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落語のネタ

露美男と樹里絵と

作者: 芥罵亭尸寧

1月の寄席用の枕なので冒頭はそういう季節感になっています


 まいどばかばかしい話を一席お付き合い願います。芥罵亭尸寧くたばていしねいと申します、どうぞよろしくお願い申し上げます。


 本日はお寒い中お越しくださいまして誠にありがとうございます。おそらくは新年の初笑いをと思ってみなさまこちらにいらっしゃったのではないかと存じますが、いかがでしょう? 

 ……ほー、ほー。ま、まさかの。そんな。なんてことだ。ウウッ……なんと。おいたわしい。

 新年明けて五日間経ちましたが、まだ笑うことができていなかった方々がこんなに! っみなさま、年明けになにがあったのですかっ! え、お年玉? ああなるほど。この年になりますともらう側ではなくあげる側になりますからなァ。それは仕方ない泣いてよろしい。私の胸を御貸ししましょうか? いらない。そうですか。ではなにが借りたいですか。……お金。それはだめ。


 ……エー、そういえばお金と申しますと、世の中の潤滑油ですとか天下の回りものですとか、ひとところに留まらない表現の塊みたいなやつでございますな。

 ところによっちゃぁ「御足」だなんて表現もされます。ようは足が生えてるみたいに気が付いたらスルスルっとどっか行っちまうあの印象からくる呼び名だそうで。

 マァ私もあいつとは複雑な関係でございますよ。エェあのね、私あいつとは月末になると仲良いんですよ。あいつもベタベタしてこっちの懐に入ってきてネェ。あったかくしてくれるもんですから。こっちもいい気になったりしちゃったりなんかしちゃってね。

 でもネ、月の中頃超えたころになると急にあいつそっぽ向くんですよ。いやそっぽ向くなんてもんじゃありません、プイっとあっち向いたと思ったらクルクルっと足を回転させてぴゅー。あとにゃぁね、ぺんぺん草も残りませんよ。もぬけの殻になった財布を抱えてね、私はガタガタ震えるわけです。「どこいっちまったんだよぉ」「寒いよぉ」「帰ってきてくれよぉ」叫んでも叫んでもね、あいつ帰ってきちゃくれないんですよ。翌月末の給料日までは。


 こわいことです。

 金欠。無一文。おそろしいことです。

 あんまりこわぁいもんだから私思わず、あいつの名を呼んでしまうわけです。

「お……おっかねぇー」って。

 ここ笑うところですよ。なにみなさん神妙な顔してうつむいてらっしゃるんですか。身に覚えでもおありで? ……さいですか。このあと一緒に飲みに行きましょうや。


 ともあれお金ってやつは大事なもんですが、世の中にはお金で買えないものもございますな。

 そう、愛。

 愛ってやつは目に見えないしお金で買えない。

 だからこそひとはその形を追い求めるわけでございますが、その道のりに必要なものはおわかりになりますでしょうか。

 そう、障害。

 乗り越えるべきハードルが高ければ高いほど、情熱の火は燃え上がるものでございます。

 ましてやそれが本人の努力ではどうにもならないものであるとき! 火の猛りは最高潮に達し、ときに愛を追い求めるその者自身を焼くこともございます。

 たとえば――家柄。

 生まればかりはその人自身ではどうすることもかないません。

 しかし複雑な家庭に身を置いてこそ見えてくる愛、そういうものもございます。


 さあはじまりますは悲恋の道! 往くも戻るも辛さは一緒、それでも分け合う二人の恋路。果ては楽土かそれとも黄泉路か、たったひとつの真実貫く傍目にゃ愚行 それでも本気だ! 命短し恋せよ乙女……


 ……時は現代ところは日本、あるところに田中露美男という男がおりました。

 見た目は平凡頭脳も人並み、人生設計も凡庸そのもの。いつか素敵なだれかと結婚したーいだなどと、家族計画を夢想するだけの男でございます。

 そんな男が友人に誘われた酒の席。

 男が四人に女が三人。

 ちょいとバランスは悪ぅございますが、お察しの通り。合コンの席でございます。

 宴もたけなわ大盛り上がり、互いに品定めがはじまるその頃合い。

 しかし露美男はまだ心に決めた女性がおりませんで――


「おい露美男。露美男ってばよ。お前の番だぞ」

「え、番ってなんの順番だい」

「話聞いてないんだもんなぁこいつ。ロシアンだよ。ロシアン」


 言ってたこ焼きを差し出してくる友人に、ああとうなずいて返すや否や。

 さっと懐に手を入れましたる露美男、取り出しましたるは――


「ロシアンか……ああ、ロシアン……おそろしや……!」

「おい。おい露美男。お前なにやってんだ。なんで懐から拳銃取り出してんだ。アッ、いやごめんねみんな。ちょっとこいつね、実家の方で。そう。こういうものの輸入とかね。やってるもんだから。ちょっと待ってねー……おい露美男。バレるから。ロシアンルーレットやめろ。お前自分の実家が組だってバレたくないんだろ」

