第一話 凱旋
第一話 凱旋
艦橋に、人が溢れていた。
本来なら、艦長と航海長、それに操舵手が立てば手狭になる場所だ。そこへ留学生たちが押しかけ、羅針儀の脇にも、手すりの際にも、肩と肩をぶつけ合って詰めかけている。入りきれなかった者たちは、艦橋へ上がる鉄梯子にしがみつき、その下の甲板にまで列を作っていた。
潮風が、人いきれを吹き散らしては、またすぐに押し戻される。
皆が同じ一点を見つめていた。前檣楼の見張り台から伸びてくる、真鍮の伝声管。そのラッパのような口を。
「悪い、通してくれ」
俺は、前に立つ男の肩を掴んで押しのけた。
舵輪を握る操舵手が、露骨に顔をしかめる。
「……ここは艦橋ですよ、ネズミの旦那」
舌打ちが聞こえた。構うものか。
アーネムランド・ネズミ。
公国がなけなしの金をはたいて、海の向こうへ送り出した留学生のひとり。
そして、この艦の誰よりも、あの管から落ちてくる一言を待ちわびていた男。
――それが、俺だ。
伝声管のすぐ脇に立つ艦長が、ちらりと俺を見た。咎めるでもなく、すぐに視線を前へ戻す。
波が舳先を叩く音。帆索が風に鳴る音。煙突から吐き出される煤煙の、低い唸り。
誰も、喋らない。
◇
前檣楼の見張り台に、潮風が吹きつけていた。
見張り員は双眼鏡を握り直した。レンズの向こうで、灰色の水平線がゆっくりとせり上がってくる。岬。灯台。そして――
彼は息を呑み、手すりの伝声管に飛びついた。
◇
管が、ごぼりと空気を吐いた。
『首都は――』
ひび割れた声。艦橋の全員が、一斉に身を乗り出す。鉄梯子の下から「なんだ、なんて言った」と囁きが這い上がってくる。
『首都は無事です!! 城壁に異状なし! 繰り返す、首都は無事です!!』
一拍の沈黙。
それから、艦橋が爆発した。
「おおおおお!!」
「やった! やったぞ!」
「間に合った……間に合ったんだ!」
歓声は鉄梯子を伝って甲板へ転がり落ち、そこでもう一度、何倍にも膨れ上がった。帽子が宙を舞い、潮風にさらわれて海へ消えていく。誰かが俺の背中を叩き、誰かが泣きながら手すりにしがみついていた。
俺は拳を握りしめたまま、しばらく声が出なかった。
「……やった」
ようやく絞り出したのは、子どものような言葉だった。
「なんとか、間に合った……!」
人垣をかき分けて、ザイツが現れた。潮と汗で髪が額に貼りつき、それでも満面の笑みだった。
「アーネム!」
「ザイツ!」
差し出された手を、俺は両手で握った。
「いやぁ、本当によかった」
「急いだ甲斐があったな。三か月、休まず石炭をくべ続けた火夫たちに、あとで酒を奢らなきゃならん」
「ああ。留学先であの知らせを聞いたときは、どうなることかと思ったけど――」
言いかけて、俺は胸ポケットに手をやった。
指先に、固く折り畳まれた紙の感触がある。一度も捨てられなかった新聞の切れ端。角は擦り切れ、折り目はいまにも千切れそうだった。
その紙の手触りが、あの日の部屋の匂いを連れてくる。
古い紙と、インクと、埃の匂いを。
*
三か月前。
海の向こうの港町の、古い下宿の二階。
部屋は、本の塔で埋まっていた。
築城論、補給論、古今の会戦記録。机の端には、この国の言葉で書かれた海軍年鑑が開いたままになっている。壁には大陸の地図を貼り、色つきのピンを刺してあった。赤は大ワスタル帝国の軍港。青は我が祖国、センシ公国の沿岸要塞。
帝国最大の軍港に刺した赤いピンから、一本の糸が伸びている。糸の先は、祖国の南の浜辺に結ばれていた。
半年かけて、俺が引いた糸だ。
羽根ペンの先が乾いていることに気づき、インク壺に浸したときだった。
扉が、蹴破られるような勢いで開いた。
肩が跳ね、インクが一滴、帳面に黒い染みを作る。
振り返ると、ザイツが立っていた。肩で息をし、額から汗を垂らしている。左手には、握り潰さんばかりに新聞が掴まれていた。
「アーネム、大変なことに――」
そこで、彼の視線が壁の地図に流れた。
それだけで、分かった。
「……帝国が、動いたか」
ザイツの喉が、ごくりと鳴った。
「ああ。お前の読みどおりだった」
彼は机の上の本を腕で払いのけ、新聞を広げた。
見出しの活字を、俺は読む前から知っていた。半年前から、頭の中で何度も組み上げてきた文字列だった。
俺は地図の前に立ち、赤い糸を指でなぞった。
「帝国の輸送船団は鈍足だ。兵を集めて、編成して、海を渡る……南岸に上陸するのは、早くて三か月後」
「三か月」
「今から発てば、ぎりぎり間に合う」
ザイツが、新聞をめくりながら眉を寄せた。
「……本国のことは、何も書いてないな。迎え撃つ支度をしてるのかどうかも」
「載るわけないだろう」
