プロローグ2
第2話・「防波堤の孤独」
二〇〇八年九月二十四日、水曜日。午後十一時二十分。
霞が関の空気は、紙と埃と古い革の匂いで出来ている。財務省本館の一角、臨時に用意された大臣控室は、儀式の余韻と実務の殺気が同居する場所だった。革張りのソファは乾いた艶を失い、積み上げられた資料の角には白い粉のような埃が溜まっている。灰皿には、先刻まで燻っていた紫煙の名残が、薄い膜となって張り付いていた。窓の外では、官庁街の街路樹が夜風に押され、わずかに身をよじらせている。
中川昭一は椅子の背に一度だけ身体を預け、腰の奥に刺さる疼痛を、深く息を吸い込むことで押し戻した。痛みは消えない。ただ、位置を変える。眠っていない。眠れる局面ではなかった。正確には、眠ったという記憶がない。断続的な意識の途切れが、夜と朝の境界を溶かしていた。目の奥には、熱い砂を詰め込まれたような違和感があり、瞼の裏には為替、金利、株価の数字が、焼き付いた残像となって漂っている。
机の隅には、栄養ドリンクの空瓶が二本。鎮痛剤と風邪薬のシートが、折り目だらけになって無造作に置かれていた。喉を通った液体が水だったのか、薬だったのか、それとも酒だったのか。その境界が曖昧になりつつあることを、中川自身がはっきりと自覚していた。それでも身体を止める選択肢はない。止まれば、市場が先に倒れる。
扉が静かに開き、事務方が入ってくる。事務次官、国際局長、財務官。全員が同じ色のスーツに身を包み、同じ角度で頭を下げた。誰かが厚いファイルを差し出す。過不足なく整えられ、結論まで含めて「完成」した報告書だった。
「大臣、現況の整理でございます」
中川はファイルを受け取るなり、机の天板に叩きつけた。
乾いた音が部屋の空気を切り裂き、壁際の時計の秒針の音を一瞬だけ消した。官僚たちの呼吸が、目に見えて浅くなる。国際局長のペンが条件反射のように紙の上を走り、財務官はメモ帳を押さえながら、為替と短期金利、レポ市場の連関を頭の中で組み替えていた。
「作文はいらん」
声は低く抑えられている。怒鳴ってはいない。だが、その一言が、この場で許される言葉の種類を瞬時に限定した。
「市場の悲鳴を持ってこい。板の向こう側の数字だ。空売り、貸株、外人のフロー、ドル資金。『影響は限定的』だの『注視』だの、そういう言葉をここで使うな。いま何が詰まって、どこが割れかけている」
机上の紙には行間がない。行間がないということは、血が通っていないということだ。血はいつも、行間に滲む。
中川は受話器を取った。内線ではない。机の引き出しにしまってある直通の番号を、指先だけで押す。ホットライン。言葉を節約するために存在する回線だった。
「白川さん、俺だ」
受話器の向こうで、微かな呼吸音がした。日本銀行総裁、白川方明の声が、感情を排した調子で返ってくる。
「大臣、お疲れのところを」
「挨拶はいらん。ドル資金だ。無担保コール、レポ、外貨調達。どこが先に死ぬ」
白川の返答は短い。余計な修辞を削ぎ落とし、骨格だけを差し出してくる。
「海外短期が細っています。ドルが先です」
「スワップラインは」
「必要です」
必要だ。
その一語が、薬よりも強い刺激で中川の背骨を起こした。国会の言葉ではない。市場の言葉だった。
中川はさらに訊いた。問いの角度を変えず、刃だけを深くする。
「国内は、何日持つ」
一拍の沈黙。その沈黙の中に、白川が見ているレポの曲線、コール市場の板、カウンターパーティの顔色が透けて見える。
「持たせます。ただし、条件が要ります」
条件。金融の条件は、政治の条件に直結する。誰の損を誰が飲むか。誰が先に頭を下げるか。どの言葉を、どの順番で世界へ投げるか。
