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異世界金融再建録 ― 税と貨幣と黙認の王国 ―  作者: しずか


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第14話 『赤き栞の執行』


曇天の午後だった。

 ハルバート男爵は執務室で一人、杯を傾けていた。重厚な机、壁一面に掛けられた地図、窓の外に連なる堅牢な城壁。どれもが変わらぬ光景であり、彼の領地が依然として“健在”であることを主張しているように見えた。

 先日の騒動――西の商人たちの混乱は、所詮は博打に失敗した連中が勝手に崩れ、逃げ帰っただけの話だ。金貨の流れが一時的に細ったのは事実だが、土地は残り、領民もいる。時間をかければ、いずれ元に戻る。

「商人風情の失策で、このハルバートが揺らぐものか」

 男爵はそう独りごち、杯を干した。

 その静けさを破ったのは、扉を叩く音だった。

「……失礼いたします」

 家令が顔色を失ったまま、執務室に滑り込んでくる。

「王都より、税務局の特使が到着しております」

 男爵の眉がわずかに動いたが、驚きはなかった。税の督促など、今に始まった話ではない。

「通せ」

 短く命じる。

 ほどなくして現れたのは、鎧も着けず、武装した護衛も伴わない一人の男だった。三十代半ば、無駄のない身なり。同行するのは書記官が一人だけ。だが、その存在感は、帯剣した騎士たちよりも重く、冷たい。

 その男――王都税務局の査察官は、礼儀としての一礼を済ませると、感情を一切乗せない視線で男爵を見た。その目に映っているのは、領主ではない。未処理の案件だ。

 査察官は革鞄を開き、分厚い帳簿を一冊、机の上に置いた。

 男爵の視線が、思わずそこに吸い寄せられる。

 帳簿の頁の間には、鮮烈な赤が覗いていた。

 赤い栞。

 それが何を意味するのか、男爵は知らない。ただ、なぜか胸の奥がざわついた。

 査察官は、栞の挟まれた頁を開くこともなく、別の紙を一枚、机の上へ滑らせた。

「こちらをご確認ください」

 差し出された書類には、見覚えのある印章が押されていた。

 ――関税申告書。

 先日、領内を通過しようとした西の商人たちが提出したものの写しだ。そこには、クズ市へ流れ込もうとした莫大な資金移動の記録が、冷酷な数字として並んでいる。

 男爵は一瞥すると、鼻で笑った。

「それがどうした。連中は勝手に破産して逃げた。見ての通り、我が領の金庫は空だ。無い袖は振れんよ」

 査察官は、表情一つ変えずに答える。

「利益が出たか否かは、国家の関知するところではありません」

 その声音は、説明ですらない。事実の読み上げだった。

「国家が課税の根拠とするのは、結果ではなく規模です。貴領の商人が、これだけの資金を動かしたという記録が存在する以上、領主である貴殿には、その規模に応じた監督責任と納税義務が発生します」

 男爵の眉間に皺が寄る。

「……暴論だ。儲けが出ていないのに、税を払えと言うのか」

 査察官は頷きもしない。

「橋の通行料と同じです。渡った先で旅人が生きようが死のうが、橋を通った事実があれば、通行料は発生します」

 淡々と、比喩が続く。

「これほどの巨額資金が動いていたにもかかわらず、貴殿の手元に残っていない。となれば、考えられる可能性は二つです」

 査察官は指を二本、静かに立てた。

「脱税。あるいは、統治能力の欠如。どちらにせよ、王都に対する背信であることに変わりはありません」

 男爵は机を叩いた。

「馬鹿な! 我が軍が黙っておらんぞ!」

 その手は、無意識のうちに腰の剣へと伸びていた。

 だが、査察官は一切動じない。

「どうぞ。王都の使者を斬れば、それは反逆です」

 事務的な声で告げる。

「明日には正規軍が派遣され、この城壁も、兵も、貴殿の一族も、すべて国法の下で処理されるでしょう」

 査察官は最後の書類を差し出した。

 納税命令書。

 そこに記された金額を見た瞬間、男爵の呼吸が止まった。年間税収の三年分。現実感のない数字が、冷たい文字列となって突き刺さる。

「支払い期限は、明日の日没までです」


「……明日だと?」

 声が掠れる。

「そんな現金、用意できるわけがない……」


「履行されない場合」

 査察官は、感情のない声で続けた。

「領地は没収、爵位は剥奪。一族は債務不履行者として王都へ移送されます」

 それは宣告だった。交渉の余地はない。

 査察官は一礼すると、帳簿と書類を鞄に収めた。

「明日の夕刻、回収に参ります」

 そう言い残し、踵を返す。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 男爵は、その場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。

