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第5話名付けられない流れ
帳合の紙は、音を立てない。
それでも――レオンハルト・フォン・ヴァルデンは、その沈黙の質で異常を嗅ぎ分けた。
執務室の窓は半分だけ開けられていた。冬の手前の湿った風が、乾ききらない羊皮紙の匂いを連れてくる。火鉢の炭がぱちりと弾け、灰がわずかに浮き、落ちる。
机の上には二冊の帳面。ひとつは屋敷の出納、もうひとつは村々から上がる納付の控え。細い線で区切られた欄に、レルム・ハーゼンの几帳面な字が並んでいた。
レオンハルトは指先で紙の端を押さえ、数字の行を目で追う。
――早い。
それは喜びでも疑念でもなく、単に「時間」の問題だった。
「……今月の分だな」
独り言に近い声。
レルムが半歩前に出て、咳払いもせずに答える。
「はい。村の納めが、例年より前倒しです。未納は減っております」
レオンハルトは眉間にわずかな皺を寄せる。武功で領地を得た男の皺は、戦場のそれと同じ深さで、机上の数字にも刻まれる。
「理由は」
「銀が不足しております。……ただし」
レルムは言葉を一拍置いた。制度の人間は、断定の前に必ず隙間を作る。
「物納は滞っておりません。麦も塩も、むしろ早く集まりました」
「銀がないのに、物が動く」
レオンハルトは言い直すように繰り返した。
「動かしているのは誰だ」
レルムの視線が、ほんのわずかだけ机の端へ落ちる。そこには紋章の蝋印を押すための箱――ヴァルデン家の印具が収められている。
「……商人が、まとめて王都へ運んでおります」
「いつもの連中か」
「顔は同じです。しかし、揃いすぎております」
レルムは言葉を選びながら続けた。
「量、時期、銀の質。偶然にしては整いすぎています。示し合わせた気配はありませんが……」
「偶然でもない」
レオンハルトが結論を置くと、部屋が一段静かになる。
この静けさは、戦場の前夜に似ていた。
「止める理由はあるか」
「ございません。税は通っております。王都も文句は言いづらいでしょう」
「ならば、触るな」
即断。
レルムは小さく頷いた。頷きの角度は、同意ではなく理解に近い。
「触れれば、名が要ります。名が要れば、責任が生まれます」
レオンハルトは机から目を上げ、窓の外の庭木を見た。葉はまだ落ちきっていない。季節は移るが、移り方が早い年がある。
「……クレドは」
父としての名ではなく、当主としての確認。
レルムは答える前に一瞬だけ唇を結ぶ。言ってはいけないことを知る人間の癖だ。
「クズ市におります。毎日ではありません。ですが、帳面は続いています」
レオンハルトは頷いた。
それが、もともとの計画だった。
銅貨が鈍い音を立て始めた日から――市場が音を失い始めた日から、彼は理解していた。
剣で守れるものと、剣では守れないものがある。
守れないなら、測らねばならない。
その「測り方」を、息子に覚えさせる。
六、七歳の身体に、早すぎる課題だ。だが、時間は待たない。
レオンハルトは火鉢の炭を箸で軽くつつき、灰を落ち着かせた。
「……任せているわけではない」
誰にともなく。
「はい」
レルムが即答する。
「権限も名も与えておりません。あの子は、あの場で『主語』になっていない」
レオンハルトは、そこで初めて微かに表情を動かした。笑みではない。安堵でもない。ただ、評価の筋肉の動き。
「整理者の類は」
「現れては消えています。定着しておりません」
レオンハルトは短く息を吐く。
「なら、まだ……」
言いかけて止めた。
『大丈夫』という語は、戦場でも帳合でも、口にした瞬間に油断になる。
代わりに、言い換える。
「……いまは、動かすな」
レルムが深く頷いた。
「はい。当家が動けば、あの流れは『当家の制度』になります。そうなれば、敵も味方も作れます」
敵――ギルド。
味方――王都。
どちらも、近づきすぎれば刃になる。
レオンハルトは机の端に置かれた小さな木彫りの馬を見た。クレドが削ったものだ。まだ脚が不揃いで、立つのがやっと。
子供は、まだ子供だ。
だが、目だけは違う。