中川は受話器を置く前に、最後の確認だけを投げた。
「やれるだけのことは、やる。数字は隠すな。最悪を先に出せ」
切る。間髪入れずに、次の番号を押す。
「中川だ。取引所の幹部を出せ」
受話器の向こうに、現場の音が混じる。誰かが走り、椅子が引かれ、何かがぶつかる鈍い音。規律では隠せない緊張が、電話線を伝ってくる。
「……お待たせしました。東京証券取引所です」
中川は一息で言った。
「空売り比率。貸株の逼迫。海外勢のフロー。板の厚み。いまこの瞬間の生データを、十五分刻みで上げろ」
「外部公表は——」
「公表は俺が決める。まず持ってこい。市場は説明で止まらん。数字でしか止まらん」
受話器の向こうが沈黙する。
「……承知しました」
切る。
大臣控室の空気が、さらに重くなる。官僚たちは無意識に距離を詰め、次の指示を待つ。誰もが理解していた。世界はすでに崩れている。ただ、崩れたことを認めていないだけだ。
欧米が崩れている。崩れ方が問題ではない。崩れる速度が問題だ。そして、その速度に追いつくものは、もはや政策でも理念でもない。流動性だけだ。
二〇〇八年九月二十五日、木曜日。午前一時五分。
大臣室の灯りは、まだ落ちていない。窓の外の霞が関は暗く、車のライトだけが低い雲を掠めるように走っている。室内には紫煙と疲労の匂いが濃く漂っていた。革のソファに沈んだ官僚の背中が、皆、同じ角度で曲がっている。
通訳は同席していた。机の脇でメモを取り、言葉を選び取ろうとしている。その存在を無視するように、中川はスピーカーフォンに向かって直接英語を投げた。
「Jean-Claude, it’s Nakagawa. I need it straight」
ジャン=クロード・トリシェ。欧州中央銀行総裁の声が、遠い夜の向こうから届く。
「We’re holding. For now」
中川は通訳のメモを一瞥し、首を振った。言葉が遅い。現実はもっと速い。
「For how long」
「Your banks. How many days」
沈黙が落ちる。通訳が言い換えようとするが、中川は制した。
「答えだけでいい」
「Days. Not weeks」
数語で、世界の傾きが示された。
「You expect Japan to be the source」
「We expect Japan to show commitment」
コミットメント。資金ではなく、意思の話だ。
中川は受話器を握り直した。腰の痛みが、急に強くなる。喉の奥に、昨夜の苦味が蘇る。
「I won’t burn Japan for appearances」
沈黙。
「But I will buy time」
時間を買う。それが、防波堤の役割だった。
二〇〇八年九月二十五日、木曜日。午前六時三十分。
官邸の空気は、財務省よりもさらに乾いていた。廊下の照明は白く、誰も笑わない。寝不足の顔が行き交い、足音だけが規則正しく響く。
麻生太郎の執務室。扉が閉まり、外界が遮断される。
「昭ちゃん」
麻生は先に呼んだ。
中川は短く笑い、腰を伸ばした。
「太郎ちゃん。向こうは日数だ」
麻生は目を細めた。怒りではない。計算だ。
「日本が買い支えるって言え、と」
「言わされる」
中川は言い換えた。
「言えば、時間が買える。言わなければ、明日がなくなる」
麻生は椅子にもたれ、ほんの短い沈黙を置いた。その沈黙の間に、官邸という装置が、世界という装置と接続される。
「昭ちゃん」
「うん」
「火中の栗、拾うぞ」
中川は頷いた。頷くしかない。ここで“国益”を語るのは簡単だ。だが国益は、現場ではいつも、誰かの身体の上に乗る。