 やがて力が抜け、椅子に崩れ落ちる。

 窓の外には、変わらぬ領地の風景が広がっている。堅牢な城壁、訓練に励む兵士たち。物理的には、何一つ失われていない。

 だが、机の上に残された紙一枚が、そのすべてを明日には奪い去ると告げていた。

 男爵の手が震え、インク壺を倒す。

 黒いインクが地図の上に広がり、ハルバート領を、どす黒く塗り潰していく。

 その光景を見つめながら、男爵はようやく理解した。

 剣を持たない敵――数字に、喉元を噛み砕かれたのだと。

 そして、その絶望の先に待つ“救い”が、すでに城門の外まで迫っていることを、彼はまだ知らなかった。

期限当日の午後。

 傾きかけた陽が城壁に長い影を落とし、ハルバート城は葬儀の前触れのような静けさに沈んでいた。

 中庭では、使用人たちが目を合わせることもなく、荷をまとめている。家臣たちは壁際に固まり、誰一人として声を発さない。領主館の奥、執務室では、ハルバート男爵が頭を抱えていた。


 ——没収。改易。


 その二文字が、昨日から脳裏を離れない。

 剣も、城壁も、兵もある。それでも、紙一枚で全てを奪われる。理解しているはずなのに、受け入れられなかった。

 そこへ、見張り台からの報告が駆け込む。

「城主様! ヴァルデン家の旗が見えます!」

 男爵は顔を上げた。胸の奥に、警戒が走る。

「……来たか。弱ったところを噛みに来たか」

 ハイエナめ、と喉の奥で吐き捨てる。

 だが、続いた報告が、その予想を裏切った。

「武装は確認できません! 馬車隊です。積荷は……小麦と、封印された重い箱です!」

 男爵の眉が、わずかに動いた。

 城門が開かれる。

 入ってきたのは、整然とした馬車列だった。兵士の姿は一人もない。御者と、数名の事務官がいるだけだ。

 馬車から降り立った男は、鎧を着ていなかった。平服にマントという、友人を訪ねる際の軽装。腰に剣すら帯びていない。

 その姿は、「敵意がない」ことの何よりの証明であり、同時に男爵の警戒心を根こそぎ奪う、計算された演出だった。

 ハルバート男爵は城門まで出迎える。

 やつれ果て、髭も剃っていない自分の姿と、堂々とした来訪者の姿。その対比が、一瞬だけ胸を刺した。

 レオンハルト・フォン・ヴァルデンは、男爵が口を開くより先に歩み寄り、その肩を強く掴んだ。

「酷い顔だな、友よ」

 その声音に、嘲りはなかった。あるのは純粋な同情と、共有する怒りだけだ。

「王都のやり方は聞いた。外形標準課税だと? 商人の失敗を領主に被せるなど、盗賊の理屈だ」

 男爵の喉が鳴った。

 誰もが彼を責め、距離を置く中で、初めて「お前は悪くない」と言われた気がした。

 レオンハルトは背後の馬車を示す。

「王都は待ってくれん。……私が一時的に立て替えよう」

 合図とともに、重い木箱が積み下ろされる。蓋が開けられ、中から金貨と銀貨が、鈍い光を放った。

 それは、男爵にとって神の光に見えた。

 男爵はレオンハルトの手を握り締め、何度も頭を下げた。

「恩に着る……この借りは、必ず返す。倍にして返す!」

 レオンハルトは鷹揚に頷いた。

「なに、困った時はお互い様だ。……ただ」

 ここで彼は、困ったように眉を下げる。

「私も当主として、家臣や王都への手前、大金を無断で動かすわけにはいかんのだ。……息子がうるさくてな」

 彼は背後に控えていた少年を前に出した。

 クレド。

 年齢に似合わぬ落ち着きを纏った少年は、感情のない目で男爵を見た。

「形式上のことだ」

 レオンハルトが微笑む。