「え、いやだってロシアンって」

「そうじゃない。お前の家のローカルルールとちがうから。合コンだから。降ろせ、拳銃。いいな? よーしよーしよーし……なんでこっち向ける。なんだ。おいやめ、やめろって! おいよせ、」


 パン!


「アアやられたっ ……おしまいだっ……短い人生だった……もっと女の子と……お付き合いしたかっ…………あれ? 生きてる……ん……なんだこれ……顔に長―い紐が掛かってて……辿っていくと……つーらつーらといろーんな国の国旗が連なってて――ってこれクラッカーのおもちゃじゃねぇか。馬鹿にしてんのか」

「いやぁ、盛り上がるかと思って……」

「見ろ。みんな顔面蒼白だぞ」

「あらま。本当だ。真っ白できれいな顔してるね。イヤぁ、そういえば僕、顔に傷のない人たちとお酒飲むの初めて。いままではこう、ずらーっと並んでる人たちがね、目の前に置かれた杯にこうやってお酒もらって、神妙な顔で飲んでる飲み会しか行ったことなくって」

「その仁義なき席を飲み会って言うのやめろ」

「え? そういうものなの……そう」


 エー。

 お察しの通り。

 彼、田中露美男君は平々凡々な男でございますが……ご実家が少々、特殊なところでした。

 まあなんといいますか。組織といいますか。団体といいますか。頭にヤのつく自由業でございました。

 田中組。東海一帯を取り仕切る、このあたりの顔役と。そう呼ばれる御家の、跡取り息子が露美男君なのでございます。

 サテそんな彼のおこないですっかり盛り下がった酒の席。

 もはやこれまでこれにてお開き、なんて言葉がみなさんの喉元まで出かかったその瞬間。

 運命というのは、いつ訪れるかわからないものでして。


「ごめーんまったー?」


 言いつつガララっと280円均一の居酒屋の扉をあけて入ってくる少女。

 絶世の、美少女。千年にひとりの逸材が、シャランラシャランラすずやかな効果音と共に入ってきたわけであります。

 瞬間、

 電撃、走る! ……あの、身体は子供の名探偵が真相にたどり着いたときのように。バッッシィュン(SE風に口で言う)!

 見つめ合う露美男と美少女。

 止まる時、流れるBGM(T〇UNAMIを歌う)。

 そうこれが世にいう、ササニシキ。ちがう。コシヒカリ。ちがう。

 ……そう、ひとめぼれ。わかりにくかったか。すいませんね。

 露美男はこれが自分の人生に用意されていた運命なのだと確信し、少女の方も同じように運命を感じておりました。

 そんな二人が感極まって。唇は震え、喉を鳴らし、二人はあえぐように互いに言います。

 口をついて出るのはそう、あのセリフ。


「君の名は?」


 ええ。

 来ると思ったでしょう。例のセリフ。ごめんなさいね。まだです。まだ溜めます。

 サテ時が止まったままでは話が進みませんので時計の針を進めましょう。そそくさと席についた少女、シャランラシャランラした少女。


「佐藤樹里絵と申します」

「樹里絵さん……! 名前まですずやかで軽やかなうつくしい響きだ。ああ……!」


 もうすっかりめろめろでございます。露美男君、彼女の口から出た言葉なら、たとえそれがえげつねぇ下ネタであっても語彙の限りを尽くして褒めたたえるのでしょう。

 しかしそんな彼の恋路に、邪魔も現れるものでして。


「樹里絵ェ! きみ、どうしてそこの男にそうまで熱烈な視線を向けている……!」


 突如として立ち上がる男側のひとりが、樹里絵をにらんで言うわけです。

 樹里絵もこれに応じて、驚きすくんだ声をあげます。


「あなたは……棒流人ボルト!」

「そう、おれはボルト(世界最速の男のポーズを取る)」

「すごく足が速そうなひとだ……」


 いえ、あのね。本当に原作ではティボルトってのが出てくるんですよ。日本人っぽい名前にするの無理があったんです。すいませんね。

 とまれ、ボルトは露美男と樹里絵の間にかわされる視線が、なんとも気に食わない様子で。


「フン……樹里絵はおれの遠縁にあたる子でね。それをどこの馬の骨とも知れぬやつにィ、渡すわけにはいかんのだよ」

「だ、だったらどうするっていうのさ」

「どうする? フン。なにもしやしないさ。ただお前が離れていくだけだ……聞いて驚け! このおれボルトとそこの樹里絵の一家はなぁ、お前たちのような一般人が関わっていいような家ではないのだぁ!」