「声明を出す。ただし、買い支えじゃない」
麻生が言った。
「流動性だ」
中川は、その言葉の重さを、腰の痛みと同じ場所で受け止めた。
二〇〇八年九月二十五日、木曜日。午前十時二十分。
記者会見場は、光の暴力だった。フラッシュが連続し、カメラのシャッター音が乾いた雨のように降る。記者たちの声は、鋭く、短く、餓えた獣のように切れ込んでくる。
中川昭一は壇上に立った。スーツの内側に汗が貼り付く。背骨が痛み、眠気が歪んだ刃のように突き刺さる。それでも、歩みは崩さない。崩した瞬間、世界が崩れる。
「現在、世界の金融市場は、極めて厳しい状況に直面しております。米国及び欧州における金融機関の動揺は、国境を越えて市場心理に影響を与えており、短期金融市場を中心に流動性の逼迫が顕在化しております。
我が国は、過去の金融危機から得た教訓を踏まえ、金融システムの安定確保を最優先課題として取り組んできました。現時点において、我が国金融機関の健全性は維持されておりますが、国際金融市場の混乱が我が国経済に波及する可能性を、決して軽視しておりません。
政府及び日本銀行は、緊密に連携し、短期金融市場への資金供給を含め、必要な流動性供給措置を機動的かつ断固として実施する用意があります。また、国際的な協調の下で、世界の金融システムの安定に向けた取組に積極的に貢献してまいります。
市場参加者におかれては、冷静な判断の下、過度な不安や憶測に基づく行動を控えるよう、強く期待いたします。」
言葉は抑制されている。だが、その行間に眠る数字の重さを、彼自身が最もよく知っていた。
会見が終わり、壇上を降りる瞬間、中川の胸の奥に、昏い高揚が灯る。
逃げ場は、もうない。
だが腹の底では、別の決断が、すでに形を取り始めていた。
——IMFだ。
世界が崩れ切る前に、最後の防波堤を、もう一段外側に築く。
そのために、日本は、まだ切っていないカードを切る。
中川昭一は歩き出した。防波堤は、波に勝たない。ただ、次の一日を買う。
それが、この国に残された役割だった。
「負のガンマと偽りの夜明け」
二〇〇八年九月二十五日、木曜日。午前十時二十分。
東京・大手町。外資系ヘッジファンドのディーリングルームは、いつもより照明が白く感じられた。天井の送風口から吐き出される乾いた冷気が、スーツの襟元を掠め、皮膚の汗を奪っていく。だが、奪われるべきものは熱ではない。人間の余裕だ。
壁面に据えられた大型モニターに、官邸の記者会見場が映っている。中川昭一。財務大臣。金融担当。濃紺のスーツの肩に、重力が余分に乗っているように見えた。
鷹司恒一は自席の前で、腕を組まずに立っていた。腕を組むと呼吸が浅くなる。呼吸が浅くなると、世界の音が遠のく。遠のいた瞬間、判断が遅れる。
周囲の席では、誰もが黙って画面を見ている。キーボードを叩く音さえ、普段の半分に抑えられていた。代わりに聞こえるのは、空調の低いうなりと、椅子がわずかに軋む音。人間が動かないということは、恐怖が動いているということだ。
中川が声明文を読み上げる。
「……短期金融市場を中心に流動性の逼迫が顕在化しております……」
言葉は整っている。整っているほど危うい。政治の言葉は、整えられれば整えられるほど、現実の裂け目を覆い隠す。
だが鷹司が見ていたのは、文字列ではない。
額の生え際に浮かぶ脂汗。ライトが当たる角度で、汗が粒ではなく薄い膜になっている。呼吸は浅い。鼻の奥で息を吸い、口で吐いている。その間に、喉がわずかに渇く動きが見える。眼球の白い部分に赤い線が走り、瞬きの間隔が不自然に短い。人間は、眠っていないと瞬きが増える。
そして、左手。