レオンハルトは立ち上がり、マントを羽織った。
「夕方、様子を見る。遠くからだ」
「お供を」
「要らん」
短く切る。武功派の癖。
レルムはそれ以上言わない。言えば、当主は逆に頑固になる。
ただ、最後に一言だけ添えた。
「……坊っちゃんは、あの場で子供を演じております」
レオンハルトは足を止めた。
「演じている、か」
「はい。演じていなければ、あの場は壊れます」
レオンハルトは頷き、扉を開けた。
――壊れる。
その言葉の重さを、彼はよく知っている。
*
夕刻のクズ市は、湿り気を帯びた匂いがする。
泥と藁と、汗と塩。荷車の軋む音。桶の水が揺れる音。遠くで港の鐘が一度鳴る。
倉庫跡の柱の影に、クレド・フォン・ヴァルデンはいた。
木箱に腰掛け、膝の上に小さな帳面。指は細いが、ページをめくる動きに迷いがない。
目の前で、商人が袋を下ろす。
「これも、引き取ってくれるか」
クレドは顔を上げ、相手の靴を見る。泥の乾き方。踵の減り。荷の重みで傾いた腰。
(遠方だ。売り急いでいる。現金が欲しい)
内心は冷たいが、口は子供だ。
「……うん。できるときだけ」
商人が息を吐く。
「助かる。村じゃ、銀が足りない」
クレドは頷く。
「……ここなら、はやい」
それだけ。
それで十分だ。
税という言葉は、どこにも出ない。
だが、積まれる袋の種類と量が、すでにそれを指していた。
クレドは帳面に短い線を引く。品目と量、時刻。印も紋章もない。
(名を付けない。責任を付けない。条件だけを固定する)
(そうすれば、流れは自走する)
背後の遠い場所に、視線を感じた。
見られている。
その視線の質は分かる。圧ではない。脅しでもない。確認だ。
父――レオンハルトが、どこかにいる。
クレドは振り向かない。
振り向けば、子供でいられなくなる。
夕闇が落ちる。
市場の声は、少しだけ戻っている。
だが、その声は軽くない。笑いもまだ薄い。
恐怖は名前を持たないまま、財布の口を固くしている。
それでも、流れだけは動いていた。
クレドは帳面を閉じ、木箱の縁に指を置く。
「……いまは、うごかさない」
小さな声。
しかしその判断は、感覚ではなく計算の結果だった。
名付けられない流れは、いずれ誰かに見つかる。
そのとき初めて――この世界は、責任という言葉を思い出す
王都の朝は、鐘より先に羽音で始まる。
中庭に集まる鳩が一斉に飛び立つ音は、城内の時刻より正確だった。税務局の建屋では、その羽音を合図に書記たちが席に着く。誰に命じられたわけでもない。ただ、遅れれば机の上が回らなくなる。それだけだ。
石造りの室内は冷えている。冬を越した壁が湿気を含み、指先から感覚を奪う。机の上に並ぶのは、革表紙の帳面と、木箱に分けられた貨幣。金貨、銀貨、そして物納の受領札。
老書記のハインリヒは、帳面を開いたまま手を止めていた。
彼は数を数え間違えたわけではない。むしろ逆だ。数が合いすぎている。
「……同じだな」
呟きは、隣の席の若い書記の耳に届いた。
「何がですか」
「質だ」
ハインリヒは金貨を一枚、指先で弾いた。澄んだ音。刻印は深く、縁は鋭い。王都鋳造所の癖が、そのまま残っている。
「この月に入ってから、入ってくる金が揃いすぎている」
若い書記は首を傾げる。
「良いことでは?」
「良すぎる」
それだけ言って、ハインリヒは次の帳面を開いた。地方領主ごとに分けられた納付記録。その中で、ヴァルデン領の欄だけが、静かに異様だった。
遅れがない。質のばらつきもない。物納の量も、例年より多い。
――税が、通っている。
しかも、前倒しで。
「誰が集めた」
問いは、独り言の形を取ったが、すぐに上役の耳に入った。
監査官補佐が近づき、帳面を覗き込む。
「商人です。いつもの顔です」
「示し合わせた形跡は」
「ありません」
補佐は即答した。調べたからだ。港の商人、内陸の行商、顔ぶれはばらばらだ。だが、持ち込む時期と質が揃っている。
「誰かが、換えているな」
ハインリヒは言った。
「銀不足のはずだ。なのに、ここには金が来る」
補佐は一瞬、言葉を選んだ。
「闇市でしょうか」
「闇市なら、質は落ちる」
