雑音
【同日 午後七時0一分】
今日僕らがこの場に集まったのには、大きな理由が二つあった。一つは滅多に時間が取れない、高校でも陸上部のエースである神木に珍しく暇ができたこと。そしてもう一つが、誘いを提案した彼女、御影花から全員宛に意味深なメールが送られてきたからだ。
『皆は覚えてないの?あのこと、忘れてしまったの?』
僕はこのメールを目にしたとき、一瞬で身体が凍りついた。
あの時の感覚が、彼女と面を向かい合ったことでまた蘇ってくる。
「寒いなぁ。お嬢ちゃん、早く扉を閉めてくれ」
意外とおおらかで、聞き取りやすい声がカウンターから聴こえた。それに順応するように御影が素早く扉を閉めた。
「悪いね。どうも年を取ると気温の変化に敏感になってね」
「いえ、すみません。気づけなくて…」
御影は申し訳なさから自責の念に追われているみたいだった。
初老の男はこちらにペコリと座ったまま頭を下げて、カウンターの方に向き直った。酒を飲んでいるらしい。彼はマスターに追加でウイスキーを注文していた。
「この店ってお酒扱ってたっけ?」
僕は耐え難い焦燥を隠すように、たわいもない質問を小日向に投げかけた。
「あぁ、あの老人のこと?」
こくんっと僕はうなずく。
「最近通い始めた人なんだけど、何でも娘を探して山梨の田舎から出てきたらしいのよ。 で、その娘の住所も何も知らなかったみたいで。一日中探し回った上で、こうして毎 晩来るようになったの。あのお酒はパパの自前。可哀相だからほっとけないって」
小日向はうんざりといった様子で軽く肩を落とした。
仕草には現われないが、彼女は自分の父が本当に好きなのだろう。彼女の顔に同情のそれが見えていた。
「そろそろ席に着いてもいい?待ちくたびれたわ」
苛立ちのこもった声で御影が告げる。その見た目は昔の彼女と何ら変わり映えがないように見えるが、どうにも僕には何か引っかかりが感じられた。
「ごめん花。ここに座って」
小日向が僕の正面の席を促がす。
「遅かったね、花。部活では遅刻なんてしたことなかった君が」
琢実の揶揄を無視し、彼女は紺のモッズコートを脱いだ。そして、その際に乱れた絹糸のように真っ直ぐに伸びた黒髪を、彼女は両手で一度さっと整えた。
その一連の彼女の仕草に、僕は見惚れてしまっていた。去年まで僕や琢実と同じサッカー部員としてときを共にしていたからか、決して華奢とはいえない身体ではある。にも関わらず、僕の関心を一閃に奪ったのは彼女の凜とした佇まいであった。その立ち振る舞いは僕にある一人の少女を彷彿とさせた。
「とりあえず座りなよ」
自分でも驚くほどすんなり話しかけることができた。
「言われなくても」
御影が僕の問いかけには応じたので、無視された琢実は不服を露に言葉を漏らす。
「なんだよ。冷たいなぁ」
確かに、御影の態度は冷たかった。別に会話を交わしたかどうかが問題ではない。彼女が店に入ってきたとき、彼女が僕の問いに答えたときに僕を一瞥した目が怒りを映していたからだ。怯えと惑いが、僕の心の奥を錯綜している。僕は彼女に対して抱くこの感情に名前をつけることができずにいた。
御影が椅子に腰掛けると、僕は彼女が何を話すのかを想像しては顔を強ばらせた。
「マスター、飛び切り熱いウィンナー・珈琲を頂戴。寒くて凍えそうだわ。」
マスターはそれを聞き、少々お待ちを、と言って店の奥に消えていった。
さて。
彼女はまるでゲームを楽しむように軽快に言い放った。
「覚悟はいいかしら。皆さん?」
変に改まった口調に、心臓を鷲掴みにされた。
「どうして私だけ集合時刻が七時なのかしら?」
僕の思考が一瞬止まる。
その隙間に神木が割り込んでくる。
「いや、すまん。携帯壊しちゃってね。変更の連絡、明日香に頼んどいたのだけど…」