演台の縁に置かれた指が、指紋の跡だけを残して、わずかに滑る。滑るたびに、無意識に握力を戻す。握力で自分を支えている。
—腰だ。
鷹司は一瞬で理解した。中川の身体は痛みに支配されている。痛みは人間を苛立たせるが、同時に判断を明晰にもする。逃げられない痛みを抱えた者は、無駄な言葉を削るしかなくなる。
中川の声は、怒鳴ってはいない。しかし、声帯の裏に、何かを噛み潰したような擦れがあった。政治家が、世論に向かって喋る声ではない。市場に向かって、短い距離で撃つ声だ。
鷹司はモニターの下に表示されるテロップを読むふりをして、画面の端に映る警護官の顔も見た。警護官は微動だにしない。だが、肩が僅かに前に出ている。緊張が身体の中心に寄っている。
—解決を持ってきたわけじゃない。
鷹司は、胸の奥で言葉にした。
—自分の政治生命と引き換えに、時間を買ってきた。
政治家ができることは限られている。財政出動は明日決まらない。立法は議会を通らない。できるのは、日銀に「やれ」と言うこと、そして市場に「やる」と言うことだ。言葉は無力だが、無力な言葉ほど、ここでは高価だった。
中川が読み終える。紙を置く仕草が、ほんの僅かに遅れる。視線が一度、床に落ちる。
その瞬間に、鷹司は敬意を感じた。
無謀ではない。浪漫でもない。これは、職務の形をした殉教だ。
会見場でフラッシュが焚かれ、画面が白く瞬く。ディーリングルームの誰かが、息を吐いた。空気がやっと動く。
同時に、マーケットも動き出した。
「日経、跳ねた」
若いトレーダーの声が、乾いた。
モニターの片隅で、先物の板が点滅する。買い、買い、買い。数字が階段ではなく、垂直に上がっていく。ショートカバー。恐怖が恐怖を踏む。短い平穏のために、世界が自分の足を食べる。
拍手が起きるほどの歓喜ではない。だが、空気が軽くなる。人間は、上がる数字を見ると「終わった」と錯覚する。
鷹司は、その錯覚の速さに戦慄した。
背後で椅子が鳴り、足音が近づく。
「鷹司さん」
葛城だった。米国デスク・チーフ。四十代前半。背は高く、髪は整えられ、ジャケットの肩の線が歪まない。彼の周囲の空気は、いつも「平時」の匂いがした。緊張の中で緊張を増やさない人間は、概して優秀だ。
葛城は鷹司の横に立ち、画面を一瞥した。
「効いたな。会見、想定より硬い」
「硬いというより、削ってる」鷹司は言った。
葛城は笑わない。
「政治家の芝居ってやつだろ」
「芝居なら、もっと余裕がある」
葛城は首を傾げる。だが反論はしない。米国デスクは、政治を知っている。政治を知らないエリートはいない。彼らは、政治を情報として扱う。
葛城が端末を指で叩いた。
「ワシントン筋、確認取れてる。ポールソン案は通る」
鷹司は目を動かさずに返す。
「筋は誰だ」
「ロビイスト。議会スタッフ。共和党の財政委員会の補佐官。口は揃ってる。『否決するほど馬鹿じゃない』」
葛城の声には、冷静な確信があった。確信は危険だが、葛城の確信は「材料」に裏付けられている。だからこそ強い。
「世界恐慌を招く選択肢は取らない。議会は合理的に動く。ここでの下げは買いだ。ディップだよ。平時の教科書通り」
鷹司は、葛城の横顔を見た。整った輪郭。血の気の薄い唇。睡眠不足の影はあるが、それでも計算の速度は落ちていない。
—平時の正解。
確かにそうだ。米国は統治能力で世界を支えてきた。議会は遅いが、最後には合理性に収束する。世界が人質なら尚更だ。
だが。
鷹司は、会見モニターの中川の瞬きを思い出した。
合理性が通じるなら、リーマンは潰れていない。
「葛城」鷹司は、声の音量を変えずに言った。「合理性が通じるなら、あいつらは最初から救ってる」
