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第12話 浸透する予兆
領主館の執務室は、昼だというのに薄暗かった。重いカーテンが窓を覆い、外光は布越しに鈍く滲むだけだ。分厚い机、背の高い書棚、積み上げられた陳情書と裁可待ちの書類――平時の統治が、そのまま重さとして空間に沈殿している。
レオンハルトは羽ペンを握ったまま、書類に視線を落としていた。
だが、文字が頭に入ってこない。
音がする。
遠くからだ。はっきりとした喧騒ではない。祭り囃子のように浮き立つ音でも、勝鬨のように揃った声でもない。むしろ――
巣箱の中だ、と彼は思った。
無数の羽音が重なり合い、低く、絶え間なく唸っている。個々の声は聞き取れないのに、全体として異様な圧だけが伝わってくる。統制の取れた隊列の音ではない。ばらばらの意思が、同じ方向へ流れ込むときの音だ。
レオンハルトは首を振った。耳障りな虫を追い払うように。
それでも、唸りは消えない。
胸の奥が、ざらついた。
なぜだ――。
戦場で、敵影も見えぬまま包囲されかけた、あの瞬間に似ている。
敵が見えない奇襲ほど、厄介なものはない。
苛立ちを振り払うように、彼は書類へ署名しようとした。だが、集中を欠いた指先から、インクが一滴、紙の上に落ちた。
――チ。
小さな音だったが、それは彼自身の失調を告げるには十分だった。
そのとき、扉が叩かれた。
硬い。早い。
ノックの余韻が、まだ空気に残っているうちに、扉が開く。
クレドだった。
彼は一礼もしなかった。視線だけを父に向け、そのまま机へ歩み寄る。両腕に抱えているのは、いつもの整った報告書ではない。
羊皮紙の束だ。
だが、どれもが汚れている。泥が乾いてこびりつき、油の染みが広がり、端は破れ、数字の横には走り書きの修正が重ねられている。整合性も体裁もない。現場で引き裂かれ、書き直され、掴まれたまま持ち歩かれた痕跡が、そのまま残っていた。
市場の生の匂いがした。
埃と汗、安酒と油。
クレドは無言で、机上の書類を脇へ押しやった。陳情書も、裁可待ちの案件も、まとめて一つの山にする。その仕草に、ためらいはない。
そして。
汚れた羊皮紙の束を、机の中央に置いた。
ドン、と鈍い音がした。
レオンハルトの鼻を、匂いが刺した。
血だ、と一瞬思った。
もちろん錯覚だ。実際にはインクと油の混じった臭いにすぎない。だが、その匂いは、彼の記憶の中で、戦況報告と直結していた。
彼は眉をひそめ、紙の束を見下ろした。
「……ずいぶんと、血の匂いのする紙を持ってきたな」
クレドは一瞬、言葉を探すように沈黙した。
そして、静かに言った。
「戦場の地図です、父上。ただし――敵は、城壁の中にいます」
レオンハルトの視線が、ゆっくりと紙束へ落ちる。
そこに並ぶ、意味をなさない数字の群れを前に、彼は眉を顰めた。
――ここから先は、平時の話ではない。
クレドは、机の上に二枚の羊皮紙を重ねて置いた。
それは、同じ取引を示す二つの顔だった。
上にある一枚は、倉庫証券だった。
丁寧な手つきで描かれた写生が、表面を占めている。球根の形状、傷の有無、色味。数量、品位、保管庫の番号。どれもが几帳面に整えられ、保管物の存在を疑う余地はない。
だが、クレドはその紙を裏返した。
裏面に、余白はなかった。
人名が並んでいる。
署名、略号、刻印。
インクは重なり、乾く暇もなく上書きされ、羊皮紙は波打っていた。まるで紙そのものが、何度も掴まれ、引き延ばされたかのようだ。
レオンハルトは、無意識に息を止めていた。
指先で名を追う。
A、B、C、D、E、F……。
そして、最後に、再びA。
円だ。
クレドは何も言わなかった。ただ、指でゆっくりと円を描く。その動きだけが、循環を告げていた。
次に、下の一枚を引き出す。
市場監視所の立会記録簿の写しだった。
筆跡は、完全に同じだ。書記官は一人。初めのうちは、行間も整い、数字も明瞭で、時刻は淡々と刻まれている。
だが、後半に入るにつれて、様子が変わる。
行間が詰まり、数字が崩れ、「確認略」「同左」「略」の符号が急増する。インクは途中から明らかに薄くなり、書き手の呼吸が乱れているのが、文字から伝わってきた。
クレドが低く言った。
「この書記官は……取引を記録していたのではありません」
一拍、置く。
「“追いかけていた”のです」
レオンハルトは、唸った。
速度の異常。
そう思いかけて、考えを改める。
違う。
速いのではない。
壊れているのだ。
記録という、制御装置が。
商人は判断していない。倉庫は動いていない。書記官は理解していない。
それでも、取引だけが進む。
誰も全体を把握していないのに、名義と価格だけが前へ前へと押し出されていく。