俺は笑った。
「帝国が動いたから、ついでに名前が出ただけだ。うちみたいな小国の中で何が起きてるかなんて、この国の誰も気にしちゃいない」
ザイツは少し黙ってから、新聞を畳んだ。
「……帰るよな?」
「当たり前だ」
即答した。考えるまでもなかった。
「古い軍制を叩き壊すために、俺たちはこっちへ来たんだ。先生たちが待ってる」
本当は、誰だって帰りたくなかったのだと思う。帰る先は、戦場なのだから。
それでも、異国の港に取り残されるほうがもっと怖かった。一人、また一人と荷造りに戻っていく足音を聞きながら、俺だけが違うことを考えていた。
――ようやく、来た。
机の上の本の塔を見上げる。三年間、周りに笑われながら積み上げてきたものが、ようやく意味を持つ。
ザイツが置いていった新聞を、俺は丁寧に、丁寧に折り畳んで、胸ポケットにしまった。
*
潮風が、頬を撫でていく。
入港を前に甲板へ降りると、首都の城壁が夕陽に赤く染まっていた。
尖塔の上に、旗がはためいている。
白地に、金の双頭鷲。
子どもの頃、祭りの日に見上げた旗だった。改革のときに降ろされて、それきりだったはずの。
……祝勝の飾りだろうか。
懐かしさが胸をかすめて、すぐに消えた。
胸ポケットの上から、新聞を押さえる。
「学んだことを、生かすときが来た」
誰に言うでもなく、呟いた。
「俺はこの日のために、研鑽を積んできたんだ」
参謀本部へ行こう。先生たちに会って、この頭の中にある作戦案を、すべて叩きつけてやる。帝国の輸送船団の弱点も、南岸の防御線の欠陥も、全部。
「やってやる。……やってやる。俺なら、きっとできる」
口元が、勝手に緩んだ。怖さなど、どこにもなかった。
あったのは、胸を焼くような希望だけだった。
「入港準備! 総員、配置につけ!!」
「おお!!」
艦橋からの号令に、甲板のあちこちから声が上がる。錨鎖が、じゃらじゃらと鳴った。
*
桟橋には、出迎えが来ていた。
最初は、そう思った。
黒い外套の男たちが、二十人ほど整列している。俺たちがタラップを降りきると、彼らは音もなく左右に広がり、俺たちをぐるりと取り囲んだ。
腰にはサーベル。胸には、見覚えのない銀の徽章。
列の中央から、口髭の男が一歩進み出た。手元の名簿と、俺たちの顔を一人ずつ見比べていく。
その視線が、俺の上で止まった。
名簿のいちばん上に、指を置いたまま。
「アーネムランド・ネズミ」
なぜ、俺の名を。
「貴様らを、国家反逆罪で逮捕する」
……は?
波の音が、急に遠くなった。
「な……何を言ってるんだ? 俺たちは、国を救いに帰ってきたんだぞ!!」
「黙れ」
口髭の男は、もう俺の顔を見てもいなかった。
「こいつらを引っ捕らえろ」
黒い外套が、一斉に動いた。
腕を捻り上げられ、膝の裏を蹴られて、俺は石畳に叩きつけられた。頬に、冷たい石と砂利の感触。
「や、やめてくれ! 何かの間違いだ!!」
視界の端で、ザイツが三人がかりで押さえつけられていた。仲間たちの怒号と悲鳴が、潮風に千切れていく。
胸ポケットから、何かがこぼれ落ちた。
擦り切れた新聞の切れ端が、風にさらわれ、海のほうへ舞っていく。
俺はそれを、ただ見ていることしかできなかった。
*
何日経ったのか、もう分からない。
石壁に囲まれた、八畳ほどの牢。天井近くに、拳ほどの明かり取りの穴がひとつ。
壁際には、藁の寝床が六つ並んでいる。
最初の夜は、すべて埋まっていた。
ある朝、ひとつが空になった。二日後に、もうひとつ。連れて行かれた者は、誰も戻ってこなかった。最後にザイツが呼ばれたのは、三日前だったか、四日前だったか。
あいつは扉のところで一度だけ振り返り、いつものように笑おうとして、失敗していた。
俺は膝を抱え、顔を埋めていた。
空の寝床を見ないように。
ザイツの寝床の藁が、まだあいつの形にくぼんでいることに、気づかないように。
――次は、俺か。
反逆。誰に対する。何のための。
誰も、何も教えてはくれなかった。先生たちがいまどこにいるのかさえ。
それでも、ひとつだけ分かることがある。連れて行かれた者は、戻ってこない。それが答えだ。
兵法なら、三年学んだ。補給も、築城も、会戦も。
なのに、こういうときにどうすればいいのかは、どの本にも書いていなかった。
コツ。
顔を上げた。
コツ、コツ。
廊下の奥から、靴音が近づいてくる。一人分。規則正しく、急ぐでもなく。
コツ、コツ、コツ。
心臓が、肋骨の内側で暴れ始める。指先から温度が引いていく。
頼む。通り過ぎてくれ。隣の牢へ。その先へ。どこでもいい――
靴音が、止まった。
俺の、牢の前で。
がちゃり、と。
鍵の回る音がした。