葛城の眉が動く。
「リーマンは、政治だ」
「今も政治だ」
鷹司は言葉を選ばず、短く切った。
「議会は世論で動く。選挙前の議会は、合理性じゃなく怒りで動く。『ウォール街を救うな』って声が、数字を殴る」
葛城は息を吸い、吐く。反論の前に、頭の中でモデルを回している。優秀な人間の沈黙は、無知の沈黙とは違う。
「怒りは織り込まれてる」
「織り込まれてない。織り込めない」
鷹司は言った。
「確率が低いからじゃない。テールだからだ。発生確率が低いのに、起きたら全部を壊す。モデルが扱えない」
葛城は唇を薄くする。
「だから買わないって?」
「だから、軽くする」
鷹司の答えは、曖昧ではない。曖昧さを排した答えは、人間関係を損なう。だが、今は人間関係より資産が重い。
葛城は一瞬だけ、鷹司の手元の端末に目を落とした。画面には、株価指数ではなく、別の数字が並んでいる。
LIBOR。
OIS。
CDS。
「まだクレジットを見てるのか」
葛城の声は揶揄ではない。驚きに近い。
鷹司は頷く。
「心臓を見てる」
「株は血圧だろ」
「血圧は、電気でも上がる」
葛城が、ほんの僅かに目を細める。
「今の上げは、何だと思ってる」
鷹司は板の点滅を見た。
「電気ショックだ」
—心臓は止まったまま、手足が跳ねている。
彼は口にしなかった。口にした瞬間、その比喩が現実になる気がした。
葛城は肩をすくめる。
「じゃあ、お前は何をやる」
鷹司は、端末に視線を戻した。
「売る」
「この上げで?」
「この上げだからだ」
葛城の口元が僅かに歪む。嘲笑ではない。苦味だ。
「それで、お前はヒーローになるのか」
鷹司は答えない。ヒーローという単語が、ここでは最も無価値だった。
葛城が去り際に言った。
「お前の嗅覚は信用してる。だが、今回は世界がそこまで愚かじゃない」
鷹司は、背中に言った。
「愚かかどうかじゃない。怒りは賢くない」
葛城の足音が遠のく。
その瞬間、ディーリングルームの歓声が一段大きくなった。
「踏み上げだ、踏み上げ。ショートが死んでる」
「先物、二百上!」
「底打ちだろ、これ」
言葉が軽くなる。軽さは麻薬だ。
鷹司は、自席に戻り、マウスを握った。握力が少しだけ残っていることを確かめる。次に必要なのは言葉ではなく、クリックだ。
画面の左上に、クレジットの指標。
CDSは、ほとんど下がっていない。
LIBOR-OISの差は、縮まっていない。
銀行間の疑心暗鬼は、会見では溶けない。
誰も現金を離さない。
それが、流動性の罠だ。
鷹司は、瞬きの回数を減らして画面を見た。瞬きを減らすと目が痛む。痛みは集中力を保つ。
—ガンマ。
彼の頭の中で、数式が音を立てた。
オプションの売り手。マーケットメーカー。デルタを中立にするために、先物を買う。上がれば上がるほど買わされる。まるで斜面に水を流しているように、上昇が上昇を呼ぶ。
だが、それは「上げたいから買っている」のではない。
買わされている。
意志がない。
意志がない買いは、意志がない売りに反転する。
ひとたび、逆回転が始まれば。
下がれば下がるほど売らなければならない。
負のガンマ。
数式の連鎖。
人間が止められない地獄。
鷹司は、ヘッドセットのマイクを下ろし、部下の席へ歩いた。歩幅を小さくする。余計な動きは判断を散らす。
「佐伯」
若手の名を呼ぶ。声は平坦に。
「はい」
佐伯はモニターを見て笑いかけようとした。その笑いの芽が、鷹司の眼差しで折れる。
「この上昇は、入口じゃない」
佐伯の目が少しだけ見開かれる。
「出口だ」
周囲の歓声が、遠くに退く。佐伯は喉を鳴らした。
「……売るんですか」