レオンハルトは、口を開きかけた。
「兵站を持たぬ進軍だな……」
だが、立会記録簿に視線を落とし、言葉を引っ込める。
「……違う」
低く、訂正する。
「これは進軍ですらない」
彼の中で、軍事地図が書き換わる。
命令書だけが、指揮官も兵も置き去りにして、勝手に前進している。
市場が兵ではない。商人が将でもない。
制御を失った“仕組み”そのものが、動いている。
レオンハルトの脳裏に浮かんだのは、暴走馬車ではなかった。
自動弩だ。
誰かが引き金を引いた。
だが、もう誰の手にも握られていない。
矢は、放たれる瞬間を選ばない。
彼は、確信した。
止まれば死ぬ、ではない。
止められないものが、すでに走っている。
クレドが、数字の欄を一つだけ指で押さえた。
価格。
朝から、四割上がっている。
理由は、まだ語られない。
次に問うべきは、ただ一つだった。
――この矢を、誰が引き絞っているのか。
自動弩。
制御を失い、誰の手にも握られていないまま、張り詰め続ける仕組み。
レオンハルトは、机の前に立ったまま、その像を頭の中で反芻していた。
「……では、その矢はどこから出ている」
独り言のような低い声だった。
「この領の金庫は有限だ。金は湧かん」
クレドは答えず、一枚の紙を差し出した。
契約書の雛形。
それも、粗悪な量産紙だ。指で触れれば、すぐに毛羽立ちそうな紙質。下段の保証人欄は、最初から印刷されていないかのように、白く空いている。
「未完成、というわけではありません」
クレドは静かに言った。
「彼らにとっては、完成形です」
レオンハルトは眉を寄せる。
「保証人も立てずに、貸す馬鹿がどこにいる」
「立てれば、時間がかかります」
即答だった。
「審査が必要になる。この速度についていけない」
クレドは、空欄の署名欄を指でなぞる。
「彼らは、金を持っているわけではありません」
一拍。
「金を使った“ことにしている”だけです」
レオンハルトは鼻で笑いかけ、やめた。
「どういう意味だ」
「明日の売却益を、今日の支払いに充てる」
クレドは、帳簿を開く仕草をする。
「未来を前借りしています。帳簿の上でだけ、時間を歪めている」
沈黙が落ちた。
「誰なのか。返せるのか」
クレドは続ける。
「そんな問いを立てている間に、好機は過ぎ去ります。だから――誰も問わない」
レオンハルトは、背もたれに身を預けた。
「総額は、どれほどだ」
クレドは首を振る。
「正確な数字は、もはや誰にも分かりません」
「……書記官にもか」
「おそらくは」
彼は淡々と続けた。
「市場で交わされた“約束”の紙をすべて積み上げれば……領内にある金貨の総量を、何十回も回さねば、払いきれないでしょう」
具体的な数は出ない。
だが、それがかえって、底知れなさを強めていた。
「……実体のない幽霊兵団が、正規軍の数十倍に膨れ上がっている、ということか」
クレドは否定も肯定もしない。
彼は、崩れた立会記録簿を机に置き、その隣に、今の空白の契約書を並べた。
「誰も現物を見ず」
一つ。
「誰も金を払わず」
二つ。
「誰も、正しく記録していない」
三つ目の空白を、指で叩く。
「父上。この熱狂の中心には、何もありません」
顔を上げる。
「あるのは……真空だけです」
レオンハルトは、ゆっくりと目を閉じた。
「風船が破裂するのではないな」
低く、噛みしめるように言う。
「真空が、内側に崩落する」
クレドは、先ほどまで机の中央にあった空欄の契約書を、無言で脇へ寄せた。
もう分析対象ではない。
その仕草だけで、レオンハルトには伝わった。
次に広げられたのは、領地の地図だった。
色褪せた羊皮紙の上に、街道、河川、関所、倉庫が描かれている。クレドは、赤い木製の駒を一つ取り上げた。
市場の位置。
そこから、駒はゆっくりと動かされる。
関所へ。
静かだった。まるで、夜明け前の部隊移動のように。
クレドは、説明しない。
駒を動かす手つきは、戦況図を修正する参謀のそれだった。
やがて、口を開く。
「三の鐘までは、想定通りでした」
淡々とした報告だった。
「最も早く、最も高く買う。価格を押し上げ、熱を最大化させる」
一拍。
「四の鐘以降――反転しています」
レオンハルトは、眉をひそめる。
「現在、西の商人は一枚も買っていません」
感情の混じらない事実提示。
「保有していた権利書を、市場が許す最高値で、すべて放出しています」
レオンハルトは、思わず言った。
「……市場を潰す気か?」
「いいえ」
クレドは即座に否定した。
「撤退です」
間を置かない。
「彼らは攻めていません。ただ――計算を終えただけです」
指が、地図上の街道をなぞる。
「この真空は、持続しない」
事実を述べる声だった。
「ならば、流動性があるうちに畳む。それだけの判断です」