「と、言うと……?」

「フフン……『佐藤組』。お前のようなやつでも、聞いたことはあるだろう?」

「お、おいおいおい、露美男ってばよ。おま、佐藤組っつったら」

「あ、ああ……僕の家、田中組と、ずーっと敵対してるっていう組だよ……!」


 ああなんたる残酷! なんという運命の皮肉。

 二人の仲を引き裂くは、家と家との派閥抗争でございました。

 ボルトは怯えた様子の露美男を見て気をよくしたのか、その後はとくになにも申しません。

 いつの間にやら合コンはお開きとなってしまい、皆三々五々に方々へ散ってまいります。

 しかし。

 しかし帰れないのが、露美男でございました。

 後ろ髪引かれる思いで、先ほどまでいた280円均一の居酒屋の二階席を外から見上げます。

 冬の風吹く街灯の下でも……彼女を思えばなんのその。胸に、ひとつ明かりがともったような温かさを感じながら、露美男はいつまでも二階席を見つめておりました。


 すると。

 その窓辺から、まだ帰り支度をしていた樹里絵が姿を見せたのです。

 カラカラっとアルミサッシの窓を開けて――彼女は、下にいる露美男に気づきました。

 瞬間走る電撃ビビビ。

 固まる二人はまぶたも固定、まばたきだってもったいないと言わんばかりに見つめ合い―――――――――――――――――――――――――すいません、ドライアイなんでこれくらいで勘弁してもらえますか。


 エー、ともあれじいっと見つめるその間も、心拍数は上昇中。

 このままでは心臓が口から飛び出しそうだ……そんな風に思ったそのとき。

 樹里絵が、心臓ではなく言葉を口からほとばしらせます。路上で足を止めた露美男へと、懸命に懸命に手を伸ばし!


「ああ露美男! あなたはどうして露美男なの!」


 名台詞。きました。

 露美男の方も負けじと手を伸ばし――花を、花を投げたいと、そう思ったのですがこの寒い季節では路上にパンジーもなかったので仕方なく――たんぽぽを。さっき刺身のツマの上にのってたたんぽぽを、あらん限りの力で樹里絵へ投げました。


「あの部屋から漏れる光はなんだろう! ややっ、あっちは東だ。そうすると樹里絵さんは太陽だったんだ!」


 いえこういう台詞もあるんですよ。詳しくは原作でお願いします。

 そうして二人、思い分かち合った二人。

 互いの名を、必死に呼び合うのです。


「ろーみおー!」「じゅーりえーっ!」「ろーみおー!」「じゅーりえーっ!」「ろーみ(以下三回繰り返す)


 街行く人からしたら酔っ払い二人の奇行でございましたが、二人は真剣そのものでした。

 そんなこんなで翌日には結婚することにしまして……なんです、展開が性急すぎるって? いやこれも原作読んでくださいよ、べつに私まいてるわけじゃないんですよ。実際あの二人出会ったその晩にさっきの「ろーみおー!」のやり取りしてるんですよ。ひとめぼれってのァそういうもんなんですよきっと。

 でまあ、結婚したわけですが。そうは問屋が卸さない。

 なにせ二人の家は敵対する組同士。組っても紅組白組じゃないですからね。そりゃもう返り血で両方紅組になるようなえげつない抗争が起きてもおかしかないわけです。

 だからひっそりと。暮らしていきたいとそう思うのですが……思い通りに運ばないのが世の常でございます。


「樹里絵ェ! きみはまたもその男とつるんでいるのか……!」

「ボルト! いいえ、わたしつるんでいるんじゃないわ! このひとと、結婚したのよ!」

「けっ、けけけけけけっこん! 許さん認めんけしからん! ……おいお前。田中露美男とか言ったな。聞くところによるとお前、あの悪名高い田中組の跡取りだそうじゃないか。そんなやつが樹里絵に取り入るだなど、ハッ! 目的は佐藤組の縄張り(シマ)か? 金か? ええどうなんだ、おいっ!」

