フラッシュバック
AM9:05
開いた先に見えたのはいつも通りの何の変哲もない真っ白な天井だった。ぼうっとする頭。意味もなく息を吐き、そして俺は起床する準備に入った。重力と大気圧とで重量が増した瞼は今にも閉じられてしまいそうで俺はそれを無理やり開きすぐそばにある、物で散乱した机の見たくもない時計を確認した。しかし、ぼんやりとした視界でははっきりとした数字が見えず正確な時刻が分からなかった。いまだに毛布から出てこれずにいる左手を不服そうにして、冷気の漂うこの部屋の中に出し、目をしばらく擦る。摩擦熱で多少の熱を帯びる両目で、もう一度時計を見ると今度こそデジタルの角ばったアラビア数字があらこんにちは。おはようのほうが正しいか? まあどうでもいいが。とにかく思った以上に時間が早い。いつも起床する時間と比べてみても大体40分弱も早かった。今日の予定と照らし合わせてみても後数時間は寝ても問題なさそうだった。だからと言って二度寝をするのは性に合わない。というより二度寝すると先生が必ずそれに気づき俺を糾弾してくるのが目に見えているので、しない。多少眠気を感じるも一気に起きてしまおうと、俺はゆっくりと上体を起こした。そしてちょうど起き上がった時、酷い飢餓感を感じた。空腹ではなく、飢餓。起き上がって気付いたが、これは早々に食べ物を腹に詰め込まないといけないみたいだ。面倒だが朝食の準備も予定の中に組み込む。そうして、俺はキッチンへと向かう。
俺の朝が始まった。
AM10:16
朝食。起きてまず最初にした事は冷蔵庫の中身を探索する事だった。結果は無惨。卵3つ。ペットボトル烏龍茶残り約55ミリリットル。チーズ入りちくわ(ちーちく)一袋。家主さんに内緒で作った肉じゃがもどき(殺人風味)。その際使った牛肉の余り。賞味期限切れの納豆。元から腐っているのに何故賞味期限なんてあるのかは食品製造者のみが知る至極どうでもいい事である。そして朝の定番、白い天使こと牛乳ちゃんは……残念ながらなかった。地味に悔しい。あとはマヨネーズやらケチャップといった調味料くらいしか見当たらなかった。もう一度中身を確認しそれ以外にものはないと結論付けたところで、俺の腹が我慢できねえといった具合に大きく嘶いた。そっとマヨネーズとケチャップに目くばせし、マヨをおかずにケチャ食うやつを想像してみた。(以下想像中)。うん、そいつはきっと人類じゃない。……こんなことをしている場合ではなかった。つまらない思考に終止符を打って、本日のメニューについての考察を深めることにした。が、どうにも食材がアレなので献立など思い浮かぶはずもない。そもそも俺が作ったところでこの肉じゃがの二の舞になることは目を見るよりも明らかである。最初から薄々分かっていた事だけど、やはり落胆せざるを得なかった。肩を落として、仕方無しに冷凍庫を漁る。こういう時のための便利くんこと冷凍食品さん………はこういう時に限って切らしてしまうのはもはやデフォルト。期待していたバカな時期もありました。世の中都合良くいかないものだ。更なる探索を試みるも結果は言わずもがな。結果だけを見れば冷蔵室よりも悲惨極まりない。唯一食えそうなものと言えば、ハーゲンダッツのバニラ味だけ。憎き宿敵バニラ味だけ。憎き宿敵バニラ味だけ! 大事な事なんで二回言いました。……はっきり言おう。僕はバニラを食物として認めていない。たとえ学会が『ハーゲンダッツのバニラは立派な食べ物』説を世界的に発表したとしても、俺は否定する。理論唱えた奴をぶち殺す所存だ。しかし、それでもわがままな腹は一向に鳴り止まないので、百歩千歩一万歩譲ってその白い悪魔を食す事にした。あとで念入りに歯磨きしないと。で、感想。空腹時のキンキンアイスは時に人を殺せるほどの威力がある事に気付いた。腹超痛い。あとやっぱり不味かった。口臭がヤバいほどにバニラになった。歯磨きに加えてお口をくちゅくちゅしてモンダミンも追加することにした。なんやかんやでアイス一個のみというもはや朝食と言っていいものかわからない朝食がようやく終わる。