「売る。今、売れるものは全部」
鷹司は、指で端末のリストを叩いた。
「流動性のない社債。特に金融。戻ってるうちに叩け。値段は問うな。板に当てろ」
「でも、スプレッド……」
「スプレッドは、これから存在しなくなる」
鷹司は言った。
「相場があるうちに降りろ」
佐伯は唾を飲み込む。
「REITは」
「怪しいやつは全部。信用の薄いものは、最後に紙になる」
「損が出ます」
「コストは俺が持つ」
鷹司の声は揺れない。
「顧客の資産を、現金に換えろ」
現金。キャッシュ。
この局面で唯一、宗教のように価値が確定しているもの。
佐伯の指が震え、キーボードを叩き始める。隣の席のトレーダーが怪訝な顔で見た。鷹司はその視線を無視した。
彼は自席に戻り、別の注文画面を開いた。
プット。
暴落への保険。
今は割高だ。恐怖が価格に乗り始めている。だが、割高な保険は、安い棺より価値がある。
鷹司は数量を入力し、指を止めた。
—次の波は、防波堤を超えてくる。
中川の疲れた瞬きが、脳裏で白く瞬いた。
政治が買えるのは時間だけ。
市場が奪うのは、時間以外のすべて。
鷹司はクリックした。
注文が通る。
数字が小さく確定する。
その確定は、安堵ではなく、冷えた覚悟を呼んだ。
ディーリングルームの空気は、なおも熱を帯びている。上げ相場の匂いが漂う。誰もが「夜明け」を口にする。
だが鷹司は知っていた。
これは夜明けではない。
電気で作った、偽りの朝だ。
窓の外の空はまだ白くない。大手町のビルの谷間に、陽は差していない。陽が差す前に、世界はもう一度、息を止める。
鷹司は端末に、もう一度だけクレジットの数字を呼び出した。
CDSは高い。
LIBOR-OISは広い。
心臓は止まったままだ。
その停止に気づかないまま、手足だけが跳ねている。
—踊れ。
鷹司は、胸の奥で呟いた。
—好きなだけ踊れ。
—だが、音楽が止まる瞬間だけは、俺は見逃さない。
彼は背筋を伸ばし、フロアの喧噪を背中で受けた。
この日の午後。ニューヨーク市場が開く前に。
議会の影が、遠い海の底から、静かに潮位を上げ始めることを。
彼だけが、嗅いでいた。
「防波堤の外側」
二〇〇八年九月二十五日、木曜日。午後四時五十分。
東京の空は、夕方というより鉛色の蓋だった。大手町のガラス窓の外で、皇居の森が黒く沈み、その上を雲が低く擦っていく。ディーリングルームの照明は相変わらず白く、疲労だけが黄色く、目の裏に溜まっていた。
日経先物はまだ高い位置に張り付いている。午前の会見で跳ね上がり、午後の買い戻しがその形を固めた。スクリーンの数字は“底打ち”の物語を、機械の速度で量産していく。
だが鷹司恒一の画面には、別の世界が開いていた。
ドル。レポ。クロスカレンシー。短期金利の歪み。
それらは、上がる株式とは無関係に、静かに噛み合いを失っている。まるで歯車の歯が一本ずつ欠け、音だけはまだ回っている機械のように。
「NY、プレだな」
背後から声がした。葛城が戻ってきていた。米国デスク・チーフ。いつもの落ち着いた姿勢のまま、しかしネクタイの結び目だけが僅かに緩んでいる。緩めたのは首ではない。精神だ。
葛城は端末のニュース欄を指で叩く。
「共和党も民主党も、合意形成に入った。ポールソン案は揉めるが通る。さっき追加で入った。議会スタッフの言い方が変わってきた」
「変わった?」
鷹司は画面から目を離さない。
「“通す”じゃない。“通さないと死ぬ”になってる」
葛城の声には、僅かな安堵が混じった。合理性が戻ってくる兆し。火事場でも、最後に扉が開くという信仰。
鷹司は、その混入を見逃さなかった。
「だから危ない」
葛城が眉を動かす。
「何が」
