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第2話「銅貨と沈黙」
市は、音から壊れ始める。
クレド・フォン・ヴァルデンは、父の半歩後ろを歩いていた。四つの身体はまだ小さいが、視線は低くない。石畳の隙間に溜まった泥、水分を含んだ藁屑、露店の脚に打たれた鉄釘の錆び具合まで、無意識に拾っていく。
違和感は、騒がしさの欠落として現れていた。
人は多い。だが、声が軽い。呼び声が長く続かない。値段を叫ぶ露天商の喉が、必要以上に乾いている。買い手は足を止めるが、触れない。触れても、戻す。布地を撫でる指が早い。肉を叩く音がない。硬さを確かめる仕草が省略されている。
――回転が落ちている。
頭の中で、そう整理される。
父――レオンハルト・フォン・ヴァルデンが、歩みを止めた。穀物商の前だ。板に書かれた価格は、前日比でわずかに上がっている。だが、数字は問題ではない。文字の濃さが違う。書き直されている。
「昨日と、値が違う」
父はそう言った。
クレドは、板ではなく穀物を見る。粒が揃っていない。混ざりものが多い。乾燥が甘い。去年の麦だ。水分量が多く、保存性が低い。供給が絞られているのではない。質が落ちている。
――量ではなく、質で価格を維持している。
それは、売り手の交渉力が低下しているときの典型だ。
足元に、銅貨が落ちていた。
拾い上げる。軽い。指で弾く。音が鈍い。縁の摩耗が進んでいる。刻印が浅い。含有量が足りない。銅の色が僅かに暗い。
――悪銭。
口には出さない。だが、判断は即座だった。
この国は金本位だ。価値の基準は金にある。銀は補助、銅は日常。銅貨は信用の末端だ。その末端で、含有量が削られ始めている。
これは政策ではない。自然発生的な信用収縮だ。
両替商の屋台の前で、人が滞留していた。秤が揺れる。針が止まらない。商人は黙り込み、客の顔を見る。秤ではなく、目を見て判断している。
――選別が始まっている。
銅貨の量ではない。誰が持ってきたか。身なり。靴底の減り。外套の縫い直し。信用力を、視覚情報で補完し始めている。
新貨幣が混じっている。刻印が深く、縁が鋭い。だが、数が少ない。流通していない。良貨は溜め込まれている。
悪銭が市場を巡り、良銭が消える。
――グレシャムの法則。
だが、ここでは教科書的ではない。もっと原始的で、残酷だ。
露天商の品物は安い。だが、買われない。理由は価格ではない。購買力が落ちている。人々の財布の中身ではなく、心理的な可処分性が縮んでいる。
恐怖は、まだ名前を持たない。ただ、動作を削る。交渉を省く。試食を避ける。笑わない。
父が、何かを言おうとして、やめた。
剣の人間は、まだ事象を“敵”として認識していない。天災か、反乱か、外敵か。そういう形になるまで、剣は抜かれない。
だが、クレドは知っている。
市場は、敵意より先に沈黙する。
歩きながら、頭の中で条件分岐が走る。
――このまま悪銭の比率が上がれば、両替は止まる。 ――両替が止まれば、銅の価格は実質的に下がる。 ――下がった銅で、日用品の価格は上がる。 ――価格が上がれば、回転はさらに落ちる。
ループだ。
出口は、まだ見えない。
城へ戻る途中、川の匂いが強くなった。上流で水量が増えている。気候の変化。備蓄に影響が出る。だが、それは二次的だ。
その夜、クレドは銅貨を並べた。重さを量らない。比べる。縁。色。音。
良貨は二枚。悪銭が四枚。
比率は、すでに六割を超えている。
――早すぎる。
これは、天災の結果ではない。天災の前兆として、貨幣が先に壊れている。
クレドは、何も言わない。
言えないのではない。言えば、誰も信じないと知っている。
彼はまだ四つで、世界は、まだ静かだからだ。
屋敷へ戻る道の空気は、雨上がりの土の匂いと、干しかけの藁が吐く甘い湿気が混じっていた。薄い霧が地面から立ち上がり、道の両脇の草の先で水滴が光を拾う。けれど、その光は温かくない。陽は落ちきらず、空の青が残っているのに、影だけが先に冷え始めている。
