鈴木さん
知らない方が良い。知ったら戻れない。
好奇心は、猫を殺してしまうんだ。
夏休みに入り、校舎には部活動をする生徒や補習を受ける生徒くらいしかいない。全校生徒の半分も登校していないだろう。
気温が徐々に上がってくる午前。美術室で一人キャンバスに向かっていた。
「ヤバイことになった」
今から色を乗せようとしたところで、ドアが乱暴に開けられた。
一緒に登校した泉水。まだ補習は終わっていないはずだ。
「何が」
「『鈴木さん』だ」
鈴木さん。その名前に筆を置いた。
単なる名字じゃない。そもそもソレは人じゃなかった。『こっくりさん』という名称が一般的か。
校内で流行っているおまじないだった。十円と紙ではなくスマートフォンを使う。使用するアプリケーションの名前が『鈴木さん』だ。
『鈴木さん』に質問を入力すると、回答が返ってくる。よくあるアプリだったけど、この学校の噂には付加要素があった。学校の教室で4人以上で『鈴木さん』をすると、願いを叶えてくれる。ただし、恋愛のものに限る。
噂話には興味はないけど、女子が騒いでいるのを聞いて知っていた。
「『鈴木さん』が暴走した」
「どうなったんだ?」
「とにかく早く逃げ」
「泉水くん、捕まえたー」
甘ったるい声がして、泉水は背後から伸びてきた腕に捕まった。
何だアレ。あからさまな好意で、ベタベタと引っ付いている。女子だからって何でも許されるわけじゃない。でも、乱暴にもできない。腕が当たって痣でも出来たら責任取れ、とか言われそうだ。
泉水は何とか腕から逃れ、俺の近くに来た。
「あの子は?」
「俺のことが好きなんだと。さっきから追われてる」
珍しく焦った様子の泉水は、じりじりと後退した。俺を盾にする気か。
確かにヤバイ感じがした。何かに取り憑かれているかのように見える。うっとりと泉水を見る目は異常だった。恋愛というより執着に近い。執念というか、ギラギラしている。
観察力はある方だと思っているけど、これは誰が見ても変だ。手を後ろで繋ぎ、左右に揺れながら女子が近付いてくる。
「葛西くん、邪魔だよぉ」
「知るか」
「意地悪ぅー。そんなこと言うならぁーえいっ」
机の上にあった筆を取り、掛け声と共にキャンバスへ突き立てた。毛の方ではなく尻骨と呼ばれる先だったから、キャンバスを突き抜いた。
ヤバイヤバイヤバイ。何てことするんだと思ったけど、今はそんな状況じゃない。早くここから逃げないと。邪魔だから、と今度は俺が刺されるかもしれない。
「泉水!」
声をかけると同時に女子を突き飛ばして教室を出た。
女子は姿勢を崩したけど、すぐに体勢を立て直して追ってきた。
走るのは得意じゃないんだけど。でも、そんなこと言っていられない。泉水に抜かされ、後を追う形になった。
泉水が狙われているんだから、俺は別方向に行けば逃げられるんじゃないか?
