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異世界金融再建録 ― 税と貨幣と黙認の王国 ―  作者: しずか


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3

第3話「低信頼社会という沼」


 クズ市は、領地の端にあった。

 街道から半刻ほど外れた、使われなくなった空き地。かつては倉庫が立ち並び、港へ向かう荷が一時的に積み上げられていた場所だという。だが物流の流れが変わり、川筋が替わり、領主の関心が離れた瞬間、ここは地図から切り落とされた。

 税吏は来ない。ギルドも口を出さない。  代わりに残ったのは、規格外の麦袋、割れた樽、刻印の潰れた銅貨、そして――行き場を失った人間たちだった。

 空気は重い。 湿った土と、古い穀物の匂いが混じり合い、昼でも薄暗く感じさせる。人の数は多いはずなのに、どこか疎らで、視線が定まらない。誰もが、誰かを警戒している。

 ここでは秤が信用されていなかった。

 秤はある。木製の台に乗せられ、鉄の分銅も揃っている。それでも誰も、それを「基準」とは見なさない。袋の底に濡れた藁を忍ばせ、麦を一度水に晒し、樽の縁を削って嵩を誤魔化す。そんな小細工が当たり前に行われてきた結果、秤そのものが疑いの対象になった。

 商人は嘘をつく。  客もそれを前提に振る舞う。


 「重いぞ」

 「いや、濡れてるだけだ」


 怒鳴り声が飛び、袋が乱暴に開かれ、手が突っ込まれる。指先で粒の乾き具合を確かめ、掌で混ぜ物の感触を探る。さらに自分の秤を取り出し、もう一度量り直す。

 正確さは、この場所では損だった。

 疑うことが前提の取引では、誠実であるほど時間を失う。だから皆、最初から誤魔化す。相手も誤魔化すと知っているから、さらに疑う。疑い合いが積み重なり、取引のたびに泥と怒鳴り声と時間だけが消えていく。

 取引には、異様なほど時間がかかった。

 一袋の麦が売れるまで、十分、二十分。ひどい時には、怒鳴り合いの末に成立しないこともある。客は疲れ、商人は苛立ち、周囲の人間はその様子を眺めながら、いつ自分が巻き込まれるかを計っている。

 ――疑う手間。

 それが、このクズ市では最大のコストだった。

 天幕の外れで、その様子を見ていた少年は、小さく息を吐いた。

 クレドは、年齢相応の無邪気さを表に出さず、ただ静かに視線を動かしていた。誰が怒鳴り、誰が黙り、誰が一歩引いているか。袋を蹴る癖、秤に触れる手つき、視線が逸れる瞬間。


 (ここは市場じゃない)


 胸の奥で、冷静な声が告げる。

 品物は動いている。金も動いている。だが、それを結びつける「清算」が存在しない。価格はあるが、基準がない。全体がノイズの塊で、誰も全体像を掴めていない。

 勝者はいない。  ただ、疲弊だけが積み重なっている。

 クレドは、ふと一人の商人に目を留めた。

 大きな麦袋を背負った男だ。袋の口は雑に縛られ、底がわずかに湿っている。だが男はそれを隠そうともしない。周囲の視線を気にする様子がなく、歩き方にも迷いがない。

 ――誤魔化しに慣れすぎている。

 この市では、それは才能だ。疑われる前提で、疑われない程度に嘘をつく。その均衡を体で覚えた人間だけが、生き残る。

 クレドは、ゆっくりと視線を巡らせた。

 怒鳴り声。  ため息。  秤がぶつかる鈍い音。

 それらを一つずつ拾い上げ、頭の中で並べる。前世で身につけた癖だった。情報は、感情から切り離して扱う。そうしなければ、見えるものも見えなくなる。


 (私が欲しいのは、槍じゃない)


 武力で押さえつければ、この市は静かになるだろう。だが、それは解決ではない。力が抜けた瞬間、同じ混沌が戻る。


 (欲しいのは、基準だ)