靴底が泥を踏むたび、わずかに粘る音がして、そこに混ざる砂利の乾いた擦過音が、今日一日の情報をもう一度、頭の中で攪拌する。視界の端を横切る小作人の姿——肩の落ち方、袖口の擦り切れ、背負籠の重さ——それらは数字ではないのに、数字より正確に「この領地の実質購買力」を語っていた。
——私は、鷹司恒一だ。
その事実は、思い出としては遠いのに、思考の癖としては、いまも掌の皮膚の裏側に貼りついている。手元の空気が変わる。匂いが変わる。人の声の抑揚より、沈黙の長さの方が情報量を持つ。そういう世界で、金利の一言、政策当局者の瞬き一つが、市場の重力を変えるのを見てきた。
そして今、目の前のこの国でも、同じ重力が働いている。ただしそれは、端末の数字ではなく、麦と鉄と塩と、そして硬貨の摩耗で現れる。
屋敷の門が見えた。門扉の鉄の蝶番は油が切れていて、開閉のたびに短く擦れる音を立てる。見張りの兵の目は、眠いのではない。疲れているのでもない。——「慣れすぎている」。脅威の変化に対して、瞳孔が反応していない。これは警備のコスト削減ではなく、情報感度の劣化だ。
玄関に入った瞬間、空気の層が変わる。外の湿気が、屋敷の乾いた木と古紙の匂いに押し返され、廊下の奥からは炭の残り香が淡く漂ってくる。壁に掛けられた布が湿気を吸って重くなり、微細な埃が舞いにくい。息を吸うと、喉に触れる温度が半拍遅れて伝わる。
——この屋敷は、守りを厚くするより先に、帳尻合わせで生き延びている。
それは批判ではない。観察だ。
学びの間は、灯火が二つ。片方は油の質が悪く、炎が揺れるたび、煤が芯の周りに黒く溜まっていく。もう片方は、芯がよく整えられていて、炎がほとんど揺れない。——同じ火でも、運用が違えば出力が違う。
文官のレルム(父の配下の書記官)は、机に向かっていた。肩は丸いが、姿勢が崩れているわけではない。背中の線が硬い。疲労ではなく、緊張で固まっている。
「坊っちゃま。お戻りで」
声は丁寧だが、語尾がわずかに沈む。礼儀の問題ではない。——先に言うべき悪い報告が喉の奥に引っかかっている。
机の上には、羊皮紙の束。端が指で黒ずんでいる。頻繁に扱われた証拠だ。片隅に、銅貨が二枚。どちらも同じ大きさなのに、片方だけ光沢が鈍く、縁の摩耗が早い。
「それは……銅の質が違う?」
レルムが、目だけで驚く。口は開かない。——肯定だ。
「最近、街で混ざり始めました。鋳潰しを恐れて、刻印を変えた“新銅”だと」
新貨幣。悪銭。グレシャムの法則は、この世界でも例外なく働く。良銭が消え、悪銭が残る。残るのは硬貨だけじゃない。——信用も、残りかすになる。
「混ぜ物は?」
「鉛が多いと噂です。重く見せかける。だが、すぐ曲がる」
鉛。安く、重く、柔らかい。市場で“量”を偽装する典型だ。いま起きているのは貨幣供給の不足と、それに対する質の劣化による『流動性の砂化』。硬貨が回らない。回るのは、すぐ壊れる硬貨だけ。——市場の摩擦が増える。
私は椅子に座り、紙束の端を指でなぞった。古紙の匂いが指先に移る。湿気を吸って、紙が少しだけ柔らかい。
「今日は街で麦を見た。水分を含ませて、古い麦を混ぜていた」
「……坊っちゃま」
レルムが言葉を失う。失礼を恐れたのではない。——子どもが、その欺瞞の“構造”を理解していることに反応した。
「供給が絞られているんじゃない。質が意図的に落とされている。量を操作しているのではなく、質をごまかして価格を維持している」
私がそう言うと、レルムは、紙束の一枚を静かに差し出した。
「こちらが……今季の徴税の見通しです」
数字は粗い。だが、粗いからこそ嘘が混ざる余地がある。俺は紙面の空白を見た。数字よりも、書かれていない欄の方が怖い。
「王都は、金を絞っている」
レルムは、油灯の炎を見たまま、うなずいた。
「はい。北方の戦備を理由に、中央は“正貨”の流出を嫌い、金貨の鋳造を抑えています。銀は税に回され、銅は……この通りです」
金本位の檻。金が減れば、すべてが縮む。貨幣供給が不足すれば、価格は硬直し、取引が止まり、税収が落ちる。税収が落ちれば、中央はさらに絞る。