「お前も狙われているからな!」
「嘘だろ!?」
先を走る泉水は振り向いて叫んだ。泉水が階段を下りたのに対して上ろうとしていたところだった。
危ない。俺も狙われているんだったら、泉水と一緒にいた方が安全だ。泉水はこういう時の機転は利く方で、こうなった経緯も知っているようだし、今は一緒に逃げよう。
「何で俺も?」
「『葛西くんって、絵が上手くてギャップっていうか? それが良いんだよね』」
「うわ、ムカツク」
泉水の物真似にイラッとした。追われているのに余裕だな。
女子に好かれているというのは素直に嬉しい。こういう状況じゃなければ。
追ってくる足音は増えていた。これ、絶対泉水狙いだろ。
上の階でも騒いでいる声と音がした。教師の怒鳴る声も聞こえる。泉水だけじゃなく、他の奴も追われているわけか。
泉水は俺を助けに来てくれたのか。俺が絵が上手いと知っているなら美術室にいることはわかっているはずだから、泉水が来てくれて良かった。最初は盾にされたけど、許す。
一気に階段を駆け下り、進路相談室に飛び込んだ。多分、誰にも見られていないはずだ。隣は職員室だから、何かあったら教師に助けを求められる。
一息吐いて、近くにあったパイプ椅子に座った。泉水はドアに鍵を掛けて、ズルズルと座り込んだ。
「で、どういう状況だ?」
「補習の休憩中に、女子が『鈴木さん』をやっていたんだ。『何々くんに好きな子はいますか』とか喋りながらな。周りの男子をチラチラ見ながらやってた」
アピールか。泉水は地味にイケメンの部類に入るから、泉水のことが好きな女子がいたんだろう。泉水が参加している補習は点が低い奴が対象のものではなく、受験に向けての強化授業のようなものだから成績が良い奴ばかりだ。
見た目が良くて頭も良い。基本的に無関心なところはクールでカッコイイ、だそうだ。他の男子メンバーもそこそこ人気のある奴らだったから、『鈴木さん』に訊く対象もいたんだろう。
「で、途中から変に盛り上がって。『えー絶対大丈夫だよー』とか、『言っちゃいなよ』とか、煽るような言葉が聞こえてきたんだ。怖かった。小声だったのが、段々大きくなってきて」
妙に女子の物真似が上手くて腹立つ。話が頭に入ってこなくなるからヤメロ。よいしょ、と泉水は立ち上がって壁際に立った。ドアの上半分には擦りガラスが填め込まれているから、人影でバレる可能性がある。泉水はちょうど見えない位置にいた。
女子の台詞から推測するに、『鈴木さん』に好きな人のことを訊いて、「相手もあなたのことが好き」というような回答があったということだろう。それで「告白したら」とか煽ったってところか。それか『鈴木さん』に「告白した方が良い」と返されたか。
『鈴木さん』は占いに似ているけど、性質が悪い。願いが叶うという噂があるから余計に。
「『鈴木さん』をやっていた一人が盛岡に近付いて、いきなり告白したんだ。男子勢はドン引きでさ。盛岡は告白されるのに慣れているのか、あっさり断った。それで終わりかと思ったんだけど」
「終わらなかった、と」
「ああ。『え? 違うよ? 盛岡くんは私のことが好きなはずだよ』って言い出して。『あなた、盛岡くんじゃない! 盛岡くんを返してよ!』っていきなり盛岡の首を絞めたんだ」
怖ッ。その場にいなくて良かった。
『鈴木さん』は願いを叶えてくれるから、好きな人と両想いのはずで。両想いのはずなのに、断られるということは、相手は自分の好きな人じゃない。好きな人に成りすました別の人、ということで攻撃したわけか。
「何とか首から手を外させたんだけど、周りにいた女子も影響されて、好きなヤツに告白しまくってて」
それで逃げてきた、ということだった。
好きな人が同じだったらどうしたんだろう。自分も両想いで他の子も両想い。それで良いのか?
この騒ぎで、両想いだった奴も冷めた気がする。『鈴木さん』に頼らなければ願いが叶っていたのに。
学校の教室で4人以上ですると、願いが叶う。それってつまり。
「集団催眠かもな」
確か『こっくりさん』もそんな感じだったか。
『鈴木さん』も、質問を始める前に儀式があったはずだ。最初に心理テストのようなものがあって、質問が入力できるようになる。その心理テストが、催眠状態になりやすくさせているのかもしれない。
好きな人に対して攻撃する。邪魔なモノを排除する。通常では出来ないことが、簡単に実行できる。それって何か悪いモノに取り憑かれているのと同じかもしれない。
鈴木さん、鈴木さん。――くんに好きな人はいますか。好きな人が私じゃなかったら、私のことを好きになるようにしてください。
ドアの外ではまだ騒いでいる声がする。何かがぶつかる音。叫ぶ声。走る足音。
遠くからサイレンの音が近付いてくる。
パトカーか、救急車か。とにかく収拾はつきそうだ。
「葛西!」
ドアのガラスが割れて、椅子が投げ込まれた。椅子でガラスを破ったのか。
泉水に腕を引かれて壁に寄ったから、椅子は当たらなかった。さっきまで座っていたパイプ椅子は壊れていた。
ゆっくりと、視線をドアに向けた。
割れたガラスから顔が覗く。
「私の泉水くんを独り占めするのは誰?」
可愛い女子の声が、怨嗟の声に聞こえた。