10
蝶はまるで私をどこかに誘うかのようにゆっくりと教室を出た。
麻酔にかかった私の心は、もう何も考えることができなかった。
ただ、その蝶について行くと言うたった一つのことしか頭になかった。
私の意識は、月の光に空を飛ぶ羽虫のようだった。
さっきまで聞こえていた花火の音も、どこかに消えていた。
私は蝶について教室を出た。
蝶は私を待つように、ひらひらと廊下をゆっくりと進み始めた。
こんな蝶は始めて見た。
まるで光を吸い込んでしまうような黒をしているのに、そこに描かれた一筋の赤い模様は、まるで光を放っているように見えた。
ひらひらと、ひらひらと、やがて蝶は私を階段の上へと誘った。
階段は真っ暗だったけれど、まるで私に見失わせまいとするように、蝶はうっすらと光を放っていた。赤い光だ。あの模様から放つ、赤い光だ。
その蝶の様子は、私の心の中にも似ていた。
いま、私の心の中は、真っ暗闇だった。
光の届かぬ深い海の底にいるように、真っ暗だった。
そこにただ一つ、赤く小さな淡い光が、ポツリと揺らめいていた。
それを見失うわけにはいかなかった。
蝶は三階を過ぎ、さらに上に上がった。
そこから先に教室はない。
鍵のかかった扉の向こうに、屋上がある。
鍵がかかっているので、その向こうには行けないはずだった。
けれど、私が追いついて階段の上まで上がると、蝶はどこかへ消えていた。
真っ暗な心の中に唯一灯っていた小さな赤い光が、消えた。
私は途方に暮れた。
蝶はどこにもいなかった。
まるで鍵のかかった扉をすり抜けて行ってしまったとしか思えなかった。
私はその冷たい鉄の扉に触れた。
重く、冷たい、鉄の扉だった。
開くはずがなかった。
鍵がかかっている。
けれど……、私は迷うことなく、横の小さな明かり窓の窓枠に手を伸ばした。背伸びをしてやっと手の届くその場所に指を這わせると、一つの鍵を見つけた。
どうして私はその鍵がそこにあることを知っていたのだろう。
なぜだかそれは思い出せなかった。
私はその鍵を鉄の扉の鍵穴に差し込み、鍵を開けた。
扉は腕の力だけでは開かなかった。
私は体重を乗せるように、肩でその扉を押した。
まるでそれを押し返そうとでも言うように、重い風が扉の向こうから吹き込んだ。
私は外に出た。
背後で鉄の扉が閉まる音がした。
その音は、私に「もう二度と戻れない」と告げているようだった。
目の前に、大きい夜の空が広がっていた。
星はあまり見えなかった。
街の明かりが下から照らしていたからだ。
蝶はやはり、どこかに消えていた。
けれどもはや、それはどうでもいいことのように思えた。
屋上は広かった。さらにもう一段、梯子を登るようなところがあり、その上は給水塔になっているようだった。
ドンッ……。
遠くに花火の音がした。
私はその音のする方を振り返り、屋上の端まで歩いた。
ドンッ……。
遠くに青や赤の花火が見えた。
まるで炭酸の泡のように、どこからともなく現れては消えた。
屋上の柵に身を乗り出すようにして、私は遠くに見えるその光景に見入った。
なんだか……、なんだか……、なんだか……。
一通り連続した花火が打ちあがると、ふと、まるで何かを貯め込むかのように、しばらくの間があった。
そして……、
ドンッ!
と、ひときわ大きな音が鳴り響いた。
まるで見えない巨人が自分の足跡を地面に残そうかとするように踏み込んだような音だった。
そして一瞬遅れて、金色の花火が丸く視界を覆いつくした。
「あっ!」その声は、まるで自分の声ではないかのように耳に届いた。
私の心に絡みつき、覆い隠していた何かの糸がほどけ散った。
私は……。
「思い出しちゃった……」
涙が溢れてきた。
「思い出しちゃったよ……、ぜんぶ」
なによこれ……、なによこれ……、なによこれ……。
「そういうことだったんだ……」
私は大声を上げて泣いた。
そして屋上の手すりを乗り越え、四階の屋上から夏の夜の空に飛んだ。
The END