ハインリヒは金貨を箱に戻した。
「これは正規だ。正規すぎる」
王都の税務局は、異常を検知する仕組みを持っている。しかし、その多くは「不足」を前提としている。「過剰」や「整いすぎ」は、危険信号として扱われない。
帳合上、問題はなかった。
だから、その日の記録は通常通り閉じられた。
税は、通った。
港では、別の違和感が生まれていた。
荷役人夫が酒場で愚痴をこぼす。
「最近、荷が軽い」
「軽い?」
「量はある。だが、銀袋が減った」
商人は肩をすくめる。
「村じゃ、銀が回らん。だが物は動く。妙な話だ」
港の侯の配下である商務官は、その会話を聞き逃さなかった。
「誰が、換えている」
問いは、港でも同じ形を取る。
だが答えは出ない。
「クズ市だ」
誰かがそう言い、別の誰かが首を振る。
「あそこは、ただの溜まり場だ」
「だが、金が集まっている」
噂は、形を持たないまま膨らむ。
同じ頃、クズ市では、いつも通りの朝が始まっていた。
クレド・フォン・ヴァルデンは、柱の影に腰掛けている。小さな帳面。短い鉛筆。膝に収まる世界。
商人が来る。
「今日は、麦だ」
「……うん」
クレドは袋を見る。口の縛り方。縄の擦れ。底の染み。
(湿り気がある。急いでいる)
「はやめに、はこぶ?」
子供の言葉。
商人は頷く。
「頼む」
帳面に線が引かれる。
金貨は出ない。銀も多くは出ない。渡されるのは、軽い袋と、早さ。
(税という言葉が出ない限り、流れは歪まない)
(名を付ければ、責任が生まれる)
(責任は、いまは割に合わない)
遠くで、誰かがクレドを見ている。
商人でも、兵でもない。
視線は一つではない。重なっている。
(見つかった、ではない)
(見つかり始めた)
クレドは帳面を閉じる。
「……きょうは、ここまで」
誰に言うでもなく。
市場は動き続ける。
税は、すでに通ってしまった。
あとは、誰がその意味に気づくかだけだった。
王都税務局の倉庫には、いつも湿った匂いが漂っている。
土と汗と、濡れた革袋の匂いだ。地方から集まる税とは、本来そういうものだった。雨に打たれ、街道の泥を吸い、何度も人の手を渡るうちに、貨幣は黒ずみ、縁は削れ、刻印は曖昧になる。税とは、清潔なものではない。むしろ汚れていなければならない。
ハインリヒは、その感覚を四十年以上、指先で覚えてきた。
彼の指は常に黒い。銅と銀の粉が皮膚に入り込み、石鹸では落ちない。帳合とはそういう仕事だ。数を数える前に、まず汚れる。それが当たり前だった。
だが――。
ヴァルデン領から届いた木箱を開けたとき、ハインリヒは無意識に眉をひそめた。
金貨が、冷たかった。
冷たい、というのは比喩ではない。冬の朝の石のように、均一で、体温を拒む冷たさだ。掌に載せても、吸い付くような感触がない。人肌を経由してきた金属のぬくもりが、どこにも残っていなかった。
縁は削られていない。刻印は深く、揺らぎがない。重量は揃いすぎている。
まるで、人間の手を通らずに、箱から箱へと移動してきたかのようだった。
ハインリヒは金貨を弾く。澄んだ音が、倉庫の石壁に跳ね返る。その音に、濁りがないことが、かえって不安を煽った。
――これは、綺麗すぎる。
隣の机には、他領から届いた帳簿が山積みになっている。濡れた紙。乾ききらない羊皮紙。滲んだインク。言い訳の手紙。「盗賊に遭った」「嵐で街道が崩れた」「徴収が遅れた」。どれも、人間の痕跡だ。
それに比べて、ヴァルデン領の帳簿は異様だった。
最初の頁から最後の頁まで、筆跡が揺れない。行間の幅も、文字の角度も同じだ。インクの濃淡すら変わらない。
現場で書かれた記録ではない。
これは――すべてが終わった後に、一気に書き上げられた報告書だ。
しかも、結果だけを。
ハインリヒは帳簿を閉じ、ゆっくりと指を見た。
汚れていない。
いつもなら、数え終わった後には黒ずんでいるはずの指先が、白いままだった。その事実が、背筋に冷たいものを走らせる。
「税とは……」
独り言が、口から漏れた。
「泥の中から絞り出すものだ」
彼は、再び帳簿を開く。
日付にズレがない。一日の遅れもない。輸送事故の報告もない。嵐の記録もない。盗賊の被害報告もない。