木製スプーンをカップ内に突っ込み、そのままくしゃっと潰してダストシュート。綺麗な放物線を描くハーゲンダッツ(バニラ)はさながら幾何学模様。暇つぶしに読んだ学術本の内容をふと思い出す。難しい事を一切省いておおまかな説明をするとこれは斜方投射というらしく、空気抵抗を考えず且つ斜めに放射するなどの三次元を考慮せず全くの二次元運動と仮定した場合、水平な地面に対して45度の角度で放り投げれば理論上ではもっとも遠くまで飛ぶとのこと。今の場合、角度的に45度くらい。ナイスショットなんじゃねとか思いつつハーゲンダッツ(バニラ)の行く末を見守る俺18歳独身。結果。手前で落ちた。見事に落ちた。ゴミ箱までの距離をかなり残して落ちた。物理理論をガン無視して以下略。……その後黙って拾い、捨てたのは言うまでもなかった。という訳で、さしあたってする事がなくなった。つまり暇。言い換えるなら徒然。取り敢えず椅子に深く腰掛け頭を背凭れに乗っけてだらんと全身を脱力する。ゆっくり目を瞑って再びゆっくりと開け。それを2、3回繰り返した後には眠気は何処かにすっ飛んでいた。上を向く。何もない。利き手逆方向の左を見る。窓から外のどんよりとした風景が見えた。国道を横切るせっかちおばさんや、あくせく働く勤勉リーマン、学校サボりの自転車暴走族が目に映る。別段、これといって興味が湧くようなものではない。自転車に関しては既視感を覚えないでもなかった。他には、昼飯時に合わせて準備中から営業中に看板を裏返す喫茶店が見えた。『浪漫堂』。その店の名だ。近所のコンビニに行く道中に、もっと言えば外出する時、必ずその店の前を通る。金銭面に関してかなりだらしない俺はこういった、いかにも高級そうな雰囲気の喫茶店にはあまり縁がないので、件の店の事情には全く詳しくない。開店時間に至っては今初めて気付いたくらいだ。少し遅いんだなと興味なさげに眺めていた……のだけど、やはり少し考える。と言っても、専ら欲求不満な臓器どもとの相談なのだが。現在、胃、小腸、大腸ともに白い悪魔ことバニラちゃんに陵辱されている模様。消化器官がまるで機能していない。したがって口直しの午前ティーが必要と判断。そこまで考えると後は無し崩し的。そこらに鎮座する上着を引っ付かみ、玄関へと直行する。別に水道水でも口直しになるのにね、と他人事のように一言。なんでだろう? と自問。理由なんかいらないだろ、と自答。これで事件は迷宮入り確定。それは置いといて。行くべきか行かざるべきか。これが問題である。幸い、昨日急遽入った臨時収入があるため金には困らない。高級住宅街も我のもの顔で罷り通れる。加えて、学校はあるにはあるが現在進行形でお休み中なんで今更出席する意味はあまりない。ぶっちゃけ行かなくていい。少し訂正。行きたくない。さあ、どうする? じゃあ、行こう。
近隣情報に疎い、巨乳メガネっ娘ショートヘア風味フェチな俺は、そうして初めてそこ『浪漫堂』に足を踏み入れようとするのだった。浪漫だけにロマンがあるかもしれない、と訳のわからない期待を寄せながら。
AM10:45
薄ら寒い秋空の下、ジーンズTシャツパーカー装備で駆け出すくるくる天パの青くさ青年が約一名。そんな装備で大丈夫か? 大丈夫だ、問題ない。神は言っている。このネタは実にくだらないと。一番いいのにすればよかったぜ。
脳内は相変わらずお花畑であった。
季節の節目で天気が若干乱れているらしく、青空は薄汚い雲母に覆われて今にも泣き出しそうだった。端的に言って降水確率が計算なしで求まるレベル。百聞は一見に如かず、とはまさにこのこと。だが、今から向かう場所は前述の通り、俺の難攻不落の鉄壁要塞その名も品荘(俺の宿舎)! から歩いて数秒という驚異的な近さなので、雨が降ろうとも雪が降ろうとも槍が降ろうともあまり関係はないのだ。でもま、降ってもらっても濡れて困るだけなので、申し訳程度に500円ぽっきりの愛用ビニール傘を一本持参しておいた。仮に帰りに傘を持参してなかったのなら、ここら一帯にはコンビニエンスストアという現代日本には欠かせない店舗がないので、たかが傘一本といってもホームセンターまたは大型スーパー等に足を運ばねばならなくなる。ちなみに大型スーパーは自転車で約10分ぐらいのところにある。面倒にもほどがある。…こらそこ! モノグサとかゆーな! ……という訳で、装備品に伝説の退魔剣ビニ・ィル・ガッサを加えて魔王城(※浪漫堂です)に意気揚々と向かう、最近ホームシックで悩む小心な勇者気取りの俺がここに爆誕する。何度も言うが目的地は近さ爆発なので、迷子の子猫さんになることはない。よって犬の警官に世話になることもない。証明するまでもなく、当然の事である。