「“死ぬ”を前提にした議論は、次に“誰を殺すか”になる」
葛城は無言になり、鷹司の画面を見た。LIBOR-OIS。薄く広がったままの差。
「お前は、まだそれを信じてるのか」
「信じてない」鷹司は短く言った。「見てるだけだ。市場の嘘は、最後に信用に出る」
葛城は椅子の背に手を置き、深く息を吐いた。
「お前は、いつも勝つ側に立つ」
「勝たない」鷹司は言い換える。
「死なない側に立つだけだ」
その言葉は、ヒーローの言葉ではない。救済の言葉でもない。数字が止まる瞬間を見た人間の、最低限の倫理だ。
午後五時。東京の市場が引け、夜の取引に滑り込む。
部下の佐伯が、薄く青い顔で近づいてきた。
「社債、出しました。……出せるのは出しました。でも、残りは板が消えてます」
板が消える。
それは、価格がないということだ。価格がないものは、売れない。売れないものは、資産ではない。資産でないものに、担保価値は付かない。
鷹司は頷くだけで、手を止めなかった。
「プットは」
「約定しました。……結構高いです」
「高いのはいい」
鷹司は、端末の一角に表示されているプライムブローカーの画面を見た。マージン。担保。ヘアカット。
ヘアカット率が、数字として上がっている。
髪を切るように軽い言葉で呼ばれるが、実態は肉を削る行為だ。
携帯が震えた。鷹司は画面を見た。
プライムブローカーの担当、ロンドンからの番号。
時差が、身体に針を刺す。
「Takatsukasa-san」
受話器の向こうの英語は丁寧だが、声の奥に疲労が沈着している。
「We need to update margin requirement」
更新。要件。マージン。
言葉は柔らかい。だが意味は硬い。
「ヘアカットを上げる?」
「Yes. Some positions are… illiquid」
“イリクイッド”。流動性がない。
鷹司は視線を動かさずに言った。
「今、売ってる」
「We understand. But the market is moving fast」
市場が速い。
速いのは市場ではなく恐怖だ。
「ラインは」鷹司は訊いた。
向こうが一瞬黙る。
「We will send details. But… please be prepared」
“Be prepared”。準備しろ。
準備とは、現金を用意しろということだ。
鷹司は通話を切り、机の角に置いた指を一度だけ強く押した。痛みがあれば現実だ。現実は、痛みを伴う。
「来るな」佐伯が言った。
「来る」鷹司は否定しない。
「来る前提で、今夜を作る」
二〇〇八年九月二十五日、木曜日。午後九時三十分。
ニューヨーク市場の開場が近づくと、ディーリングルームの空気は再び締まった。東京での熱狂が、海を越えて承認されるかどうか。その判定を待つ沈黙が、ここにはあった。
ウォール街は遠い。だが、遠さは安全ではない。遠いものほど、遅れて殴ってくる。
モニターに、米国のプレマーケットの動きが走る。
一瞬、上。
そして、揺れる。
揺れは、方向ではない。迷いだ。
葛城が、珍しく苛立った声を出した。
「ニュースがねじれてる」
鷹司は無言で聞く。
「議会だ。支持が固まったって話と、反対が膨らんでるって話が同時に流れてる。世論調査が出て、民主党の議員が日和り始めた」
鷹司の脳裏に、午前の中川の瞬きが戻る。
政治は合理性で動く。
そう言い切れるのは、合理性が動く前提が残っている時だけだ。
「ポピュリズムだ」鷹司は呟く。
葛城は苦く笑う。
「分かってる。分かってるが……」
“だが”。
その接続詞が出る時、人間は自分のモデルの外側に触れている。
