそう言い残して、自分の部屋に戻ってまともな服に着替えた。鏡を見ると、なんだかひどく疲れた顔をしていた。軽く髪を櫛で梳き、お風呂場で顔を洗うと、少しはましになった。

本音を言うと、裕二と家で過ごしたかった。

暗くて静かなところで、二人でいたかったのだ。

なににも邪魔をされたくなかった。

ほんの少しの音でさえ、今の私には煩わしかった。

ただ、裕二の声に、耳を澄ませていたかった。

けれど、それではいけない気がした。

ここから出なければ。

暗い場所から、外に出なければ。

「ごめんなさい、待たせちゃって」

「いや、大丈夫だよ」そう言うと裕二は玄関の扉を開けた。

一気に夏の光に包まれる。

それで気分が全て晴れたわけではないけれど、吸い込む熱気を帯びた空気とともに、心の中のもやもやしたものが徐々に透明になっていくのを感じた。

白くて小さくて余計な飾りの何もない、こざっぱりした車だった。

私は車のことはあまり詳しくないので名前とかは全然わからない。

けれど裕二の趣味の良さがわかる車だった。

「これからどこに行くの?」私は助手席に乗り込むと聞いた。

「海沿いの道をしばらく走ろうと思う」裕二はそう言いながらエンジンをかけ、車を発進させた。「今の時期は海水浴客が多いからね、海の近くは混むのだけれど、地元の人しかいかないような砂浜があるんだ。そこに行こう」