俺はそんな下らない思考を延々としながら、国道に沿って喫茶店に向かっていく。しかし歩いている最中は歩道には人っ子一人いなくて、かなり閑散としていた。正直不気味である。そこまで過疎化が進んでいるド田舎ではないはずなんだけど、何故か人が見当たらない。マイフェイバリットホームこと品荘から覗いていた時にはもっと人がいたように感じたのだが。まあ、それはいいことだ。俺は不審に感じたけど、それについて追及する気はなかった。だって面倒だもの、俺。第一、俺は人付き合いが苦手だ。つまり、人間を相手に何かする事自体が不得意という事。人ごみをかき分けて前へと進む事も、立派に人間を相手にしている。群衆は嫌いだ。無駄に暑苦しいし、ぶつかったらぶつかったで文句を言ってくるし。謝ろうとしたって向こうは聞きゃしない。俺の声が小さいってのもあるのだろうけど。まあ、そんなことはどうだっていい事だ。むしろ今はこの事態に喜ぶべきだ。人がいない。実に喜ばしい。暑苦しくない。爽快愉快大喝采だね。俺は五歳児よろしく手に持つ傘を縦に回転させて、誰に向けてかはまったくわからないがこの猛り狂うほどの喜びを誇示する。実に清々しい。気持ちいいね。久しぶりにいい汗かいたぜ! ……ものの数秒で飽きた。つーか、円運動の遠心力ヤバすぎ。吐きそう……。うっぷ。
その後、入店して早々トイレに駆け込むという庶民的武勇伝に成りかねる事実を作ってしまった、なんとも他愛のない俺がいた。
AM10:58
入店、もとい駆け込みトイレを終えた俺は手洗いもそこそこに、さっそく店内を眺めることにした。全体的にシック一色。典型的昼間のバーみたいな感じ。板張りの木製床。テーブル席よりもカウンターの方が充実している。カウンター奥にはマスターを挟んで棚が位置し、ブランド名不明のワインやら英語で書かれたコーヒー豆の袋やらが収納されていた。ちなみに俺は、コーヒーは豆から淹れないと身体が受け付けない。インスタントなんてもってのほかである。洒落たもんで、天井には、なんつーのかわからんが風車? みたいなのが絶賛回転中だった。総合すると、歴史を感じさせる古風な造りと言える。そのなんともいえない西洋風の臨場感が俺を飲み込み、全体を一望した後には間抜けにもその場に棒立ちになっていた。いくらか経って俺がずっと突っ立ったままでいると、マスターがようやっと、いらっしゃい、と多少いぶかしみながら俺にぼそぼそと呟く声が聞こえてきた。言われてはっとなった俺は、店内には俺とマスターしかいないのだと気付く。マスターを見れば視線だけで、とっとと座ってさっささとオーダーしやがれクソ野郎、と伝えてきている。その意図と悟った俺は当然の如く気まずくなって、なるべく離れようと遠くに位置している二人掛けのテーブル席に腰を降ろした。
そう。
俺は座ったのだ。
二人掛けの座席に座ったのだ。
たぶんなんだが、これが始まりなんじゃないかな? と俺は思ってる。
真実はわからんが。
いえる事は、回転の始点がここだってことだけ。
さて皆さん、俺の言いたい事はおわかりいただけただろうか?
―――あの?
―――うん?
―――私、座ってるんですけど。
―――知ってますけど?
―――わざわざ相席するんですか?
―――そうならざるを得ない状況なんじゃないですかね?
―――あのう、どうかなさいましたか?
―――どうかしてるんですか俺?
―――はあ? 私に聞くんですかそれ。
―――なるほど、わからんですよ。
―――ねえ君、ちゃんと会話しようよ。
―――ただいまロード中ですんで、しばらく待ってもらえます?
―――日本語話そうよ。
―――あばばばばばばばばばば。
―――君、変態さん?
―――ごめんなさい。
―――意味わからないよ?