「事務的な手続きだけ、済ませてやってくれ」

 場所は、応接室へと移る。

 クレドは分厚い革鞄から、書類の束を取り出した。表紙には『戦後復興支援協定書』と、もっともらしい題が記されている。

「父上は情に厚い方です」

 クレドの声は、淡々としていた。

「ですが、ヴァルデン家も無限の資産があるわけではありません。これは貸付ではなく、『協調融資』です」

 彼は書類を机に置く。

「王都の査察官を納得させるためには、貴領の財政が健全化する道筋を示す必要があります。そのための計画書です」

 男爵は書類を手に取った。分厚い。文字は細かく、行間は詰まっている。

「……読む時間が必要ですか?」

 クレドが問いかける。

 男爵は窓の外を見た。陽はすでに西に傾き、刻限が迫っていることを、影が告げていた。

「いや……」

 男爵は首を振る。

「レオンハルトの息子なら、間違いはあるまい」

 それは、判断ではなかった。放棄だった。

 「形式上」という言葉と、目の前の銀箱、そして時間切れへの恐怖が、彼の思考を奪っていた。

 男爵は羽ペンを取る。

 インクをつけ、署名欄に名を記す。

 カリ、カリ、と乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。

 それは、ハルバート領が主権国家として終わりを告げる音だった。

 書き終えた男爵は、深く息を吐く。

「……これで、助かった」

 クレドは書類を回収し、インクが乾くのを確かめてから、静かに鞄へ収めた。

 その視線は、救われた隣人を見るものではない。

 新たに取得した資産の管理台帳を確認する、実務者の目だった。

「ええ。これで全て、丸く収まります」

 応接室を出ると、レオンハルトは笑顔で男爵の肩を抱いた。

 窓の外では、何も知らないハルバート領の兵士たちが、ヴァルデン家の救援物資に歓声を上げている。

 トロイの木馬は、すでに城の中に入っていた。



 日没が近づいていた。

 応接室の隅に置かれた砂時計では、金色の砂が、静かに、しかし確実に落ち続けている。残りはもう、ひと握りもない。

 クレドは、テーブルの上に羊皮紙の束を広げた。

 それは、男爵がこれまでに目にしてきた借用書とは、明らかに異質だった。何枚も重ねられた羊皮紙。行間を詰めた細かな文字。視線を走らせるだけで、思考を奪う密度がある。

「……金利と返済期限だけでいいのではないか?」

 ハルバート男爵が、かすれた声で言った。

 クレドは首を振る。

「いいえ。これは『復興支援』です」

 淡々とした声だった。

「王都に対し、貴領が確実に再生するという計画を示さねばなりません。ですから、条件が必要になる」

 彼は羊皮紙の端を指で押さえ、読み上げ始めた。

「第一条項。財政監視権」

 クレドの指先が、条文の一行をなぞる。

「完済に至るまで、ハルバート領の全ての歳出は、我が家が派遣する財政顧問の承認を必要とします」

 男爵の眉が吊り上がった。

「私の金の使い方に口を出す気か?」

「まさか」

 クレドは即座に否定した。

「必要な経費は、当然認めます。ですが――例えば、無益な宴会や、身の丈に合わない贅沢品。そうした支出は、復興の妨げになります」

 それは穏やかな言葉だった。

 だが、その実態が、軍事費や独自政策への予算を締め上げる権限であることを、男爵は本能的に感じ取っていた。

「……次だ」

 男爵は低く唸った。

「第二条項。インフラ管理権」

 クレドは続ける。

「荒廃した街道は、我が家の建設部隊が再整備します。費用は融資額に上乗せされますが、返済は街道の通行料収入から充当されます」