——デフレの渦。
「北は落ち着かぬ。王都は金を絞る。港の侯は笑う」
この三つは、ただの詩じゃない。地政学だ。金融の潮目だ。
「港の侯が笑う理由は?」
「銀が集まるからです。海は物流の血管で、彼らはその弁を握っている。関税と手数料で、中央が絞るほど、彼らの『取り分』が増える」
物流=課税権。税と手数料は、時代を問わない。
「この領地は、どこに挟まれている?」
レルムは地図を広げる。羊皮紙が擦れる音が、妙に大きい。静寂が深い証拠だ。
「西に港の侯。北に北方伯。南は山地で小領主が散らばり、東が王都へ通じる街道です」
挟まれているのは地理だけじゃない。——政治的な“スプレッド”だ。
「父上は、どの派閥に?」
レルムが一瞬、視線を落とす。
「……どこにも深く属しておりません。先代様が武功で与えられた土地。横の繋がりが薄い。中央にも港にも借りが少ない代わりに、庇護も薄い」
武功派の孤立。これは信用の薄い企業に似ている。資本市場では、調達コストが跳ね上がる。
「父上の家臣団は?」
「厚くはありません。忠誠は……個々にありますが、層が薄い。代替が効かない」
キーマンリスク。組織のリスクは、戦場でも財務でも同じ形を取る。
そのとき、廊下の向こうで、足音が止まった。布擦れの音が一つ。次いで、扉の外で、誰かが息を吸う。
父だ。
扉が開く。冷たい外気が一瞬だけ入り込み、灯火の炎が揺れる。父の手が見えた。剣だこ。骨が太い。指が硬い。
「学んでいるか」
声は低い。威圧ではない。——規律。
父は机の上の地図を見る。見るというより、敵地を見る目で“押さえる”。地形を読むのは武人の本能だ。だが、数字を読む目とは別の筋肉を使う。
私は、あえて言葉を選んだ。
「父上。この領地は、いくらで守れますか」
父の眉が動く。驚きではない。——違和感だ。
「守るのに要るのは、兵と槍と米だ」
経費の概念はある。兵糧、武具、給金。けれど、今俺が問うているのはそこではない。
「では、父上。この領地は、いくらの価値がありますか」
父の笑みが、止まった。
価値。バリュエーション。投資判断。損切りライン。武人の辞書には、本来載っていない単語だ。
父にとって土地は“守るべきもの”であり、計算対象ではない。命を投じて維持するものだ。だが市場では、価値とコストの差分だけが未来を決める。
私は父の目を見て、続ける。
「守るための費用が、得られる税と作物と交易より大きいなら、いつか破綻します。破綻する前に、手を打つ必要がある」
父の喉が鳴った。怒りではない。——理解しようとしている音だ。
「……子が、何を言う」
その声に、拒絶よりも、測りが混じる。父もまた、戦場で何度も“割に合わぬ戦”を見てきたはずだ。だがそれを、金と価値の言葉で表現したことがない。
レルムが、息を止める。灯火が、かすかに鳴る。油が芯に染みる微細な音だ。
俺は視線を地図へ戻し、淡々と言った。
「北方伯は戦備で金を欲しがり、王都は正貨を絞り、港の侯は銀で笑う。いまこの領地に必要なのは、槍より先に“信用”です。悪銭が流れれば、信用が死にます。信用が死ねば、税も兵も死にます」
父は黙ったまま、銅貨を手に取る。指で縁をなぞり、摩耗を確かめる。
——武人の手が、いま初めて“貨幣の質”を測っている。
その瞬間だけ、屋敷の空気が変わった。古紙と油と湿気の匂いの奥で、何かが僅かに燃え直す。
それは希望ではない。
ただ、戦場の前にだけ訪れる、静かな集中だ。
父が去ったあと、レルムが低い声で言う。
「坊っちゃま。国の成り立ちを、改めて整理いたしますか」
私はうなずいた。説明を求めたわけではない。——状況の“モデル化”が要る。
レルムは静かに語る。
この国は、百年前の大飢饉と疫病のあと、諸侯が乱立した時代を経て、王都が“金貨の鋳造権”を握ることで再統一された。統一の根拠は剣ではなく、貨幣だった。金貨が唯一の正統であり、税は金で納められ、金が国の背骨になった。
しかし背骨は、折れる。
