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「ふう……」
ぼくは思わず、ため息をついていた。
「毎度のことだけど、疲れるなぁ」
よいしょっ、と、リュックサックタイプのカバンを担ぎ直す。
「ま、ここまで来れば、あとちょっとだ。頑張ろう」
大自然に囲まれた清々しい朝の開放感からか、独り言にも拍車がかかる。
もっとも、ぼくは普段から独り言が多いと、知り合いにはよく言われていたりするのだけど。
周りには色とりどりの木々や草花が生い茂り、ちょうちょが舞い、鳥たちのさえずりが響き渡る。
東京からさほど遠いってわけでもないのに、完全な田舎の風景が広がるこの近辺。
秩父の山奥にある雛森町から徒歩でさらに山を登り、三十分ほどかけて、ぼくはこの場所にたどり着いた。
毎朝のことだとはいえ、さすがにちょっと、しんどい。
まだまだ若いつもりだけど、やっぱり体力は確実に衰えているんだろうな。
ふと振り返れば、眼下には町並みが一望できる。結構な高さを登ってきたことの証だ。
ぼくは、優羽アトリ。
この春に大学を卒業して、新社会人となったばかりだ。
ついこのあいだまで、ぼくは東京の実家に住んでいた。
今も両親はその家で生活しているのだけど。
ぼくは就職先の関係で、今見下ろしている雛森町に戻ってきた。
そう、戻ってきたのだ。幼稚園の頃まで住んでいた、この町に。
昔住んでいたアパートが、今もまだ残っていた。
ぼくたち一家が昔住んでいた部屋も空いていたため、ぼくは今、その部屋で暮らしている。
年季の入ったボロアパート。
他の部屋も、ほとんど空いてるみたいだったけど。
こんな状況で大丈夫なのだろうか? 取り壊しとかはされないのだろうか?
そう心配になってくるほどだった。
ただ、大家さんとしては、取り壊すつもりは毛頭ないらしい。
今でこそ何棟ものアパートを所有している大家さんだけど、最初の一棟だったというこのアパートには思い出がたくさん詰まっているのだろう。ずっと残しておきたいのだと話してくれた。
オンボロではあるけど家賃もすごく安いし、収入を得るためという目的よりは、撤去されないために誰かが住んでいてくれればいい、といった考えのほうが強いのかもしれない。
昔住んでいたアパートとはいっても、もう十五年以上も前の話になる。だから近所に住んでいた人たちのことなんて、ぼくはまったく覚えていなかった。
というよりも、当時住んでいた人たちはみんな、この町から出ていってしまったのだろう。
だから、べつに知り合いがいるわけでもない。
実際、ここ雛森町はのどかな田舎町といった雰囲気で、本当になにもない場所だ。
村ではなく町という扱いになっているだけあって、それなりに人もいるし、町の中心部には一応、商店街と呼ばれるメインストリートも存在している。
休みの日には買い物をしに行ったりもするけど、メインストリートという呼び方は似合わないかもしれない。
舗装もされていない土がむき出しになっている道の両脇に、木造平屋建ての店が軒を連ねる程度なのだから。
町の中心部でそんなありさまなのだから、観光スポットだとか、レジャー施設だとか、そんなシャレた場所がこの町にあるはずもなく。
結果、寂れた田舎町といった様相を呈しているというわけだ。
そんな山奥の町の片隅で、ぼくは今、ひっそりと生活している。
通勤先の会社は、今登ってきたこの山の上にある。
日本中央電力株式会社。
最大手の電力会社だ。
本社は東京の都心にあるのだけど、ぼくが勤めているのはここ、雛森支社。
……支社というよりは、研究所といった雰囲気なのだけど。
実際のところ、昔は本当に研究所だったという話も聞く。
山奥に建設された研究開発を行うための施設。そこでぼくは働いている。
ぼくがこうして、毎朝時間をかけて山を登らなくてはならなくなったのには、とある理由があった。
社員寮に入ることができなかったのだ。
雛森支社の近くには何棟かの社員寮が完備されていて、ほとんどの社員はそこから会社に通っている。
でも、ぼくはその申請をすっかり忘れていた。
気づいて申請したときにはすでに遅く、部屋はすべて埋まってしまっていた。
……つまり、自業自得というやつなのだけど。
とはいえ、こうやって毎朝自然の中を歩いてくるのは、それなりに気持ちのいいものだった。
色とりどりの木々や草花が生い茂り、ちょうちょが舞い、鳥たちのさえずりが響き渡る。
心を癒してくれるような、温かい風景に包まれる日々。
朝の日差しが、まぶしくぼくと周りの景色を照らし出す。
「今日は、いい天気だなぁ。ちょっと暑くなるかも」
汗を拭いながら、ぼくは再び、独り言をつぶやく。
この自然を、ぼくたちは守らなければならない。
そんな使命感すら湧き上がってくる。
いや、実際にぼくたちは、この自然を――、
そしてこの、太陽系第三惑星、青くて美しい惑星である地球を、
守るべき立場に立っているのだ。