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泣かない赤子
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最初にあったのは、音だった。
遠くで、金属が触れ合う乾いた響き。一定の間隔ではない。打ち鳴らされているわけでも、落とされたわけでもない。人の動きに合わせて、不規則に擦れる音だ。その音が、闇の底で反響し、ゆっくりと輪郭を持ち始める。
次に、匂いが来た。
埃。古い木材。汗と革。わずかに混じる鉄の匂い。どれも鋭くはないが、逃げ場がない。湿気は少なく、空気は乾いている。その乾燥が、喉ではなく、皮膚の内側から水分を奪っていくようだった。肌に触れる布は硬く、繊維の一本一本が、存在を主張する。温度は低い。冷たさが、身体の中心から外へ向かって広がっていく。
光が差し込む。
高い天井の梁の隙間から、昼の光が細く落ちている。直線的で、容赦がない。白い光が、石の床に細長い帯を作り、その縁で急激に暗くなる。影は濃く、深い。人の顔は、光に照らされた部分だけが浮かび上がり、残りは削り取られたように闇に沈んでいる。表情は読めない。歪んでいるのではない。最初から、完成していない。
視界が、滲む。
焦点が合わない。だが、情報は流れ込んでくる。色と形が混じり合い、意味になる前に崩れていく。その中で、動く影だけが分かる。大きな影。小さな影。規則性はないが、秩序はある。ここは、そういう場所だ。
呼吸が、思い通りにならない。
肺が十分に広がらない。空気は入ってくるが、身体がそれを受け取る準備をしていない。呼吸は浅く、短い。だが、苦しくはない。むしろ、何かが止まっている感覚がある。動き出すべき機構が、まだ接続されていない。
布が、擦れる。
それはごく小さな音だった。だが、この空間では過剰なほどに大きい。抱き上げる腕が動いたのだと、遅れて理解する。揺れが伝わる。上下ではなく、横。一定の幅で、繰り返される。世界が、規則的に左右へ流れる。
光と影が、入れ替わる。
白い帯が視界から消え、暗がりが広がる。代わりに、別の光源が現れる。炎だ。油灯の、鈍い黄色。揺れているが、温度は感じない。その光は、物の輪郭を曖昧にし、角を丸める。影は薄く、だが逃げ場がない。包み込むように、すべてを覆う。
音が、一つだけ残る。
規則正しい。乾いている。間隔は一定だ。時計ではない。水でもない。靴底が、石に触れる音だ。遠ざかったり、近づいたりしない。ただ、同じ距離で続いている。この空間が、今も機能していることを示す、唯一の証拠のようだった。
視界の端で、何かが光る。
丸い。小さい。複数。金属だ。互いに触れ合い、微かに音を立てる。その音は、先ほど聞いた金属音と同じだった。だが、今度は近い。振動が、布越しに伝わってくる。重さがある。落ちないように、誰かの指が無意識に力を込める。その微細な動きが、触覚として伝わる。
声がする。
意味は分からない。抑えられている。低い。だが、緊張は感じられない。代わりに、慣れがある。ここでは、こういうやり取りが日常なのだと、空気が語っている。
泣こうとしていないことに、気づく。
喉は開いている。息もある。だが、音に変換されない。必要がない。ここで声を上げる理由が、見つからない。静かさは、不安定ではあるが、壊れてはいない。崩れる音は、まだ聞こえない。
指が、動く。
意思とは関係なく、ゆっくりと。握ろうとして、完全には閉じない。筋肉が、命令を理解していない。そのもどかしさが、身体の奥で小さな振動になる。だが、それもすぐに収まる。今は、動かなくていい。そういう判断が、どこかで下されている。
世界は、冷えている。
だが、凍ってはいない。
石は固く、空気は乾き、光は鋭い。それでも、すべてが停止しているわけではない。流れは遅いが、途切れてはいない。だから、この場所は、まだ終わっていない。