私はどこでもよかった。独りで暗い部屋で泣いているよりは。

裕二の横顔をそっと見つめた。

日に焼けた肌に、まっすぐ眩しそうに前を見つめるその目はなんだか、私の立ち入ることのできない遠い場所を見つめているようで少し不安になった。

私はいま、この人のことをどう思っているのだろう。

ねえ裕二……、そう名前を呼ぼうとして、突然の雨の音に私の声はかき消された。別に構わなかった。その後、なんて言おうか決めていなかったから。

「降り始めたな……」裕二のその言葉を皮切りに、雨はまるでこの地上を平らな土地に変えてしまおうとでもするかのようなすさまじい勢いに変わっていった。

「これだけ降ると、逆に気持ちいいね」

「あはは、そうだな」そう言って裕二は笑った。

私は裕二のそのほんの少しの笑い声に気分を良くした。

「ねえ裕二?」今度は少し声を上げて言ってみた。

「なんだい?」

「もし学校の生徒の誰かに私といるとこ見つかったらどうする?」

「どうもしないよ。もう関係ない。学校のことは」

「本当にそれでよかったの?」

「ああ。俺には向かない。教師なんて固い仕事は」

「けど、けっこう人気あったんじゃないの? 私、裕二の授業受けてなかったけど、なんとなく噂は知ってたよ?」

「ええ、本当に!? どんな噂?」

「言わない!」

「なんでだよ」そう言って裕二は笑った。

「他の女の子が裕二のこと褒めてるの、なんか癪だから」

裕二は何も言わずにちらりと私の顔を見た。

その一瞬で、裕二は私の心の何を読み取ったのだろう。

私は裕二に、何を伝えることができたのだろう。

「学校やめて、どうするの?」

「さあ、どうしようかな」

「何か考えてるでしょ」

「ああ、まあね」

「教えてよ?」

「バイクが直るのを待って、しばらく旅に出ようと思う」

「旅?」

「ああ」

「どこに?」

「まあ、とりあえず、北海道かな」

私は行ったことがないので、北海道と言う場所がどんなところかよくわからなかった。

「ねえ、連れてってよ」

「ええ、とつぜん何言い出すんだよ」そう言って裕二は笑った。

「本気で言ったのに」

裕二はまた何も言わずにちらりと私の顔を見た。

「どれくらいの間行くの?」

「さあ。二か月くらいかな」

「その後は? 戻ってくる?」

「今住んでいるところは学校の職員寮だからね。辞めたらもう住めない」

「じゃあどこに?」

「まだ何も決めてない。実家は石川県なんだけど、大学時代からずっとこっちに住んでたから、できたらまたこの辺りに戻ってきたいんだけどね。友達も多いし」

「石川県?」

「ああ。金沢だ」

私は石川県も金沢も知らなかった。

私には知らない場所がたくさんある。

裕二が知ってて、私が知らない場所が。

それがなんだか寂しかった。

裕二は人気の消えた海辺の駐車場に車を入れた。

海に向かって車を停めたので、窓から海を眺めることができる。

けれど、雨はまだ止んではいなかった。

二人で雨の降る小さな砂浜を眺めた。

「戻ってきてよ」

「え?」

「ここに、ちゃんと戻ってきて」

「どうしてだい?」

「私が寂しいから」

「綾子が、寂しいからか」

「そう。嫌とは言わせない。だって裕二、私のこと殺しかけたんだから」

「それを言われるとなあ!」

「でしょ? だから、ちゃんと戻ってきてね」

「わかったよ。けど、自分をひいた相手に会えなくなると寂しいっておかしかないか?」

「ほんとだね」私は笑った。

「もしかして、俺のこと好きにでもなったか?」

「まだわかんない」

「まだわかんない、か」

「そう。まだわかんない」

雨は夕立にしては長く降っていた。

強くなったり弱くなったりした。

雨が弱まった時、遠く西の空に少し晴れ間が見えたけれど、こちらの雨はまだしばらく続きそうだ。

「ねえ、おかしいの」

「おかしい? 何が?」

「私、裕二のバイクにひかれたとき、なんだか幸せだったの」

「幸せだった?」

「そう。死ねると思って、なんだか嬉しかったの。なんでだと思う?」

裕二は答えに窮していた。

「ごめんね、変なこと言って。けどなんだか私、裕二が言ってたみたいに、事故に遭う前になにか忘れたくなるような悲しいことがあったみたい。今思うと、死んでそれを忘れられると思ったから、あの瞬間、嬉しかったんだと思う」それ以上の私の言葉を遮るように、雨がまた重みを増して車を叩いた。

そして突然、裕二は私の肩に腕を回し、少し強引に抱き寄せると唇を重ねてきた。

私は何も抵抗しなかった。

ただ目を閉じて、裕二にされるがままになった。

まだ裕二のことが好きなのかどうかわからなかった。

好きになれるかどうかもわからなかった。

けど裕二がそうしたいなら、好きにすればいいと思った。

なんせ私は、一度は裕二に殺されてもいいと思ったくらいなのだから。


けっきょく雨はずっとやまなかった。

帰りの車の中で、窓を叩く心地いい雨の音を胸の中に刻んだ。

「あっ、ここ!」と私は窓の外の景色に思わず声を上げた。

私が裕二にバイクでひかれた場所だった。

「ねえ、少し止めて?」

裕二はゆっくりと速度を落とし、道路わきに車を停めた。

他に車はいなかった。

あの時と同じだ。

「二人の思い出の場所だね」私は冗談めかしてそう言った。

「ああ、そうだな」と裕二は苦笑いを漏らした。

私はドアを開けて外に出た。

ちょうど雨がやんでいた。

雨に熱を奪われたアスファルトの上をぬるい風が通り過ぎていった。

水たまりに青い空が映っていた。

見上げるとちぎれた雲が西から東へと流れて行った。

「なんだかこの場所、ずっと前から知っている気がするの」

「前から? そう言えば、綾子はあの時、どうしてこの道を歩いていたんだい?」

そう、そうなんだ。

それが思い出せないんだ。

もう少し……、もう少しで何かを思い出せそうなのに。

あ、そうだ。

「ねえ裕二、あの時の言葉、もう一度言ってみて」

「あの時の言葉?」

「うん。えっと、ラインで話している時、裕二の友達の死んだ弟が言っていたって言葉。この道のこと、なんて言ってたんだっけ」

「ああ、『あの道を真っすぐ行くと、だんだんと見えてくる水平線の景色が好きだ』ってやつかい?」

「そう、それ……」それだ……。

私もその言葉、知っている。

胸の奥がずきずきとした。

え、いやだ。なんだろう……、苦しい。

私はそう思って胸を押さえて目を閉じた。

「どうしたんだい?」

「なんでもないの。ただ……」

頭の中が真っ白になった。

そしてその刹那、記憶の中に隠れていた様々な光景がフラッシュバックした。

翔也。最初にその名前を思い出した。

「翔也、翔也、翔也!」何度もなんども、その名前を呼んだことを。

そして次に声を思い出した。

「綾子!」私の名前を呼ぶ声を。「俺好きなんだよ、あの道を真っすぐ行くと、だんだんと見えてくる水平線の景色が」

私は目の前にのびる真っすぐな道を見た。

雨に濡れたアスファルトのずっと先に、太陽にきらきらと光る水平線が見えた。

体ががたがたと震えた。

「ねえ裕二、私、どうしよう……」

「なにがだい?」

「ぜんぶ……、思い出しちゃった」



おしまい


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