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キーボードを叩くカタカタという音だけが響く中、第三十八対策執行部のドアが唐突に開かれた。
「おや? 今日はアトリくんだけですか?」
「あ……はい」
部署に入ってきたのは、所長さんだった。
いつものようにゆっくりと社員たちとのお喋りに興じるつもりだったのだろう。
ぼくひとりだけだとわかっても、その行動に変わりはないようで、所長さんはゆったりとした動作で「所長席」に座る。
所長さんは、昨日は来なかったけど、もちろんそういう日だってある。さすがに毎日来てもいられないだろうし。
そう思っていたのだけど、どうやら昨日、所長さんは体調を崩していたらしい。
「わたしはもう、若くないですからね。アトリくんはまだ若いですが、油断は禁物です。体調管理には気をつけてくださいね」
「はい」
「ところで……どうかしたのですかな? 少々気分が沈んでいるように見受けられますが」
コーヒーをすすりながら、穏やかな表情でそう尋ねてくる所長さん。
自分の体調の話をしながらも、ぼくの様子を観察していたのだ。
のほほんとした感じに見えて、結構鋭いんだよな、この人。だからこそ、所長という地位に立っていられるのだろうけど。
「はい、実はホトトギスが……」
ぼくは素直に今までの経緯を話した。
雛森山を歩いているときにホトトギスが倒れて医務室に連れていったこと、
風邪のようだったけど念のためしばらく安静にさせていたこと、
友好派や過激派に狙われる可能性を考慮してヒバリさんたちがマンションの部屋を用意してくれたこと、
そのマンションにヒバリさんのご家族がホトトギスを連れていく手はずになっているということ。
所長さんは時おり相づちを打ちながら、ぼくの話を聞いていた。
ぼくがホトトギスを心配していて気が気じゃないことを、理解してくれたのだろう。
そこまで話し終えると、
「すぐにでも彼女のもとへ行ってあげたほうが、いいのではないですかな?」
と言ってくれた。
「いえ、でも仕事がありますから」
「……そうですか」
ぼくの答えに、所長さんは頷いて再びコーヒーをすする。
ただその顔に浮かぶ表情には、なんとなく困惑の色がうかがえるようにも思えた。
と、そのとき。
突然、壁に取りつけられた大型モニターに映像が映し出され、耳をつんざくような大声が響き渡る。
「おい、神仙寺くん! 聞こえているか!? わたしだ!」
大型モニターに映し出されたのは、このあいだも通信してきた防衛大臣さんだった。
「聞こえていないのか!? 緊急事態だ、早く応答しろ!」
怒鳴り散らす防衛大臣さん。
どうやら前回と同様、間違えて雛森支社にある全モニターへの通信モードとなっているようだ。
顔を真っ赤にしている防衛大臣さんの様子を見るに、早く応答しないと卒倒してしまいそうなほどだった。
とはいえ、この通信モードの場合、応答できるのは所長室にあるマイクからだけということになる。
「はぁ、仕方がありませんね。ちょっと行ってきます」
所長さんは呆れ顔でため息を漏らしながら、そう言い残して部署を出ていった。
「おい、神仙寺くん! またトイレか!? いつでも応答できるように、秘書やオペレーターは常時待機させておくべきなんじゃないのか!?」
防衛大臣さんの怒号はなおも響き渡っていた。
この雛森支社には、秘書はいないものの、オペレーターが常に対応できるようになっている。
だけど、自分が間違った通信モードにしているから、所長さんが自室にいないと応答できない、というだけなのだ。
防衛大臣さん本人は通信モードが間違っていることに気づいていないわけだから、こんなふうに怒っているのもわからなくはないのだけど。
自分のミスだとあとから知ったとしても、反省なんてしないんだろうな。
防衛大臣という立場にいる人に対して失礼かもしれないけど、あの怒鳴り方から考えると、ぼくにはそうとしか思えなかった。
やがて、所長室に着いたのだろう、所長さんの声が大型モニターのスピーカーから聞こえてきた。
「これはこれは、防衛大臣殿。お待たせしました。ちょっと、トイレに行ってましてね」
前回の通信対応のときと同じく、所長は開口一番、そう言った。
「神仙寺くん! いつもいつも、対応が遅すぎるぞ! どうなっているんだね!?」
「いやいや、失礼しました。それはともかく、今日はどういったご用件ですかな?」
防衛大臣さんの怒りを、所長さんはいつもどおりの落ち着いた物腰でするりとかわす。
こういった対応をすると火に油を注いでしまいそうだと、ぼくは心配になっていたのだけど。
どうやら本当に緊急事態だったようで、防衛大臣さんは必死に怒りを抑え、通信してきた理由を語り始めた。
今までの勢いと変わらない、怒鳴りつけるような物言いで。
「コードネーム・ホトトギスの件だ! まだ各国首脳陣の一部しか知らない極秘事項のばずだったが、どういうわけか各国の政府内には広く伝わってしまったらしい。とくに過激派に属している国が、そんなスパイ宇宙人なんて即刻殺してしまえと、迫ってきているんだ!」
……えっ?
ぼくの心臓が、ドクンと大きく鼓動を高鳴らせる。
ホトトギスを、殺してしまえ?
「そんなこと、ダメに決まってるじゃないか!」
ぼくは席から立ち上がり、大声で叫んでいた。
当然ながら、モニターに映し出された防衛大臣さんに、ぼくの声が届くはずもない。
でも、所長さんがぼくの思いを代弁してくれた。
「はっはっは、そんなこと、できるわけないではないですか」
まったく、なにを言っているのやら。
そんな嘲笑染みた言葉を返す所長さんに対し、防衛大臣さんはさらなる怒鳴り声を上げる。
「言われなくても、わかっておる! だがな、そういうことを躊躇なくやってのける国もあるのだ! コードネーム・ホトトギスの保護はそちらに任せているのだからな、なにかあったら大問題となる! それをしっかり心に留めておきたまえ! 以上だ!」
一方的にまくし立てた防衛大臣さんは、言い終えるやいなや、さっさと通信を切ってしまった。
「ふぅ、相変わらずですね、あの人は」
思わずこぼれたのだろう所長さんのつぶやきが、マイクに拾われ微かにスピーカーから聞こえた。
しばらくして、所長さんはぼくの部署へと戻ってきた。
どっこいっしょと声を出して、所長席に座る。
「アトリくん、見ていましたね?」
「……はい」
さっきの通信で防衛大臣さんは、ホトトギスを殺してしまえと迫ってきている過激派の国もある、と言っていた。
そのことを気にしているのが、ぼくの表情からにじみ出ていたのだろう。
所長さんはそんなぼくを気遣い、真面目な口調で諭すようにこう言ってくれた。
「大丈夫です、安心してください。ホトトギスさんはわたしたちが守りますよ」
ぼくは黙ったまま所長さんを見つめ返すと、大きくひとつ頷きを返す。
すると所長さんは、いつもの穏やかな、それでいて心強い笑顔を返してくれた。