近年、北方の緊張で金が軍費に吸われ、王都は鋳造を抑え、地方へ金が回らなくなった。地方は銀と銅で繋いだが、銀は流出し、銅は劣化した。流動性が不足し、物価が硬直し、取引が止まる。
その結果、露天商は質をごまかし、領主は税を前倒しし、農民は種籾を食う。
——緩慢な破綻。
私はその話を、感情ではなく、損益表として聞いていた。
この領地のBSは薄い。流動資産(現物)が痩せ、負債(軍役・年貢の取り立て圧力)が増え、キャッシュフローは詰まり始めている。金本位という制度は、救済のための通貨発行を許さない。
救うなら、信用を作るしかない。
信用とは、約束だ。
そして約束とは、——制度だ。
油灯が一度だけ強く揺れて、炎が細くなった。芯が煤を噛んだ音がした。
私は指で机を一度だけ叩く。無意識のマイクロ・ジェスチャー。前世の癖。思考を区切るための、合図。
この国の市場は、まだ未成熟だ。だからこそ、歪みは大きい。
歪みが大きい場所には、裁定の余地がある。
そして裁定が成立するためには、流通と信用のインフラが要る。
——この領地は、いくらで守れるか。
その問いは、父を刺すためではない。
この世界の重力を、正しく測るための、最初の秤だ。
学びの間に、沈黙が戻った。
油灯の炎は細く、しかし安定している。煤を噛んだ芯の匂いが、わずかに焦げた甘さを含んで鼻腔に残る。机の上には帳簿が広げられたまま、インクの黒が湿った紙に染み込み、ところどころで輪郭を失っていた。滲みは、金の流れがどこかで詰まり、溜まり、押し戻されている証拠のように見える。
レルムは椅子に深く腰を下ろし、両手でこめかみを押さえていた。
「……鍛冶屋です」 低い声だった。疲労ではない。時間切れの音だ。
「武具鍛冶屋への支払いが、三日後に迫っています。槍先と鎧の修繕分で、銀貨五十枚。ですが……」
彼は机の隅に寄せてあった布袋を解き、中身を見せた。縁の欠けた銅貨、色の鈍い銀貨。触れればわかる、密度のない重さ。
「この通りです。良貨は二十枚ほどしか残っておりません」
私は椅子に座ったまま、その様子を見ていた。 ——資金ショート寸前。 前世なら、即座に警告灯が点る局面だ。流動性不足。短期債務に対し、即時に使えるキャッシュが足りない。しかも相手方——カウンターパーティ——は交渉力の強い独占業者だ。
「鍛冶屋は、質の良い銀でなければ受け取らぬ、と」
「はい。悪銭なら、三割の上乗せを要求する、と……」
三割。スプレッドとしては暴利だが、流動性が枯れた市場では珍しくない。現金の希少性が、価格を歪める。
私は帳簿に視線を落とした。 子供が大人の机を覗き込むように、少し身を乗り出す。だが視線は、数字ではなく“構造”を追っている。
羊皮紙は古く、指でなぞるとざらりとした抵抗がある。墨の黒は場所によって濃淡があり、頻繁に書き直された行は、紙が毛羽立っている。
「ここ……」
私は、わざとゆっくり指を滑らせた。
鍛冶屋への支払い。銀貨五十枚。——Payable。 その下、別の欄に、小さな字で書かれた記録。
炭代。来月納入。銀貨二十五枚。 年貢(鍛冶屋分)。銀貨五枚。 ——Receivable。
私は、そこで指を止めた。
——両建て。 債務と債権が、同じ相手に対して存在している。行って帰ってくるキャッシュフロー。グロスで見るから苦しいだけで、ネットすれば話は違う。
「……ねえ、レルム」
私は机の上の銀貨を一枚取り上げ、指で弾いた。硬い音が、乾いた部屋に転がる。
「この銀貨、お散歩が好きなの?」
レルムが顔を上げた。
「……はい?」
私は銀貨をもう一度弾く。今度は少し弱く。縁が机に当たり、かすかな震えが指に返ってくる。
「だってさ、鍛冶屋さんにあげても、来月にはまたウチに帰ってくるんでしょう?」 私は帳簿の炭代の行を、ちょん、と指で叩いた。 「行って、帰って。それだけなのに、歩いてるあいだに、銀貨がすり減っちゃうよ」
レルムの眉が寄る。
「……坊っちゃま、それは……」
私は首を傾げる。子供の仕草で。
「だったらさ」
声を少しだけ弾ませる。
「『炭はタダでいいよ』って言って、そのぶん、武器を安くしてもらえばいいじゃない」