 男爵は顔を上げた。

「現金で返す必要はない……?」

「ありません」

 クレドは頷いた。

「通行料から自動的に返済される。貴殿の懐は痛みません」

 一瞬、男爵の表情が緩む。

「それなら……悪くない話だ」

 クレドは、別の紙を一枚、さらりと差し出した。

 簡潔な計算式が記されている。

『通行料収入』-『維持管理費』-『金利』=『元本返済額』

「維持管理費は、我が家への委託料です。金利は、王都基準に準じます」

 男爵は計算式を追い、やがて視線を止めた。

 数字をいくら動かしても、最後の項が、ほとんど増えない。

「……減らない、だと?」

「通行量が増えれば、維持費も増えます。交通が増えれば、摩耗も増える。合理的でしょう」

 クレドは感情のない声で言った。

「完済するまで、街道の運営権は我が家に帰属します」

 それは、借金が終わらない限り、領内の動脈が永遠に他者の手に握られるという意味だった。

 男爵は唇を噛む。

「……第三条項は?」

「通貨条項です」

 クレドは、わずかに間を置いた。

「経済圏の安定化のため、領内の決済および納税には、我が家が発行・保証する通貨を優先的に使用していただきます」

 男爵の顔色が変わる。

「私の顔が刻まれた銀貨を、使えなくするのか?」

「『優先』です。強制ではありません」

 クレドは静かに言った。

「ですが、市場がどちらを選ぶかは、明白でしょう」

 沈黙が落ちた。

 砂時計の砂が、底に近づいている。

「……これは、あまりに」

 男爵は羽ペンを置いた。

「これでは、私はただの管理人ではないか」

 その言葉に、レオンハルトが初めて動いた。

 腕を組んだまま、窓の外を見やる。

「……おい、あれは王都の旗か?」

 遠く、城下道に、規則正しく進む影が見えた。武装した護衛に囲まれた、税務局の回収部隊だ。

 クレドは視線を落とし、契約書を、指で軽く叩いた。

「男爵。議論している時間はありません」

 淡々と、選択肢を突きつける。

「この条件を呑むか。それとも今すぐ査察官に『金はない』と告げ、縄を打たれるか」

「選んでください。誇りある借金か、惨めな破滅か」

 男爵の視線が、机の上の銀箱と、窓の外の隊列を行き来する。

 額から脂汗が滲んだ。

「……返す」

 震える声で、自分に言い聞かせる。

「街道の通行料が入れば……こんな借金など、すぐに……」

 それは、希望ではなく、自己欺瞞だった。

 男爵は羽ペンを握る。

 クレドの視線が、その動きを逃さない。

 ペン先が羊皮紙に触れ、インクが滲んだ。

 男爵の名が、署名欄に刻まれる。

 その瞬間、クレドの目が、ほんの一瞬だけ細められた。

 狩りは、終わった。

 クレドは素早く書類を回収し、検印を押す。

「契約成立です」

 レオンハルトが立ち上がり、男爵の肩を叩いた。

「よく決断した。これで君の領地は守られた」

 男爵は椅子に沈み込み、虚脱したまま動けずにいる。

 そこへ従者が駆け込んできた。

「税務局の方が、到着されました」

 クレドは銀箱を指差す。

「さあ、払ってください。これで、貴殿は自由です」

 男爵は銀箱にすがりついた。

 だが、その背中には、目に見えない首輪が、確かに嵌められていた。



 夕暮れ時だった。

 前日の雨でぬかるんだ街道に、鈍い光が沈みかけた陽を反射している。崩れかけた石畳と泥の海。その中で、ひときわ鮮やかに翻るのは、ヴァルデン家の紋章旗――剣と天秤だった。