そのことだけを、理解したまま、意識は再び沈んでいった。
石の冷たさは、知っている。
この屋敷に移ってから、何年が経ったのかを正確には覚えていない。だが、床の冷えが変わらないことだけは確かだ。夏であろうと、冬であろうと、石は石のままだ。熱を持たず、情を映さない。武功で与えられた城は、いつもこうだった。
父は、鎧を外した。
鉄と革が擦れる音が、廊下に短く響く。兵の前では脱がないそれを、ここでは外す。指が留め具を解き、肩の重さが抜ける。身体が軽くなる感覚はあるが、気は抜けない。武装を解いたからといって、判断を休めることは許されない。
空気は乾いている。
埃が舞い、喉に絡む。外で汗をかいた身体には、かえってこの乾燥が痛い。だが、湿った空気よりはましだ。腐敗は、湿度から始まる。戦場で覚えた感覚が、今も判断基準になっている。
歩を進めるたび、床石が鳴る。
音は一定だ。誰が歩いているか、聞き分ける必要はない。この城では、父の足音が基準になる。早すぎず、遅すぎず。兵にも、家臣にも、合わせさせる歩幅。
扉の前で、立ち止まる。
中から、微かな布擦れの音がする。泣き声はない。知らせを受けたとき、ほんの一瞬だけ胸の奥がざわついた。だが、それはすぐに収まった。泣くかどうかは問題ではない。生きているかどうかだけが、重要だ。
扉が開く。
油灯の光が、室内を満たしている。黄色く、鈍い。戦場の火とは違う。人の暮らしの火だ。その光の中で、女が一人、立っている。母だ。背は伸びているが、肩に力が入っている。布越しに伝わる緊張が、空気を硬くしている。
母は、赤子を抱いていた。
その腕は、僅かに震えている。自覚はない。だが、指先が布を掴む力が、必要以上に強い。落とさないためではない。離さないための力だ。
父は、距離を詰めない。
一歩手前で止まる。近づきすぎると、全体が見えなくなる。戦でも、政でも、同じだった。視界を確保するための距離。それが、この家の距離感だ。
赤子は、泣いていない。
母は、それを異常とは思わない。むしろ、その静けさが、この子の性質なのだと、心のどこかで納得している。産声は確かにあった。だが、それは過去の音だ。今、この場で意味を持つのは、呼吸の有無だけ。
油灯の光が、赤子の顔を照らす。
額と頬だけが明るく、目元は影に沈んでいる。表情は読めない。だが、読めないこと自体が、不安を呼ばない。武具の表情も、読めない。読めないからこそ、信頼できる。
母は、息を整える。
深くは吸わない。浅く、静かに。腹部の動きを抑え、肩が上下しないようにする。そうしなければ、この腕の震えが、相手に伝わってしまう。伝えたくない感情は、制御する。それが、この屋敷で生きる術だった。
父は、短く頷いた。
それだけで、十分だった。言葉はいらない。名も、意味を持たない。ここに在る。それがすべてだ。
母は、赤子を少しだけ持ち上げる。
見せるためではない。確認させるためだ。この子が、この家の内側にあるという事実を、空気に刻み込む。その位置取りが、何より雄弁だった。
外で、風が鳴る。
乾いた音だ。木立を揺らし、屋敷の壁を撫でる。遠くで、馬のいななきが混じる。城の外の世界が、確かに動いていることを知らせる音。
父は、視線を外に向ける。
この子が生まれたからといって、世界は止まらない。止まらせる権限は、誰にもない。だが、この屋敷の内側だけは、守らなければならない。それが、自分に与えられた役目だ。
母は、赤子を胸元に引き寄せる。
布越しに伝わる体温が、わずかに安堵をもたらす。完全ではない。だが、崩れもしない。今は、それで足りる。
泣き声は、最後まで上がらなかった。
それでも、この家には、新しい時間が流れ始めていた。
名は、まだ呼ばれていない。