「ぼ、僕はべつに……そういうつもりじゃないし、結婚した以上はきみとも親族になるわけだから。争いはよくないと思うよ。ほら行こう樹里絵さん」

「フン! 逃げるのか? おやおや樹里絵もとんだ臆病者を捕まえたもんだな。そんなやつでは到底佐藤組のあとを継ぐこともできまァい……この弱虫め!」


 言い合いというのもはばかられる、一方的な物言いでございました。

 これも無視して通り過ぎようとする露美男。意外に芯の強い男でございます。

 しかしこれを見過ごせない者もおりました。

 名前は牧油脂男まき・ゆしお。なにを隠そうあの合コンをセッティングした男であり、露美男の親友でございます。

 そう親友。そんなやつが、友をばかにされて黙っていられるはずもなく。


「やいやいやいやいなんだテメエは、俺の友達をばかにしてくれやがって。弱虫だぁ? ひどいことを言ってくれやがる。そんなふてェ野郎は、俺が成敗してくれるっ(殴りかかる)」

「フン! アタタタタタ」

「ぐへえ!」

「相手が悪かったな。おれはボクシングでプロのライセンスをもっている(最速男のポーズ)」

「ポーズとやってることがまるで噛み合っていない……! がくり」

「ゆ、油脂男―! ……ちくしょう、ボルト。お前よくも。よくも僕の友達をやってくれたなー!(殴りかかる)」

「ぐへえー」


 さあ開き直ると意外に強い露美男君、友達をやられたことで穏やかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚め、ものの見事にボルトをやっつけてしまいます。

 ところがこれで困ったことになった。なにせボルトは敵対する佐藤組の人間です。そこに手を出したということがバレてしまい、露美男には佐藤組の縄張りに一切出入りをするなとのお達しが回ってしまいます。

 これをきっかけに田中組と佐藤組。仁義なき戦いがはじまり、血で血を洗う争いがいよいよ勃発するのです! ……プぁパパパパパパパパー……(ゴッドファーザーのテーマ)。


 露美男は当然、樹里絵に会うこともできません。

 深い悲しみに暮れる露美男。一度はもう、この命を絶ってしまおうかと! そんなことすら考えかけます。

 しかし若い身空で樹里絵を未亡人にするわけにもまいりません。弱ったものだどうしたものかと悩んだあげくに、露美男は身を隠して樹里絵に会える日まで待つことにしました。

 一方の樹里絵は実家の事務所に軟禁状態。たまのお出かけはいかつい男がぞろぞろついてくるので、露美男に会うこともできやしない。

 悩んだあげくに樹里絵、あるところに向かいました。

 ……アナタハー、カミヲー、シンジマスカー?

 そう教会です。つい先日二人で結婚式をあげたその教会で、懺悔室というお悩み相談の小部屋に飛び込んで、ギイバタン。


「かくかくしかじかこれこれこーれこれ……そういう次第なんです。わたし、どうすればいいんでしょう?」

「フフン。大変ですネ。ではあなたがたオフタリが添い遂げるタメの方法を、お教えシマショウ」

「本当ですか神父さん! わたしはどうすれば?」

「イエーア。ずばーり、シーンダフリー、デース」

「死んだふりですか!」


 そう、死んだふりです。

 もうこうなってはまっとうな方法で家から逃げることはかないません。かくなる上は、死んだふりして葬式まであげてもらい、香典をご祝儀代わりにかっぱらってコッソリ家からいなくなる。その上で縄張りの外に逃げ出し、露美男と一緒になる。それしかないと神父は言いました。

 そうと決まれば作戦決行です。樹里絵、自室ですらすらと、それらしく見えるよう遺書をしたためます。


「『わたくし、田中樹里絵、旧姓佐藤樹里絵は……愛した田中露美男と人生を添い遂げることができないのなら……このまま、死んでしまうことを……えらびます……先立つ不孝を……お許しください……お父様……』と。ようし。できた。あとは露美男へのお手紙を。『露美男……わたし死んだふりをいたします……お葬式のあと、わたしを迎えにきてね……』と。よし。じゃあこれを封筒に入れて。あとはお手伝いさんを呼んで、手紙を露美男に届けてもらいましょう。これ、黒磯! 黒磯はいないの!」