「本当にごめん!すっかり忘れてた。ほら、今はLINEでのやり取りが多いじゃない?言い訳になるのだけど、花はLINEやってないからさ。だからごめん!」
小日向が思い切りよく頭を下げると、御影は軽く息を吐いた。
「……判ったわ。もういいわよ。ただ、ちょっと悲しいわね。親友に忘れられるという のは」
今のは彼女の精一杯の皮肉なのだろう。けれど小日向に、その手の嫌味は通用しない。
「さすが花様。寛大でいらっしゃる」
小日向は小さい子供みたいに無邪気に笑う。こういうところが、彼女の魅力の一つなのかも知れない。彼女の笑顔に昔から御影はめっぽう弱かった。御影はお手上げだとでも示すかのように両手を広げておどけて見せた。
それよりも、だ。僕は一つ疑問に思った。集合時刻はもともと変更なんてしてない。元から午後六時だったはずだ。少なくとも、僕に来た三日前のLINEではそうなっていた。僕にはそれ以前に連絡なんて来ていない。
そのことを指摘しようと口を開こうとしたが、琢実の低いくぐもった声がそれを遮った。
「それで、花、話ってのは一体なんだ?」
そのひと言で全員の表情が引き締まる。僕、はたった今抱いこのた疑問を一瞬で忘れてしまった。
琢実のストレートな物言いにひと時陰を見せた御影だったが、すぐに調子を取り戻して挑戦的な微笑で答える。
「なにって、メールの通りよ。あのこと、皆は忘れてしまって、私だけ覚えてるのかな って」
「だからあのことっていうのが何なのかが知りたいんだよ!」
琢実が苛立ちを隠せずに荒々しく言い放つ。店内の空気がほんの一秒程、止まった気がした。中年のカップルが、琢実の顔を見て戦慄しているのが見て取れた。少々強面の琢実は、かなりの迫力がある。でも、本当は優しいやつだということを僕は知っている。彼の怒りは、なかなか話の内容に入らない御影に対してではない。僕の長年の付き合いから察するに、僕ら三人を想ってのことなのだ。こいつらをこれ以上不安がらせるなら、俺も黙っちゃいないぞ、と。
ふぅ~と溜息を一つ吐いて、御影が淡々と毒づく。
「たっくんは黙っててよ。アンタが友達想いなのはよーく分かってるからさ」
どうやら、御影もそれを理解しているようだ。彼女は続けて言う。
「……本当に憶えてないの?全員?」
御影は目を見開いて、ゆっくりと全員の顔を見渡す。何のことか分からない琢実たちは、軽く首を横に振る。
御影の大きな瞳が、僕を捕らえる。
僕はピクリとも動かなかった。いや、動けなかったのだ。
僕は、知っている。御影が言うあのことを。
――僕は、覚えている。亡き彼女と、再び再会したことを…。
微動だにしない僕を、御影は期待半分、軽蔑半分な不思議な表層で見つめ続ける。やがて、彼女は諦めたように顔を伏せた。
「りっくんは、覚えている?あの、夢のこと」
それでも、僕は質問に答えない。いや、……答えたく、なかった。
「…なんとか…、言いなさいよ……」
彼女は今にも泣き出しそうに身体を震わせて、僕の胸に頭をくっつける。僕は確認できないけれど、もしかしたら涙を流しているのかもしれない。彼女は、頭を押し付けたまま数回、僕の左肩をグーで叩く。その力があまりにも弱弱しくて、僕の胸を締め付ける。これから、彼女に言わなければならないことを思うと、あまりにも辛い。
そのまま立ち尽くした僕と御影を、訝しげに琢実、小日向、神木の三人がジロジロ観察しているのが視界に入った。なにやら、ヒソヒソと話している。とっさに僕はやばいと思った。
とにかく、僕は御影と二人で話したいことがあった。さらに僕らは、彼らに疑われている。何かを、勘違い、されている。
(逃げなきゃ)
咄嗟にそう判断した僕は、気づけば喫茶店の重い扉を蹴るように押し開けていた。御影の右手をとって…。
「ガランッ……っん…」
扉を開けたベル音と、微かに僕の名前を叫ぶ声とが重なって聞こえた。