 誰もが疑うことをやめられないなら、疑わなくて済む一点を作るしかない。全体を変える必要はない。視線が集まる「点」を作ればいい。

 そのために、ここが選ばれた。

 領主の目が届かず、既存の権威が存在せず、失うものの少ない人間しかいない場所。失敗しても、誰も責任を取らない場所。

 クズ市という沼。

 だが沼は、足場を一つ打ち込めば、渡れる。

 クレドは、小さな天幕の布を見上げた。色の薄い布。子供の背丈ほどの柱。中央には、磨き上げられた真鍮の天秤が置かれている。

 場違いだ。  あまりにも。

 周囲の人間が遠巻きに眺め、近づこうとしないのも無理はない。領主の紋章も、役人の印もない。ただ、籠の中に色とりどりの細いリボンが入れられ、風に揺れているだけだ。


 「……ガキか?」

 「お守り売りじゃねえのか」


 囁き声が、風に乗って届く。

 天幕の後ろに立つ書記官の男――レルムだけが、この場が冗談ではないことを示していた。背筋を伸ばし、帳面を抱え、周囲を睨むでもなく、ただ立っている。

 クレドは、その横顔を一瞬だけ見て、すぐに視線を戻した。

 不安は、当然だ。

 王家が独占すべき「秤」と「帳面」に、ここまで踏み込む行為は、知られれば罪になる。それでもレルムは立っている。

 ――覚悟は、足りている。

 クレドは、静かに息を整えた。

 まだ、何も始まっていない。

 ここからだ。

 風が吹き、天幕の布がわずかに揺れた。籠の中のリボンが、かすかな音を立てる。

 その音に、何人かが顔を上げた。

 視線が、集まり始めている。

 クレドは、小さく一歩を踏み出した。




 天幕の前には、粘つくような沈黙が溜まっていた。

 人は集まっている。確かに数はいる。だが誰一人として、最初の一歩を踏み出そうとしない。足は止まり、身体はわずかに引き、視線だけが天幕の中央へと伸びている。

 クズ市では珍しい光景だった。

 ここでは、沈黙は長く続かない。誰かが口を開けば、それに被せるように別の声が飛び、値と罵声が混じり合って、すぐに騒がしさが戻る。だが今は違う。沈黙そのものが、不安と好奇心を孕んで膨らんでいた。

 磨き上げられた真鍮の天秤が、その中心にあった。

 傷一つない皿。歪みのない支柱。光を反射する金属の縁。クズ市の他の秤が、長年の誤魔化しと疑念でくすんだ顔をしているのに対し、この天秤だけは、異様なほど素直な表情をしていた。


 ——正しすぎる。


 それが、この場の人間たちを立ち止まらせていた理由だった。

 クレドは、その反応を静かに観察していた。

 人は疑うとき、対象を直視しない。少しだけ視線を外し、逃げ道を残しながら、値踏みをする。今、この場にいる者たちの目は、まさにそれだった。天秤を見ているようで見ていない。子供を見ているようで、決して目を合わせない。


 (疑っているのは、秤じゃない)


 クレドは気づいていた。

 疑われているのは、

 「ここで何が起きるのか」

 だった。

 「……なんだ、ここは」


 沈黙を破ったのは、麦袋を背負った男だった。

 肩幅が広く、動きに無駄がない。袋の底がわずかに湿っているのを、本人は気にも留めていない。誤魔化しが日常に溶け込んでいる者の態度だ。

 男の視線が、天秤から籠の中のリボンへ移り、最後にクレドで止まった。

 子供。

 その事実が、この場をさらに歪めている。


 「ねえ、おじさん」


 クレドの声は高く、だが張り付くように澄んでいた。怒鳴り声に慣れたこの市では、かえって耳に残る音だった。

 男は一瞬だけ視線を下げる。その目に浮かんだのは、侮りではない。計算だった。


 (こいつは、何者だ)