 集められた労働者は数百人。元農民、破産した商店主、仕事を失った職人たち。彼らはヴァルデン家の工兵隊の指示に従い、屈辱を噛み殺しながら泥にまみれて働いていた。

 彼らの動機は一つだった。

 日当の銀貨。

 ハイパーインフレと不況が重なったこの領地で、銀は唯一、命に換えられるものだと信じられていた。

 作業終了の鐘が鳴る。

 労働者たちが列を作った。濡れた手を擦り合わせ、目は支給台の一点に注がれている。

 現場監督は感情を乗せず、一人ずつに支払いを行っていった。

 だが、差し出された手に落とされたのは、銀貨ではなかった。

 厚手の羊皮紙――スクリップだ。

「……なんだ、これは?」

 代表格の男が叫ぶ。

「子供のお絵かきか!」

 紙片には、ヴァルデン家の紋章と『小麦一単位』の文字。偽造を防ぐための複雑な幾何学模様が刷り込まれている。

「俺たちは銀貨を約束されたはずだ!」

 怒号が広がる。

「こんな紙で腹が膨れるか!」

 空気が、一瞬で荒れた。石や鍬を握り締める者もいる。騙された、詐欺だ、という声が飛ぶ。

 現場監督は動じなかった。

 むしろ、一歩前に出る。

「その紙は銀貨ではない」

 低く、しかしよく通る声で告げた。

「引換券だ」

 彼は街道脇に設けられた巨大なテントを指差す。警備するヴァルデン兵の向こう、麻袋が山と積まれているのが見えた。

「あそこへ行け。その紙一枚につき、最高級のヴァルデン産小麦を一袋渡す」

 一瞬の沈黙。

「嘘だと思うなら、今すぐ行け」

 監督官は淡々と続けた。

「銀貨を持っていても、お前たちの町のパン屋には、もう粉がないだろう。だが、その紙は、確実に食い物に変わる」

 半信半疑のまま、数人がテントへ走る。

 窓口で紙を差し出すと、係員は即座に検印を押し、ずっしりと重い麻袋を差し出した。

 袋を開けた瞬間、甘い穀物の香りが広がる。

 本物だ。

 その瞬間、労働者たちの目の色が変わった。

 歓声が上がる。

「パンだ……!」


「これで、子供に食わせられる!」

 旧来の価値観が、音を立てて崩れる。

 銀貨は、何も買えない金属に過ぎない。

 この紙は、命だ。

 労働者たちは、羊皮紙を神の札のように握り締め、争うようにして次の労働を求め始めた。次に紙を得られるのはいつか。その問いだけが、彼らの頭を占める。

 丘の上から、その光景を見下ろす二人がいた。

 レオンハルトが腕を組み、低く言う。

「備蓄米を放出し、街道を整備させただけだ。物々交換と、何が違う?」

 クレドは視線を逸らさずに答えた。

「違います、父上。これは通貨発行です」

 彼の声は冷たかった。

「物々交換なら、小麦を現場まで運び続けねばならない。その手間と費用は、いずれ限界に達します」

「ですが、紙を流通させれば、彼らはそれを市場で使い始める」

 クレドは指先で、街道の先をなぞる。

「パン屋は小麦を仕入れるために、この紙を欲しがる。宿屋は、パン屋に払うために、この紙を欲しがる」

「そうして、この紙は銀貨と同じ顔をする」

 彼は静かに結論づけた。

「私は、紙とインク代だけで、隣国の労働力と流通を支配しました」

 夕闇が、街道を覆い始める。

 労働者たちは、大事そうに紙幣や小麦を抱え、家路につく。その背中には、目に見えない焼印が押されていた。

 街道には、美しく舗装された道が残る。

 それはハルバート領のインフラでありながら、そこを流れる血――通貨は、すでにヴァルデンのものだった。






数日後の午前だった。

 爽やかな朝の光が、領主館の執務室に差し込んでいる。だが、その光とは裏腹に、室内の空気は重く澱んでいた。

 ハルバート男爵は執務机の上に地図を広げていた。

 危機は去った。

 少なくとも、そう思いたかった。借金はしたが、城は残り、領地も守られた。王都の査察官も去った。あとは復興だ。そう自分に言い聞かせながら、男爵は指で地図をなぞる。

「……北だな」

 窓の外、城壁の北側を見やる。

「先日の嵐で、あそこにヒビが入っていた」

 防衛の要である城壁の修繕。それは領主として当然であり、最優先で行うべき務めのはずだった。

「おい」

 男爵は家令を呼ぶ。

「石工組合に連絡しろ。北壁の補修を急がせる。予算は、いつもの通りでいい」

 返事がない。

 男爵は顔を上げた。

「どうした? 聞こえなかったのか?」

 家令はその場に立ち尽くし、脂汗を浮かべている。やがて、盆に乗せた一枚の書類を、震える手で差し出した。

「……申し上げにくいのですが、旦那様。予算が、下りません」

「は?」

 男爵は思わず声を荒げる。

「下りないとはどういうことだ。金庫には、レオンハルトが置いていった銀があるだろう」

 男爵は書類をひったくった。

 それは、昨日、自ら決裁したはずの支出稟議書だった。

 だが、その上から、無慈悲なほど大きな赤インクで文字が押されている。

 否決(REJECT)