午後十時三十分。NYオープン。
ベルの音は聞こえない。だが、画面の点滅の変化で分かる。
最初の数分、買いが入る。会見の余韻。TARP期待。ショートの残骸。
そして、急に空気が変わる。
売り。
売り。
売り。
先物が落ちる。板が薄くなる。薄い板を突き抜けるように、価格が滑る。
ディーリングルームの誰かが、舌打ちした。
「負のガンマだ」
鷹司は声を上げない。ただ、画面に浮かぶ“機械的な売り”の痕跡を追う。
下がる。
下がるほど、売りが増える。
アルゴが走り、ヘッジャーが追随し、ヘッジが売りを呼ぶ。
“下がれば下がるほど売らなければならない”。
数式が、血管の中を走る毒のように循環し始める。
葛城の顔から血の気が引いた。
「……どうして、こんなに売れる」
鷹司は答えた。
「売ってるんじゃない。売らされてる」
言った瞬間、プライムブローカーからのメールが届いた。ヘアカット。担保要件。時間。
“By tomorrow morning”。
明日の朝まで。
時間。
また時間だ。
人間が最後に買えるもの。
鷹司は、立った。
「佐伯。現金の手当てを最優先に切り替えろ。換金できるものを、いま出せ。損は見るな。値段は交渉しない。板にぶつけろ」
「でも……」
「でも、は要らない」
声は低い。怒鳴らない。怒鳴ると判断が遅れる。
「明日の朝、誰が追証を払うかで、生き残りが決まる」
佐伯が走った。靴音が床に乾いた線を引く。
葛城が、鷹司を見た。目の奥に、初めて“同じもの”が見えている。
「お前……最初からこれを」
「予感だけだ」鷹司は言った。「確信じゃない。確信は、今みたいに人を殺す」
NYの数字がさらに沈む。東京の夜が、なお白く、冷たくなる。
鷹司はモニターの端で、クレジットの指標を見た。
CDSが、跳ねる。
LIBOR-OISが、さらに開く。
心臓が、止まったことを世界が認め始める。
その瞬間、鷹司の中で一つの像が結んだ。
—防波堤。
中川が、時間を買った。
麻生が、“火中の栗”を拾った。
だが、波は防波堤の外側から回り込んでくる。
防波堤の内側にいる者ほど、外側の潮位に気づかない。
二〇〇八年九月二十六日、金曜日。午前一時四十分。
ディーリングルームの照明が、さっきよりさらに白く感じられた。白さは清潔さではない。疲労を隠さない冷酷さだ。
鷹司の携帯が、もう一度震えた。
同じ番号。
「Margin call」
向こうは、もう丁寧さを捨てていた。
「We need cash」
必要なのは現金。
鷹司は受話器を耳に当てたまま、窓の外を見た。大手町のビルの谷間に、街灯が点々と光り、誰も見ない時間が流れている。
「分かった」
それだけで十分だった。
通話を切り、鷹司は椅子に座らず、机に手をついた。手のひらの感覚だけで、自分がまだこの場にいることを確かめる。
そして、静かに思った。
—現代金融は、結局、時間の奪い合いだ。
—時間を買えない者から、消えていく。
スクリーンの端で、ニュースが流れる。
議会。
反対。
世論。
怒り。
世界の舵は、数字ではなく声で動き始めている。
鷹司は、薄い笑いも浮かべずに、部下へ言った。
「夜が明ける前に、全部整理する」
「夜明けは、味方じゃない」
「ただの次の戦場だ」
彼は、プットの評価損益を一瞥した。黒い数字が増えている。保険が効き始める時、世界は壊れている。
鷹司は、画面の反射に映る自分の目を見た。
乾いている。
赤い。
瞬きが少ない。
その目は、誰かを救う目ではない。
ただ、次の一日を買う目だ。
防波堤の孤独は、政治家だけのものではない。
市場の内側で、それを支える者にもある。
そして、孤独の先にしか、次の章はない。