 「その袋、何斤あると思う?」


 問いは、あまりにも無防備だった。

 周囲がざわめく。重さを問うことは、この市では挑発に等しい。正確に答えれば損をし、外せば恥をかく。


 「……なんだ?」


 男の声に、警戒が滲む。


 「当てっこしようよ」


 クレドは天秤を指差した。小さな指先に、迷いはなかった。


 「僕の秤の数字と、ぴったり同じだったら、銀貨一枚あげる」


 空気が、目に見えて重くなる。

 銀貨一枚。

 日雇い数日分。クズ市では、喉が鳴る額だ。周囲の人間の表情が、一斉に変わる。興味が、欲に変わり、欲が警戒と混ざり合う。

 男の思考が、顔に浮かぶ。

 秤は信用できない。だが、子供が銀貨を持っている保証もない。外れても失うものは、ほとんどない。


 「外れたら?」

 「外れたらね」

 クレドは籠から一本、赤いリボンを取り出した。

 細い布切れ。安物だ。だが風を受けて揺れると、不思議と視線を引きつける。


 「これを、袋に結ばせて」


 男は鼻で笑った。その笑いには、軽蔑と安堵が混じっている。

 「いいだろう。暇つぶしだ」


 彼は感覚で数字を告げた。長年の経験で染みついた“誤魔化し込み”の重さ。底の湿り気を、無意識に差し引いた数だ。

 袋が天秤に載せられる。

 真鍮の皿が沈み、針が揺れる。

 その微細な動きを、周囲の人間が息を詰めて見守っていることに、男は途中で気づいた。普段なら、誰もここまで他人の秤を見ない。


 (なぜ、こんなに静かなんだ)


 針が止まる。

 数字は、男の申告から、わずかに外れていた。


 「……ちっ」


 舌打ち。

 男の肩が、ほんの少し落ちる。負けを認めたくない癖が、身体に染みついている。

 クレドは何も言わなかった。勝ち誇りも、説明もない。ただ黙ってリボンを袋の口に結ぶ。

 指先が、布と麻の感触を確かめる。その動作が、妙に丁寧だった。


 「はい。証明」


 その言葉が、場の空気を切り替えた。

 通りがかりの客が足を止める。

 袋。  リボン。  天秤。

 視線が、三点を往復する。

 この市では、客は必ず袋を開ける。開けずに買う者は、騙された間抜けと笑われる。

 だが今、客の手は袋に伸びなかった。

 迷いが、表情に浮かび、そして消える。

 袋を調べるには、時間がかかる。混ぜ物を探し、秤を出し、商人と揉める。その手間は、積み重なれば一日を削る。

 一方、リボンを信じるリスクはどうか。

 騙される可能性はある。だが、失うのは一袋分だけだ。

 客は、無意識のうちに天秤をかけていた。

 時間と労力。  それに対して、限定された損失。

 結論は、表情が決めた。

 客は袋を叩かず、秤も出さず、腰の革袋から銀貨を一枚抜き、軽く放った。

 乾いた音。

 商人が何か言う前に、客は袋を担ぎ、歩き出していた。

 取引は、瞬きする間に終わった。

 その速さに、周囲の人間の呼吸が乱れる。

 商人は足元の銀貨を拾い上げ、しばらく黙って見つめていた。

 早い。

 早すぎる。

 なぜだ。

 クレドは知っている。

 このリボンは、品質を保証したわけではない。正確さを示しただけだ。

 そして何より重要なのは、この子供は嘘をついても得をしない、という事実だった。

 中立。

 この市で、最も希少な立場。

 誰かが、そのことに気づいた瞬間、リボンの意味は変質した。

 ただの布切れが、「第三者による検品済み」という情報に変わる。

 情報は、疑念を圧縮する。

 疑う手間を、一本のリボンに押し込める。それだけで、取引の回転は跳ね上がる。


 「……おい、俺のも量れ」


 声が上がる。


 「待て、俺が先だ」


 二人目、三人目。

 負けた商人ほど、リボンを外さなかった。

 外せば、負けを認めることになる。そして何より——外せば、あの“速さ”が消える。

 クズ市の一角だけが、妙に静かになった。

 怒鳴り声というノイズが消え、硬貨と品物が移動する音だけが響く。


 ——裁定機会が、音もなく消えていった。



 異変は、唐突に起きたわけではなかった。

 それは、ゆっくりとした“詰まり”として現れた。

 昼下がり。天幕の周囲では、いつの間にか取引の音だけが規則正しく響いていた。怒鳴り声は消え、揉め事も起きない。袋が渡り、硬貨が鳴り、人が流れる。

 速い。

 クズ市ではありえない速度だった。

 だが、その流れの中で、誰かが足を止めた。

 芋を買おうとした客だった。痩せた男で、肩にかけた籠は軽そうだ。彼は銀貨一枚を差し出し、商人を見上げた。

 商人は、袋を受け取らず、肩をすくめる。


 「釣りがねえ」

 声は低く、苛立ちも諦めもない。ただ事実を告げている。

 銀貨は、この市では重すぎた。

 日常の取引は銅貨で行われる。だが、取引の回転が上がるにつれ、銅貨は場から消えていった。細かく崩され、別の取引へと流れ、戻ってこない。

 小銭不足。

 それは、取引が活発になる市場ほど、早く訪れる症状だった。

 客は銀貨を握り直し、眉を寄せる。商人も困った顔で周囲を見回す。誰かが崩してくれるのを待っている。

 流れが、止まりかけていた。

 その瞬間だった。


 「待って」

 高く、小さな声。

 だが、その場の空気を確かに止めるだけの力があった。

 二人が同時に振り返る。周囲の視線も、一斉に集まる。

 クレドは天幕の中から一歩進み出ていた。


 「僕が、銀貨を預かるよ」


 一拍。

 沈黙。

 商人の目が細くなり、客の指が銀貨を握り直す。疑念が、即座に立ち上がる。


 (持ち逃げされる)