 備考欄には、流れるような筆跡があった。ヴァルデン家から派遣された財政顧問のものだ。

 ――理由:緊急性および投資対効果(ROI)の欠如。

 ――コメント:現在の財政状況において、敵のいない北側の修繕は不要不急。資金は街道整備に優先配分されるべきである。

 男爵のこめかみが、ひくりと引きつった。

「ふざけるな!」

 書類を丸め、床に叩きつける。

「城壁は領地の守りだぞ! 金貸しの分際で、軍事や防衛にまで口を出す気か!」

 男爵は怒鳴り、立ち上がった。

「石工を呼べ! 直接、俺が命じる! 顧問など無視して進めろ!」

 怒号が執務室に響く。

 だが、家令は悲痛な面持ちで、ゆっくりと首を振った。

「それが……石工の親方も、資材屋も、動かないのです」

「なんだと?」

「彼らは申しております。『ヴァルデンの顧問様の検印がない発注書は、ただの紙屑だ』と」

 男爵の言葉が、喉で詰まった。

 家令は、さらに続ける。

「資材屋への支払いは、今やヴァルデン手形で行われています。顧問の承認がなければ、手形は発行されず……」

「職人たちも同じです。男爵様のご命令でも、給金が保証されなければ、誰も働きません」

 男爵は、何も言えなくなった。

 命令しても、石一つ動かせない。釘一本、打たせることもできない。

 かつては、彼の一言で城も兵も動いた。

 だが今、この領地を動かしているのは、ヴァルデンの事務官が押す一つの印――決済のハンコだった。

 男爵は、力なく執務椅子に腰を落とす。

 部屋の隅にある金庫に、視線が向く。頑丈な錠前。その鍵を持っているのは、自分ではない。

 財政顧問だ。

 自分の城にいながら、自分の金を使えず、自分の兵を守る壁すら直せない。

「……俺は、なんだ?」

 誰も答えない。

 机の上には、否決印の押された書類が転がっている。それが、彼がもはや統治者ではなく、権限のない名ばかりの管理職に成り下がったことを、無言で告げていた。

 その沈黙を破るように、家令が別の書類を差し出す。

「こちらへの、ご署名を……」

 それは、街道工事への動員命令書だった。男爵の兵士たちを、ヴァルデンのインフラ工事の警備に回すためのもの。

 男爵は、死んだような目で書類を見つめ、やがて羽ペンを取る。

 震える手で、署名をした。

 彼の主権は、城壁のヒビ一つ直せないほど、粉々に砕かれていた。






 夜だった。

 城下町の酒場『折れた槍亭』は、工事帰りの男たちで賑わっていた。汗と泥の匂い、薄い酒の酸味が混じり合う。照明は薄暗い。油が高く、灯りを増やす余裕などないのだ。

 旅の商人は、木椀に残った最後のスープを飲み干し、満足げに腹をさすった。

「久しぶりに来たが、街道が見違えたな。男爵様も、なかなか羽振りがいいらしい」

 そう言って、革袋から銀貨を三枚、取り出す。

 鈍く光るそれには、ハルバート男爵の凛々しい横顔が刻まれていた。この領地の、正真正銘の法定通貨だ。

「釣りはいらねぇよ。ご馳走さん」

 商人は銀貨をテーブルに置き、立ち上がろうとした。

「待ちな、旦那」

 低い声が、背中を止める。

 酒場の主人は、テーブルの銀貨に指一本触れず、冷ややかな目で見下ろしていた。

「悪いが、そいつは受け取れねぇ」

 商人は振り返り、眉をひそめる。

「は? 何を言ってる。これはハルバート男爵様の銀貨だぞ。ここで使えなきゃ、どこで使うんだ」

 主人は、ゆっくりと首を振った。

「その『ここ』で使えねぇんだよ」

 店内の客たちが、にやにやと笑いながら聞き耳を立てている。

 主人は声を潜め、続けた。

「最近の男爵銀はな、鉛が混ざってるって噂だ。他所の商人は、誰も受け取らねぇ」

 商人の表情が曇る。

「それに、税務局が男爵様の資産を差し押さえるって話だ。明日には、ただの金属屑かもしれねぇ」

 主人は肩をすくめた。

「俺たちは商売やってんだ。明日使えるかわからねぇ金は、金じゃねぇ」

 その言葉に、店内が静まり返る。

 統治者への信頼が消えた瞬間、通貨はただの物質に戻る。

 商人は困惑したように頭を掻いた。

「じゃあ、何で払えばいい? ヴァルデンの銀貨か? あいにく、持ち合わせが少なくてな」

 主人は顎でしゃくる。

「銀がねぇなら、紙だ」

「紙?」

 商人は財布を探り、街道の関所で半ば強引に両替させられた一枚を取り出した。

 ヴァルデン地域手形。

「これか……だが、ただの紙切れだろう」

 その瞬間、主人の目の色が変わった。