だが、この屋敷の中で、赤子が一つの位置を占めたことは、すでに確定していた。泣かぬことも、静かな呼吸も、特別な意味を持たない。ただ、生きているという事実が、次の判断を呼び込む。それだけだ。
父は、執務室へ向かった。
鎧を外した後でも、歩幅は変わらない。床石の凹みに、靴底が正確にはまる。その音が、廊下を進むたびに一定の間隔で繰り返される。この屋敷では、時間は足音で測られる。
執務室の扉は、重い。
厚い木材と鉄の留め具が、音を吸う。閉めれば、外の気配は薄れる。だが、完全に遮断されるわけではない。風の唸りが、壁越しに微かに残る。城は、外界から切り離されてはいない。ただ、距離を取っているだけだ。
机の上には、地図が広げられていた。
羊皮紙に描かれた線は、直線が少なく、歪んでいる。川は実際より太く、山は誇張され、道は途切れがちだ。それでも、この世界を把握するには十分だった。ここでは、正確さよりも、大枠が重要になる。
父は、地図の端を押さえる。
指先が触れるのは、自らの領地だ。大きくはない。豊かでもない。だが、戦で得た土地は、中央から一定の距離を保っている。近すぎれば干渉され、遠すぎれば切り捨てられる。その中間に、この城はある。
外では、鐘が鳴った。
一度だけ。
時を告げる音ではない。合図だ。城下に、何かが起きている。だが、緊急ではない。父は、動かない。情報は、やがて上がってくる。それを待つ余裕が、まだある。
机の端に、別の紙束が置かれている。
封蝋は割られているが、内容はまだ新しい。中央からの通達だ。文面は簡潔で、感情がない。税の配分。兵の動員枠。隣接領との境界確認。いずれも、今すぐ答えを出す必要はないが、放置もできない。
父は、視線を移す。
地図の外側に描かれた、海の記号。ここから先は、ほとんど情報がない。だが、噂はある。海の向こうで、国が動いているという話。金属と香辛料と、人が行き交い、旧い秩序が摩耗し始めているという話。
この城には、まだ届いていない。
だが、届かないままでいられる保証もない。父は、それを理解している。剣で取った土地は、剣だけで守り続けることはできない。戦場で学んだのは、その単純な事実だ。
母は、別の部屋にいる。
赤子を寝台に下ろし、布を整え、火の位置を確かめる。室内は暖かすぎない。湿度も抑えられている。泣かぬ子にとって、過不足は害になる。母の動作は、すべてが控えめで、過剰を避けている。
窓の外で、雲が流れる。
速い。風が強い証だ。天候は不安定になりつつある。農期には、まだ早い。それでも、空の様子は、去年とは違っている。母は、それを言葉にしない。ただ、記憶に留める。
この国は、安定している。
少なくとも、表向きは。
王都は遠く、王権は強く、戦は収まっている。街道は整備され、貨幣は流通し、商人は往来している。だが、その均衡は、重りを積み重ねて保たれているだけだ。一つ崩れれば、連鎖する。
中央は、それを知っている。
だから、地方を急かさない。助けもしない。動かないことで、全体を保っている。余力のある領地が、余力のない領地を吸収する。その流れが、この国の常識だ。
父の領地は、余力がある側ではない。
だが、まだ吸収されるほど弱くもない。宙吊りの位置だ。だからこそ、判断を誤れば、落ちる。母は、胸の奥でその感覚を反芻する。
夜が来る。
油灯が増え、影が重なる。城下から、かすかな生活音が上がってくる。鍋の音。戸を閉める音。笑い声。日常は、まだ続いている。
赤子は、眠っている。
呼吸は安定し、胸が規則正しく上下する。そのリズムは、城の時間とは異なる。速くもなく、遅くもない。ただ、生きるための速度だ。
名は、まだ呼ばれない。
だが、この国と、この領地と、この家の状況は、すでに彼の上に積み重なっている。誰も意識していないが、それは確実に重さを増していく。
世界は、均衡を保っている。
その均衡が、いつまで続くかを知っている者は、まだ少ない。