俺もわからんよ美人なお姉さん。あんたが美人過ぎて俺のハードが焼き切れちゃったんだよきっと。いきなりな相席に混乱してるのもあるよねたぶん。というか、貴女いつからそこにいたんですか。まったく気が付きませんでしたよ。その後は、頭が追い付かないままマスターがオーダーを取りに来てそのままオーダーしてしまい、俺を頭の緩い人種と判断したらしい美人さんが追加注文して、形としては完全に歪な相席が開始された。余談だが、美人さんはメニュートップにある、おそらく人気投票NO1であるエスプレッソをオーダー、ではなくメニューの隅の隅の方にひっそりと書いてあるホットミルクを頼んでいた。いくらおつむの弱い俺でもわかる。苦いのダメなんだね。
そういう感じで、俺の朝は過ぎていく。
AM11:30
彼女との蜜月は瞬く間に過ぎていった。というより、大して時間も経たないで彼女が席を立ってしまったからだ。彼女は頼んだホットミルクを飲むや否や、真っ先に出口へと向かい支払いもしないまま外へ出ようとすらしていた。さすがに、彼女の物凄い剣幕に引き気味だった店長も商売人の端くれだったのか、食い逃げになりかけていた彼女を恐る恐るといった感じで引き留めようとしていた。が、しかし、現実は無常かな。彼女の「………」の無言の圧力により店長敢え無く沈黙。無言の空間の中、彼女だけが悠然と、というよりイラついた様子で店内を後にした。
そんなこんなで、今に至る。そういう成り行きがあった手前、自分はというと始終彼女の恐ろしい表情に恐怖していた。最初の会話の時こそ顔は見れてはいたものの、俺が変態紳士(誤解)だと理解した途端に態度を豹変。それからというもの、俺が彼女の顔を覗くとそこには世にも恐ろしい般若のような顔の化け物があった。以来それがトラウマとなって、さすがの変態紳士(勘違い)も報復が恐ろしくて手が出せなくなったのだ。追記しておくと、俺は変態紳士ではなくただの人見知りで女性付き合いが苦手な奥手野郎である。要するに、美人な彼女を前にして緊張していただけなのだ。
ドア直上に取り付けてあるベルが鳴る。
それは彼女が店を出ていったことを暗に意味しており、同時に嵐が過ぎ去った安堵の音でもあった。途中から露骨に彼女と目を合わせようとしなかった俺は、ようやく終わったかとため息をつく。それは店長も同じだったのか、店内には二つのため息があった。
気づけば、店長が俺を睨んでいる。
視線だけでその旨を読み取ろうとしたところ、単純にてめえが何とかしろのサインを受け取った。受け取りを悟った店長は、自分の右手の親指を首元へと持っていきそれを右から左へとスライドさせる。そうして、顎を出して店の出入り口を指した。和訳すると、「おめえのせいでこうなった。責任とれ。支払いはてめえがしろ。嫌なら追え。殺すぞ」みたいな感じだろうか。我ながら実にナイスな和訳である。奥歯のガタガタと膝のブルブルが止まらないぜ。
正直に言うと、彼女の深追いはきっと失敗する。
そういう予感があった。
彼女ともう会うことはない。これで最後になる。もう二度交差することはない。
まるで、一度経験したかのように。
うっすらと、しかし、確信を持って言える。
でも俺にはどういう訳かそれを裏切るビジョンが見えていた。
彼女とはもう一度出会える、そんな光景を。
予感がするのにも関わらず、脳裏に浮かんでくる画像は彼女との対面シーン。それも、嫌になるほどの高画質で、まるで俺というレンズを通して見ているような。
いや、違う。
これを例えるなら、そう。
はっきりどころかより現実的に見える、これは。
―――フラッシュバックのような―――
頭を振って、浮かんでくる矛盾を振り払う。
消える矛盾に反比例して、ある1つの疑問点に気付く。
どうして追うんだろう?
確かに不快な思いをさせたのは事実。というより大元の原因は自分にある。そもそもは俺が彼女と相席したのが事の始まりなのだから、その俺が終わりと告げるのが筋というもの。それに、いくら臨時収入があるとはいえ、いわれのない(そうでもないが)請求に応じるのも何か間違っているような気がする。追うことに多少の抵抗はあるものの致し方あるまい。ここは店長の指示に素直に従うのが得策だと判断、と自分勝手な論理を展開して結論を導いた。覚悟を決めて、俺は出入り口へと向かった。内心では全く乗り気ではなかったものの件の美人さんともしかしたらお近づきになれるかもという淡い期待も若干ながら抱きつつ、彼女の向かう方向へと飛び出して行った。
当然、俺もお金を払わずに飛び出していた。
ま、いいかと軽く考えて、俺は喫茶店のドアを引いた。
外へ。
出た。
俺はこの選択を後悔する。
なんで?