「それだ!」

 主人は、商人に銀貨を押し返し、代わりに紙をひったくるように受け取る。

 紙をランプの光に透かし、透かし模様を確かめると、満足げに頷いた。

「こいつなら、明日の朝一番でヴァルデンの問屋から酒が仕入れられる。パン屋も肉屋も、喜んで受け取る」

 主人は紙を丁寧に畳み、まるで聖遺物のように懐へしまった。

「銀より軽いし、何より……ヴァルデン様が保証してる」

 商人は呆然と、手元に戻ってきた男爵銀貨を見つめる。

「……領主の銀が拒否されて、隣の領主の紙が喜ばれる。ここは一体、誰の国なんだ?」

 答えは、誰も口にしなかった。

 商人は黙って席を立ち、酒場を後にする。

 テーブルの端には、支払いとして受け取られなかった男爵銀貨が、誰にも拾われぬまま置き去りにされていた。

 店内では、労働者たちがヴァルデンの紙幣を賭けてカード遊びに興じている。

 薄暗い店の中で、男爵の顔は、静かに死んでいた。







夕暮れだった。

 西の空は血のように赤く染まり、長い影が街道を覆っている。

 ヴァルデン家の馬車は、驚くほど滑らかに進んでいた。

 かつては泥濘み、車輪を取られていたハルバート領の街道は、今や見事な石畳に生まれ変わっている。ヴァルデンの技術と、ハルバートの労働力――そして借金によって舗装された道だ。

 車輪の音は軽やかだった。だがレオンハルトにとって、その快適さは奇妙な居心地の悪さを伴っていた。

「……良い道だ。これなら軍隊の移動も倍の速さでできるな」

 皮肉を込めた呟きに、クレドは膝の上で書類を整えながら答える。

「ええ。ですが、ここを通るのは兵士ではありません。我が領の商品です」

 レオンハルトは窓のカーテンをわずかに開けた。

 沿道の村では、農民たちが夕餉の支度をしている。子供が手にヴァルデン手形を握って走り回り、母親がそれを笑って受け取っていた。

 誰もヴァルデン家を恨んでいない。むしろ、馬車の紋章を見て手を振る者さえいる。

「……剣で奪えば、彼らは石を投げただろう」

 レオンハルトは深く息を吐いた。

「だが今は、我々に感謝している。自分たちの土地の権利が、未来永劫奪われたことにも気づかずに」

 視線を前に戻し、低く続ける。

「タチが悪いな、クレド。お前のやり方は、剣よりも深く相手を切り刻むが……痛みを感じさせない」

 クレドは手を止め、父を見た。

 その目に、迷いはなかった。

「痛みがないなら、それは『治療』です、父上」

 彼は再び窓の外へ目を向ける。

「彼らは幸福です。仕事があり、パンがあり、通貨の不安がない。ハルバート男爵の下で飢えて死ぬより、よほど人間らしい生活でしょう」

 クレドは、男爵の署名が入った契約書を鞄の奥底へしまい、鍵をかけた。

「不幸なのは、主権を失い、飾り物になった男爵だけです」

 淡々と続ける。

「これで西側の脅威は消滅しました。ハルバート領は、我々の軍事的な『防波堤』であり、商品を消費してくれる『巨大な胃袋』になりました」

「完全な勝利です」

 馬車が領境を越え、ヴァルデン領へ入る。

 その瞬間、空気の密度が変わった。

 静かだったハルバート領とは対照的に、ヴァルデン領の街道は異常な喧騒に包まれている。

 増えすぎた荷馬車の列。検問所に詰めかける商人たちの怒号。押し合う人波。

「おい、早く通せ!」

「検品が追いつかないんだ!」

 衛兵たちが必死に交通整理をしているが、明らかに処理能力を超えていた。

 レオンハルトが眉をひそめる。

「……なんだ、この騒ぎは。以前よりひどくなっているぞ」

 クレドの表情が、わずかに曇る。

「経済圏が急拡大した副作用です」

「ヒト、モノ、カネが……我々の処理能力を超えて流れ込んでいます。血管(物流)と心臓(行政)が、肥大化した身体に追いついていない」

 窓の外では、些細な接触をきっかけに、商人同士が掴み合いを始めようとしていた。

 豊かさが生んだ無秩序。急成長が生んだ軋轢。

 レオンハルトは、息子の横顔を見つめる。

 そこにあったのは、勝利の余韻に浸る少年の顔ではない。

 次なる難問を前にした、冷徹な為政者の目だった。

「外敵は消えた……だが」

 レオンハルトは、胸の内で呟く。

(巨大になりすぎた獣は、自らの重みで骨を折る。次は……内なる敵との戦いか)

 馬車は、繁栄という名の混沌の中へと、静かに飲み込まれていった。


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