 誰もが、同じ結論に辿り着く。

 クズ市では、信頼とは奪われる前提で扱うものだ。


 「……どうやって?」


 客が低く尋ねた。

 クレドは、視線を横に送る。

 レルム。

 書記官の男は、一瞬だけ目を伏せ、そして前に出た。何も言わない。その代わりに、机の上へ重厚な木箱を置く。

 木と金具が触れ合う、低い音。

 箱の蓋には、領主家の紋章が刻まれていた。

 商人の視線が箱に吸い寄せられ、次にレルムの顔へ移る。客も同じ順で目を動かす。


 「銀貨は、ここに入れて」


 クレドの声は落ち着いていた。


 「鍵は書記官のレルムが持つ。だから、誰も持ち逃げできない」


 レルムは無言のまま、鍵束を指で押さえた。金属が触れ合う、微かな音。

 それが、保証だった。


 「そのうえで」

 クレドは帳面を開く。紙が擦れる音が、やけに大きく響く。


 「帳面に書くの。『この人は銀貨一枚分、貸し』『この人は芋一袋分、借り』って」


 沈黙が、重く落ちる。

 帳面。

 それは、この世界で最も危うい道具だった。

 文字は、人を縛る。記録は、嘘を許さない。そしてそれを扱うのは、本来、王家だけだ。


 「……あとで、出せるんだな?」

 客の声は、かすれていた。


 「もちろん」

 クレドは即答した。迷いのない声。


 「帳面を持ってくれば、箱から出すよ」

 レルムが、鍵束を一度鳴らす。

 銀貨は、ゆっくりと箱の中に落とされた。

 硬質な音。

 それは、ただの金属音ではなかった。

 この市で初めて、銀貨が“流通から切り離された”音だった。

 取引は成立した。

 それだけだった。

 だが、異変はそこから加速した。

 次の客が来る。彼は、最初から帳面を指差した。


 「銀貨は、あそこに入れてくれ」


 理由は単純だった。

 重い。

 危ない。

 そして——帳面の方が、速い。

 銅貨は動かない。

 銀貨は箱の中で眠り、帳面の数字だけが増えていく。

 市場にあるはずの金属が、姿を消し、代わりに紙の上の数字が人を動かし始める。

 レルムは、その光景を、喉の奥がひりつく思いで見ていた。

 これは預かりではない。

 預かりなら、必ず返す前提がある。

 だが今、誰も返却を急いでいない。

 帳面の数字で、満足している。


 (知られれば、罪になる)

 決済。

 それは王権の根幹だ。勝手に触れていいものではない。

 だが、帳面を閉じることはできなかった。

 今日一日で見た“速さ”が、頭から離れない。

 天幕の外で、リボンが風に揺れ、乾いた音を立てる。

 夜。

 クズ市の灯が消え、人の流れが途切れたあとも、天幕の周囲には足跡が残っていた。踏み固められた土が、昼の熱を遅れて吐き出している。

 レルムは帳簿を広げ、深く息を吐いた。肩が、昼よりも重く見える。

 数字は、合っている。

 だが、すべてが一日で定着したわけではない。帳面に名を残した者は、まだ一部だ。様子見の視線が、市の暗がりに残っている。

 それでも、銀貨はほとんど動いていない。箱の重さが、それを物語っていた。


 「……信用が、創造され始めています」

 言葉を選び、レルムは低く言った。

 丘の上。

 クレドは、灯の消えた市を見下ろしていた。


 (今日は、種を蒔いただけだ)

 盤面は、まだ荒い。標準も、信用も、芽を出したばかりだ。


 「今は、タダでいい」

 子供の声が、夜気に溶ける。


 「これがなくては困るものになった時……その時、値段は僕が決める」

 風が吹き、リボンが揺れた。

 支配は、音を立てずに始まる。



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