鍛冶屋だって馬鹿じゃない。悪銭を掴まされるリスクより、税金という『確実な負債』を帳消しにしてもらう方が、実質的な実入りはいいはずだ。これは双方に利益があるディールだ。
——空気が、止まった。
油灯の炎が揺れたのは、風のせいではない。レルムが、無意識に息を止めたからだ。
「……相殺……」 彼の唇が、音にならない言葉をなぞる。
私は銀貨を掌に乗せ、重さを確かめるふりをした。
「ほら。重たいまま。お散歩しなければ、削れない」
レルムは帳簿を引き寄せ、羽根ペンを取った。インク壺に沈める手が、わずかに震えている。
計算が始まる。 五十枚の支払い。 そこから、炭代二十五枚、税五枚を差し引く。 ——ネットで、二十枚。
「……足ります」 声が、掠れた。 「手元の良貨で……足ります……」
彼は顔を上げ、私を見た。 その瞳に浮かんでいるのは、称賛ではない。理解でもない。 ——畏怖だ。
「坊っちゃま……これは……天啓です」
私は、ただ銀貨を机に戻した。
——バランスシートの圧縮。 流動性がないなら、債権で殴ればいい。グロスの幻想を捨て、ネットで現
実を見る。それだけの話だ。
だが、この世界では、それが“魔法”に見える。
油灯の炎が、安定した。 帳簿のインクは、もう滲んでいないように見えた。
父への報告の場に、私は同席していた。壁際で、静かに。
夕刻の光が、障子の隙から斜めに差し込み、床板の木目を浮かび上がらせている。油灯はまだ点けられていない。昼と夜の境目の、判断が鈍る時間帯だ。
「鍛冶屋の件、うまく片付いたそうだな」
父の声は低く、短い。問いというより、事実の確認だった。言い切りに近い調子だが、語尾の奥に、わずかな緩みがある。張りつめていた何かが、一段だけ解かれた音。
レルムは一拍、呼吸を整えた。胸の前で重ねた指が、微かに擦れる。
「はい」
声は抑えられているが、張りがある。逃げも誇りも含まない、実務者の音だ。
「支払いは、予定どおり完了しております」
父は視線を上げ、レルムを見る。鋭さはない。ただ、相手の輪郭を測る目。戦場で敵味方を仕分けるときと同じ筋肉が使われている。
「……詳しい話は要らん」
言葉の間に、短い沈黙が落ちる。部屋の中の空気が、少しだけ軽くなる。
「結果が出たなら、それでいい」
父はそう言ってから、わずかに顎を引いた。
「レルム。よくやった」
その瞬間、レルムの背中の線が、ほんの僅かに強張った。喜びではない。重さだ。評価を受け取るという行為の、責任の重さ。
「……いえ」
口を開いたところで、言葉が途切れる。声は、続こうとして止まった。
私と、目が合った。
私は何も言わない。ただ、子供の顔で、瞬きを一つする。意味を持たせない動作。意味を通わせる合図。
「……運が良かったのです」
レルムはそう言い切り、視線を下げた。逃げではない。線を引いたのだ。
父はそれ以上、踏み込まなかった。問いを重ねないという判断。それもまた、統治の技だ。
「そうか」
短い一言で、場が閉じられる。話題は終わった。
その瞬間、レルムと私のあいだに、言葉を使わない了解が結ばれた。 ——この件は、ここまで。
夜。
私は一人、窓辺に立つ。
市の灯が、点々と闇に浮かんでいる。人の声、金属の触れ合う音、呼び込みの調子。それらが溶け合い、ひとつのざわめきになって届く。賑わってはいるが、整ってはいない。
露店の前で、銀貨が受け渡される。行って、帰って、また行く。同じ硬貨が、意味のない距離を何度も往復する。そのたびに、縁が削れ、価値が摩耗していく。
今回の相殺は、止血にすぎない。 血は止まったが、体質は変わっていない。
通貨の不足も、金本位の檻も、北方の火種も、何ひとつ消えていない。
——応急処置だ。
私は窓枠に手を置く。木の冷たさが、掌に残る。現実の感触。
市場は、まだ盤面ではない。 ノイズが多すぎる。
「……次は、もっと大きな仕組みがいる」
声は、小さく、誰にも届かない。
視線の先で、銀貨がまた一枚、別の手に渡る。
「まずは……あの音を、消そうか」
銀貨は、もう歩かせない。