「ハッ。お嬢様、ここに」

「この封筒二つを届けてちょうだい。左は……わたしのお葬式が終わってから届く方がいいわね(ボソリ)うん、ポストに入れて来て。右は、田中組のポストに」

「お、お嬢様……それはちょっと」

「ええ、この非常時に難しいお願いをしているのはわかっているわ。でも。でもどうしても。どうしてもお手紙を届けたいのよ。わたしの思いをくんで、行ってくれる?」

「いえ……お嬢様……黒磯には難しゅうございます……」

「なんで! どうしてなのよ! そんなに嫌なの!」

「いえ、嫌と言うわけではないのです。ただ……お嬢様。恐れながら。

 右ってどっちでしたっけ?」

「……ああもう! お箸を持つ方よ!」

「ハッ。御意に」


 そそくさと黒磯、出かけてまいります。

 しかしまあなんとなく皆さまお察しかと思いますが、この黒磯という男……左利きでございます。

 かくしてお手紙は入れ替わり。

 そうともしらぬ樹里絵、あの、先端が引っ込むと血のりがぶしゅうと出る例のナイフを構えて……ぶすり! 腹を切ったように見せかけてまんまと死体の振りをします。


「……樹里絵―。樹里絵ぇ。お父さんだよ。最近部屋から出られなくてつらいだろうが、我慢しておくれ。これもお前のことを思ってなんだよ……返事がないな。開けるよ?(ギイ)……ああ! ああああああ! ああああああああ! 樹里絵ぇぇぇぇ!」


 さあもう田中組との抗争なんてやってる場合じゃありません。愛娘の死においおいと泣き崩れる佐藤組組長、もう田中組のことなんて知るかとばかりに盛大な葬式を執り行います。

 一方の田中露美男。律儀な左利きこと黒磯の働きによって樹里絵からのお手紙を――しかし樹里絵が父親にあてた方の、偽物の遺書の方のお手紙を――受け取ってしまい、もはや半狂乱でございます。


「……ああああああああ! 樹里絵さん、樹里絵さんっ、……樹里絵さぁぁぁぁぁん!」


 叫んでバーンと飛び出します。

 外は雨。たちまち濡れネズミ。

 それでも構うものかっ! 僕の涙はどんな大雨だろうが台風だろうが、けして掻き消せやしないんだっ!

 息せき駆けて組の縄張りを超え、露美男は走りに走って駆け抜けます。

 気づけばもう佐藤組の縄張り。周りでは露美男を見かけるや否や「ややっあいつは」「田中組の!」と声をあげていますが知ったことではありません。前へ。ただ前へ! あの子のもとへ!

 目に飛び込んでくるはモノトーン。白と黒のツートンカラーの幕が、武家屋敷のような佐藤組の建物をぐるーり取り囲んでおります。もうその光景を見ただけで胸が張り裂けそうな露美男、それでも! 前へ! ただ! 前へ!

 ばりーんと白黒の幕を破らんばかりの勢いで、弔問客を押しのけ掻き分け、辿りついた先で――彼は、きれいな花束に彩られた、祭壇を見て。その下で眠る、樹里絵を見つけて。


「…………ああ。なんてことだ。

 ……樹里絵さん。

 ……樹里絵さん。

 ……樹里絵……

 ……きみのいない世界なんて。

 もう、生きている意味がないよ……」


 取り出しましたるは拳銃。どよめく周囲。

 けれど露美男はこれを己のこめかみに当て、そのまま引き金を……っ(無言で倒れる)。

 さて。

 この発砲音で目を覚ましたのが、当の樹里絵でございます。

 わあ生き返った! わあゾンビだ! そんなことを言われているのを気にもせず、あたりを見回して、起きる間際に聞こえた気がした、優しく己の名を呼ぶ声の、その主を探して……自分にすがりつきながら眠る、露美男を見つけまして。


「…………ああ。

 露美男。あなたはなぜ、もう動かない、露美男なの……

 どうして! わたしを置いて、いってしまったの! どうして、拳銃で自殺なんて……!

 ……拳銃で……拳銃……、

 銃口から、ながーい紐が伸びて……いろんな国の国旗が、つーらつーらと連なって……!」

「――――はっ。あれ。僕、死んだのかな……あ! 樹里絵さん! 樹里絵さんだぁ……! あ、でも樹里絵さんがいるってことは、やっぱり僕は死んだのか……」

「ああ露美男! 露美男! あなたは生きているのよ、わたしも生きているの。奇跡よ、奇跡が起こったんだわ!」

「え、そうなのかい! それはよかった。でも僕、正直なところ樹里絵さんと一緒にいられるのなら死んでたって全然かまわないんだけどね」

「ああ、ああ! そんなさみしいこと言わないでちょうだい。露美男。もう二度と、絶対に、あんな自分から死ぬような真似はしないでちょうだい。わたしをおいていかないで。約束して。わたしより先に死なないって! 露美男……わたし、あなたをっ、愛しているの!」

「ああ――樹里絵さん。愛してるなんて。そんなこと言われちゃ、先に死なないって約束が守れないよ。


 だってそいつは僕にとっての――殺し文句だ」


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