俺がまだ何も考えられないバカだったから。
仕方ないと言えばそれで終わる。
でも、それだけでは済まされなかった。
それだけの話。
俺の長くて短い何かが始まった。
PM??
様々な音が飛び交った。
そして、落ちていた。
風を切る音を、俺は聞いていた。
冷たいと、俺は思った。
生臭いと、俺は思った。
汚いと、俺は思った。
視覚だけが、何も反応しなかった。
なのに視線を逸らすことは出来なかった。
遠くから誰かが駆け寄ってくるような気がした。
その誰かが鼓膜に響かない音を発していた。
聞き取れないし、わからない。
そして、また誰かが甲高い音を発した。
耳を通過していくだけの音、揺れる視界。
そして、焼き付いて離れない、黒と赤。
瞬間、世界が燃えるような赤に変わる。
同時に静けさを掻き消し、爆音が世界を支配した。
俺だけ、なにもわからないままで。
誰かが俺を指さす。
わけのわからない言語で。
―――――と、まくし立てられる。
突然、手を引かれた。
ぼんやりと。
周囲に人が立っているのがわかった。
大勢いた。
何かを叫ぶように口を開けていた。
俺から遠く離れた場所で。
なのに。
俺のそばにいるのはたった一人。
そう、一人だけ。
引かれるがままに俺は無理やり立たされた。
俺は地面に座っていたのか?
どうして?
―――か!?
聞こえない。
音が遠くに感じられ、感覚が麻痺していく。
とにかく体が重い。
水をぶっかけられた服をそのまま着ているような錯覚。
力のコントロールが上手くできない。
関節、筋肉が言うことを聞かない。
脳が命令をシャットダウンしている。
動け。
でも、動かない。
俺は、動かない。
この右手が掴むものを離してはくれない。
どうして俺は掴んでいる?
何を?
―――。
眩暈がする。
ひどい倦怠感が俺を包み込んでいる。
激しく吐き気を催す。
むせ返る生臭さが再び鼻を刺激した。
誰かの叫び声を聞いた気がした。
ボタンを押す電子音、狂うほどのシャッター音。
鳴り響くサイレン。
全てが鼓膜を揺り動かす。
前後があべこべで、左右が矛盾する。
歪む。
綺麗に。
真紅が空中を舞う夢を見た。
何故かそれに嫌悪感を抱いた。
ほんの少しだったけど。
俺はそれを最後まで眺めていた。
世界が赤く染まるまで。
白い何が俺へと迫ってきていた。
気付くとコンクリートに倒れていた。
また、誰かに引っ張り上げられる。
そして大勢が俺の体に触れてくる。
振り払う事は出来ない。
相変わらず爆音は鳴り響いていて。
白が俺を覆い隠そうとしていた。
混沌としている。
俺の見るものとは対照的に。
霞む。
有耶無耶に。
誰か――っ!
はや――警察―っ!!
