-2-
「ふう……」
山を登りきったときと同じように、ぼくは再び、ため息をつく。
と同時に、デスクにぐた~っと突っ伏した。
会社までたどり着き、所属する部署のドアをくぐり、自分の席に座った、まさにその瞬間だった。
山歩きの疲れによって、業務時間が開始される前だというのに、このありさま。
社会人一年目にして、ダメダメな感じが溢れていると言わざるを得ない。
でもまぁ、ぼくの所属しているこの部署なら大丈夫なはずだ。
緊急事態なんて、そうそう起こるはずがないのだから。
ぐて~~~~~。
ぼくはデスクに突っ伏しながら、疲れを癒す。
デスクの表面の冷たさが、なかなか心地よい。
「……って、こら! なに朝から、だらけきってるのよ!」
突然耳もとから怒鳴り声が飛び込んできた。
だけどぼくは、慌てず騒がず、その声に答える。
「ん~、だってさ~、疲れるんだもん、ここまで来るの」
「そりゃまあ、毎朝町からここまで来てりゃあ、疲れるのもわかるけどさ~。だからって、アトリはだらけすぎだよ。昼休みだけは、超絶元気になるってのに」
「だってさ~、この会社での楽しみっていったら、ご飯くらいしかないじゃん~」
「そりゃまあ、この会社の食堂は超絶美味しいから、それもわかるけどさ~」
怒鳴り声もだんだんとぼくの勢いに流されてしまったのか、のんびりとしたテンポへと変わっていく。
「そう思うでしょ~?」
「うん、それもそうね~」
いつの間にやら、その声の主も、ぼくの隣のデスクに突っ伏しているようだった。
ようだった、と表現しているのは、ぼくの視界からは彼女が見えないからだ。
彼女のデスクはぼくの右隣にあるのだけど、ぼくはデスクの左方向に顔を向けていた。
ともあれ、見えなくても声の響きやら物音やらで、どんな状態なのかはだいたい予想できる。
彼女も彼女で、やっぱりだらけきっていると言えるだろう。
辻ゆりかもめ。
ぼくと同じく、今年入社したばかりの新入社員だ。
加えて、ぼくの幼馴染みでもある。
といっても、幼稚園の頃に一緒だったというだけで、あまり記憶には残っていなかったのだけど。
ぼくは幼稚園を卒園したあと、すぐ東京に引っ越した。
ゆりかもめのほうも、小学校低学年の頃に引っ越して、雛森町を出ていったらしい。
彼女もぼくと同様、この会社に入るため、実家から出てきた。
ぼくと違うのは、しっかりと社員寮の申請をしていたことだ。
というわけで、ゆりかもめは会社から徒歩一分という近場にある社員寮に住んでいる。
社員寮は広い敷地の中に数棟の建物があって、さらに食堂までも完備されているのだとか。
う~ん、申請し忘れて入居できなかったことが、ものすごく悔やまれる。
毎朝の山登りで疲れなくて済むというのは、正直うらやましい。
……あれ? それじゃあどうして、ゆりかもめはぼくと一緒になって、デスクに突っ伏してるんだ?
ぼくは山登りで疲れているから仕方がないと言えるけど、ゆりかもめはべつに疲れてなんていないはずだよね……?
ゆりかもめのほうを振り向く。
もちろん、デスクに突っ伏した頭が左向きだったのを、右向きに向き直しただけなのだけど。
同じように突っ伏しているゆりかもめの顔が視界に映り込む。
目をつぶっている彼女は、化粧っ気もまったくない。それどころか、髪もボサボサなように見える。
デスクに突っ伏しているからという理由だけではなく、完全にはねていると思われる寝グセも、たくさんついているようだ。
おそらく、ついさっき起きたばかりで、急いで服だけ着替えて出社してきたのだろう。
ぱっと見、それなりに可愛らしい顔立ちをしているというのに、実にもったいない。
と、そんなゆりかもめがパチッと目を開く。
「…………」
「…………」
思わず無言で見つめ合う、ぼくとゆりかもめ。
彼女の頬がほのかに染まっていくように見えたのは、気のせいだっただろうか。
「朝っぱらからお前らは、そんなだらけた格好で、なに見つめ合ってんだか」
不意に頭の後ろのほうから声がかかった。
「あっ、セキレイ。おっはよ~!」
「おはよ~」
ゆりかもめの声に、ぼくも挨拶を重ねる。
彼女が名前を呼ぶまでもなく、誰が声をかけてきたのかはわかっていたのだけど。
「お前らは、まったく……。せめて、頭くらい上げたらどうだ? というかアトリ、こっちを見もしないなんて、失礼すぎないか?」
さすがに文句の言葉が飛んでくる。
「そうだよね~。親しき仲にも礼儀ありだよね~。でも、疲れてるからさ~」
「そうそう~。疲れてるからさ~」
ぼくの言葉に、今度はゆりかもめが声を重ねる。
「バカたれ! だいたい、ゆりかもめは疲れてなんてないだろうが! 寝疲れは、疲れてるうちに入らないんだぞ!?」
その怒声は、主にぼくを通り越して、目の前にいるゆりかもめに向けられたものではあったけど。
背後からぼくの目の前の彼女に対して向けられた声は、言うまでもなくぼくの耳にも痛いほどに響く。
「まったく……。落ち着いて寝てられないじゃんか~」
「アホかっ! 寝てるほうが非常識なんだよ! もう始業のベルも鳴ったってのに!」
のそのそと身を起こすぼくに、素早くツッコミが入れられた。頭をひっぱたく平手打ちを添えて。
「おおう!? いつの間に!」
「あははっ! あたしは、わかってたけどね!」
「わかってたなら、一緒になって寝てるんじゃない!」
「寝てたわけじゃないよ~ぅ! デスクさんと一体化してただけだよ~ぅ!」
「それを寝てるというんだ、ボケっ!」
「あうあうあう~、セキレイが超絶いぢめるよ~ぅ!」
「いじめてない! 教育的指導だ!」
なんというか、朝からバカなやり取りだと思わなくもないけど。
というか、これで三人とも社会人だというのが、不思議なところでもあるけど。
そんな光景も、毎朝恒例といった感じだった。
この教育的指導とか言っている男は、春香川セキレイ。
指導なんて言って立場も上っぽい口調ではあるけど、ぼくやゆりかもめと同じ、入社一年目の新人だ。
二年間フリーターをやっていたとかで、二歳ほど年上ではあるのだけど。
初日にお互い自己紹介をしたとき、本人から気にする必要はないと言われたので、ぼくたちは普通にタメ口で接している。
始業のベルが鳴ったあとだというのにこんなバカ騒ぎをしていて、本当に大丈夫なのかというと、それは全然問題なかった。
ここには今、ぼくたち三人だけしかいないからだ。
当然ながら、上司は存在する。
でもその上司は会議に出ることも多く、朝はほとんど部署にいないのだ。
もっとも、ぼくたちには資料を作成するという仕事が与えられているから、それを提出する必要はあるのだけど。
ただ、ぼくたちの一番の任務は、いわば緊急事態に備えて待機すること。だから普段はゆっくりしていても支障はないのだ。
……などと余裕をぶちかましていたからだろうか。
そのとき、緊急事態を告げるサイレンが、けたたましく鳴り始めた。