――そんなはずがない。
街道には必ず摩擦がある。天候があり、人間がいて、怠慢がある。だから税は遅れ、欠け、言い訳が生まれる。
それが、この帳簿には存在しない。
「誤差がない……」
ハインリヒは低く呟いた。
「一枚のズレも、一日の遅れも」
若い書記が、困惑した顔で尋ねる。
「問題は、ないのでは?」
ハインリヒは、静かに首を振った。
「これを『田舎の幸運』で片付けるのは、無能のすることだ」
帳簿を撫でる。その表紙は、妙に乾いていた。
「この帳簿には……人間がいない」
若い書記は息を呑む。
「誰かが、条件を揃えている」
ハインリヒは立ち上がり、倉庫の窓から外を見た。王都の屋根は整然としている。だが、その整然さが、いまは恐ろしい。
「しかも、金と時間を同時にだ」
それは、個人の才覚ではない。盗賊でも、商人でもない。
――仕組みだ。
人間を前提としない、冷たい仕組み。
ハインリヒは帳簿を閉じ、棚の一番奥に置いた。
触れたくないが、忘れてはいけない。
税は通った。
だがそれは、王都が知っている税の姿ではなかった。
この完璧さの裏にあるものを、彼はまだ言葉にできない。
ただ一つだけ、確信していた。
――これは、探さなければならない。
人ではない。名前でもない。
条件を、だ。
◇
同じ頃、王城の内廷。
ヘレーネは、夫の書斎の扉の前で足を止めた。
今の時期であれば、扉の向こうから紙を叩きつける音が聞こえてくるはずだった。納税期が迫れば、必ずそうなる。領主である夫レオンハルトは、帳簿と睨み合い、金の算段に追われ、苛立ちを隠さなくなる。
だが今日は、静かだった。
扉の向こうに気配はある。人はいる。だが、焦りの気配がない。
侍女に尋ねても、家宰に尋ねても、返ってくる答えは同じだった。
「問題なく、進んでおります」
その言葉が、ヘレーネの胸をざわつかせた。
問題なく進む――そのはずがない。
徴税とは、常に誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが嘘をつく仕事だ。納税期に「問題がない」というのは、嵐の季節に波が立たないと言うようなものだった。
夕食の席でも、夫は疲れた顔を見せなかった。杯を傾けながら、他愛のない話をする余裕すらある。
その穏やかさが、かえってヘレーネを不安にさせた。
――誰かが、肩代わりしたのではないか。
夫の知らないところで。名前も告げずに。泥を被る役を引き受けた誰かが。
それが善意か、別の何かなのか。ヘレーネには分からない。
ただ一つ、母として、妻としての勘が告げていた。
この静けさは、無償ではない。
◇
クレドは、城下の正規市場を歩いていた。
人通りは多い。呼び声も、値切りの声も、いつも通りだ。街が変わったわけではない。
だが、その中に、僅かな異物が混じっている。
クズ市に出入りしている商人たちだ。
彼らは、正規市場の取引に、どこか苛立っていた。値段を詰めるのに時間がかかることを嫌い、秤を覗き込む手つきが早い。帳簿を開く前に結論を求める。
「決めてくれ。いくらだ」
そんな言葉が、場違いに早く飛ぶ。
正規の商人が戸惑う横で、彼らは足を止めない。待つことを、覚えていないかのようだった。
クレドとすれ違う瞬間、ほんの一瞬だけ、視線が合う者がいる。
何かを期待するような。あるいは、同じ場所を知っている者同士の、短い合図のような。
クレドは歩きながら、その様子を観察する。
街全体が変わったのではない。変わったのは、行動の速度だ。
即断即決。保証付き。迷いを許さない取引。
それは、クズ市の中では生き残るためのルールだった。
だが今、そのルールが、正規市場に漏れ出し始めている。
ウイルスのように。
クレドは、その光景から目を逸らさなかった。
誇らしさはない。支配しているという感覚もない。
あるのは、わずかな警戒心だけだった。
――これは、自分の手の外に出始めている。
彼は、歩みを止めずに市場を抜ける。
まだ誰も、何が起きているのかを言葉にできない。
だが確実に、条件は揃いつつあった。