いつの間にか掴んでいたものを離していた。
手を握って空白を確かめようとした。
でも、返ってきたのは明らかな手応え。
ドロリとした感触。
俺はそれを知っていた。
既視感ではない。
はっきりとわかる。
記憶とは無関係に、景色だけを呼び起こす。
つまりは。
フラッシュバック。
声が飛び交う。
視界が燃える。
でも、不思議と後悔はなかった。
声を上げた。
自分でも驚くほどの叫び声を上げて。
声と同時にはっと目が開いた。
開いて、気付いた。
気付いて、嘆息した。
嘆息して、頭を抱えた。
最悪の朝が始まった。
AM10:16
胸に残るじんわりとした赤い狂気。空を滑空する漆黒の塊は真っ赤な亀裂を切り裂いて、見るもの全てに深紅の世界を施す。砕け散る何かの破裂音とぶちまけられた何かの欠片。季節に反して、うだるような熱気に包まれる周囲。たちこめてゆく臭気。カラフルだった世界が、黒ずみ、モノクロになり、そして赤く燃える。鳴り響く爆音が耳を劈き、吐き気を催す。なんだこれ。
思い出して、歯がカチカチと鳴る。
ただの悪夢なのに? そんな馬鹿な。
喉元に胃液の苦い感覚がよぎる。咄嗟に手で押さえる。塩辛いような、苦いような、酸っぱいような味が口内に広がり、味覚を一時的に麻痺させた。その臭いはひどくあの光景を連想させ、不快感が余計に加速していく。
押しやっている片手が自然と強くなり、堪えるようにして蹲る。必死に耐えてただただ飲み下した。
喉がごくんと鳴る。不快で仕方なかった。
飲み下した後には吐き気は消えていた。でも気持ち悪さは相変わらずで、臭いも最悪で、夢見心地な気分でいることが、何よりも気味が悪かった。
汗が背中を伝っていくのが分かる。拭くことはしなかった。
押さえていた手でゆっくりと口元を撫で、そのまま顔面全体を両手のひらで覆う。視界は黒で埋め尽くされた。夢でも現実でもないような、そんな真っ暗闇に俺は縋っていた。
夢だ、これは夢だ、と繰り返す。
これはひどくリアリティーのある、ただの夢。
それ以上でも以下でもない。
現実じゃない、ただの空想。
それ以外の何物でもない。
顔に当てていた両手を眼前に持っていき、手のひらを握る。
握りこむ拳にはちゃんとした感触があって、俺はそんな当たり前の事に安堵していた。
大丈夫。
俺はしっかり正常。
オーケーオーケー。
何も問題ない。
心配ない。
気にすることもない。
だから、俺はなんにもおかしくなんてないんだ。
そう言い聞かせた。
自己暗示のようなものであるなんて分かっていたけど、そんなことで何故か安心出来た。
たかだか、夢の分際なのに
着替えを手早く済ませ、急ぐ。何に対してなのかは自分でもわからなかったが、とにかく一刻も早くどこかへ行きたかった。ここではない何処かに。
朝食は食べていなかったけど食欲は自分でも驚くほどなかった。
焦りばかりが先立つ。
意味がないことは知っている。考える無意味さも。言い聞かせて言い聞かせて言い聞かせて、夢を遠ざける。馬鹿の一つ覚えのように繰り返す事が最善だと信じて。
布団はそのままで干すこともせずにガスと電気すらも確認しないまま、俺は外へ出た。
外気は異様に冷たく、といっても冬間際の秋だから当然なのだが、若干の寒気を感じた。寒気が悪寒に結びつく。くだらない連想ゲーム。その度に繰り返し自分を落ち着けさせる。
そうして、一心不乱に無様に逃げ回る。
とにかく、ここにいたくはなかった。
戻ってコートを着てくるなんて欠片も考えつかずに、そのまま時節くしゃみを挟みつつ国道を突っ切っていった。
時刻はちょうど、午前10時45分をこえようとしていた。
AM10:50
脇目も振らずただただ走り続けて、気が付けばあの女性のいた喫茶店へたどり着いていた。まるで何かに誘われるように、その場所へ来てしまっていた。
でもそこからは一歩も動けずにいた。
行くか否か。
入り口付近をじっと見つめるだけで、早鐘を打つ心臓。
確かめたいって気持ちはある。そして、あの女性がいないことを確認して、なかったことに、夢であったんだと確信したい。確かな証拠が欲しい。
でも、もしあの女性がいたら? あのぼやけた夢が現実で起こるのであれば? そういう思考が自分自身の行動を束縛してくる。
頭を振る。
悩んでいても仕方のない事だ。
意を決してドアへと足を向ける。
既視感のある入り口。開けずともわかる店内の風景。やる気のないマスターの横顔。その全てを鮮明に思い起こすことが出来る。
一歩一歩踏み出す度、そうあって欲しくないと願う。
足を止め、息を吸う。
開けた。
広がる空間は、やはり既知のものだった。
そのシック風の店内も、天井のプロペラも、マスターの声も、テーブルも、カウンターも、すべて知っていた。
後ろから声がかけられた。
どうせと思っていたけど、想像通り過ぎてもはや笑えなかった。
―――あのー、早く入ってもらえません?
振り向く。
一度も会ってないはずなのに、一度会ったかのような錯覚。
一度しか会ってないはずなのに、何度も会ったような真実。
それが答えだった。
「すみません、ところで俺達、会ったことありますか?」
俺の長くて短い何かが、また、始まった。
お疲れ様です