そこに、怒りも非難もない。
レオンハルトは、窓の外を一瞬見た。
市場は、まだ熱を帯びている。領民たちは、西の商人が“売ってくれた”ことを喜び、競って買っている。
クレドが続ける。
「彼らが奪っているのではありません」
一拍。
「我々が、差し出しています」
レオンハルトの脳裏で、軍事的な像が組み上がる。
「……爆薬を抱えさせ」
低く、翻訳する。
「その代金として、金庫を空にされた」
彼は歯を食いしばった。
「血は流れていない。だが……結果は、略奪と同じだ」
断定ではない。冷静な評価だった。
レオンハルトは、即断しかけて、止まる。
思考が走る。
「金利を上げても、間に合わん」
「噂の速さに、命令が追いつかん」
次の瞬間、椅子を蹴って立ち上がった。
「衛兵を呼べ。伝令だ」
怒号ではない。遮断の命令だった。
「関所を閉じろ。西へ向かう馬車は、すべて止めろ」
「荷台の金を改めろ」
執務室は、一気に動に転じた。
だが、クレドは動かなかった。
彼は、窓の外を見ている。
市場。
その音が――
止んだ。
レオンハルトが、低く言う。
「……来たか」
「はい」
クレドは即答した。
「想定通りです」
一拍。
「ただし――想定より、速い」
彼は、内心で思う。
数字では、ここまで静かにはならないはずだった。
そして、沈黙。
叫び声は、まだない。
崩落が始まる、その直前の――完全な空白。
音が、消えた。
それは平穏ではなかった。
数千人が同時に息を止めたときに生じる、圧のない静寂。肺の奥に残った空気が、次に何をすべきか迷っている時間。市場という巨大な生き物が、一瞬だけ呼吸を忘れた状態だった。
レオンハルトは、窓辺に立ったまま、その異様な沈黙を聴いていた。
――計算している。
そう直感した。
誰もが頭の中で同じ問いを反芻し、同じ答えに辿り着くまでの、ほんの数秒。
最初の音は、悲鳴ではなかった。
乾いた破裂音だった。
西の商人の一人が、馬車の脇で何かを落としたのだろう。木箱が石畳に叩きつけられ、割れる音が、広場に反響した。
その瞬間だった。
「待て!」
鋭い叫びが、一点から放たれる。
「逃げるな!」
次の声が重なり、
「金を返せ!」
要求の言葉が、波紋のように広がっていく。
一人の声が、十に。
十が、百に。
どよめきは、轟音へ変わった。
熱狂のとき、群衆は中央を向いていた。全員が取引所へと腕を伸ばし、内側へ内側へと圧をかけていた。
だが今。
人の流れが、反転する。
誰かが振り返り、誰かにぶつかり、そして全員が同時に理解する。
出口は、西だ。
群衆は一斉に背を向け、街道へと走り出した。
レオンハルトの目に、それは流体の相転移として映った。
今まで足元を固めていた水が、堤を越え、外へ外へと流れ出そうとしている。
――戦況が、転換した。
広場では、理性を失った獣の群れが、西の商人の馬車に取りすがっていた。
目を血走らせ、御者を引きずり下ろし、荷台の幌を引き裂く。
一見すれば、暴徒だ。
だが、クレドは違う像を見ていた。
「理解したようです」
窓辺で、淡々と告げる。
「自分が掴まされたものが、富への切符ではなく、爆発寸前の爆弾だと」
視線は冷たい。
「彼らは今、その爆弾を投げ返す相手を探しています。……必死に」
レオンハルトの反射が、先に動いた。
腰の剣帯に、手が伸びる。
「警備隊長は何をしている!」
怒号が、執務室に響く。
「広場に部隊を出せ! 暴徒を鎮圧しろ!」
秩序を乱す者を止める。それは、軍人として、領主としての条件反射だった。
「いけません、父上」
クレドの声が、扉の前でそれを止めた。
立ち塞がりはしない。ただ、言葉で足を止める。
「部隊を出せば、我々が敵になります」
レオンハルトは振り向いた。
「民が商人を襲っているのだぞ! これを見過ごせと言うのか!」
「彼らは暴徒ではありません」
クレドは即答した。
「債権者です」
その一語が、空気を切り裂いた。
「正当な対価を奪われ、それを取り戻そうとしている被害者です」
続ける。
「今、父上が軍を出せば、領民はこう考えます。『領主は、詐欺師を逃がすために、我々を斬り捨てた』と」
レオンハルトの眉が動く。
「その瞬間、怒りの矛先は西ではなく、ここ――領主館に向かいます」
静かな声だった。
「金と信用を失った民衆を敵に回せば、この領は明日、滅びます」
レオンハルトは歯を食いしばった。
「……では、この狼藉を黙って見ていろと言うのか」
「止める必要はありません」
クレドは言い切った。
「誘導するのです」
指先が、西の街道を示す。
「民衆の怒りというエネルギーを、すべて西へ流し込んでください」
レオンハルトの中で、戦術が切り替わる。
「……民を、壁にする気か」
「はい」
「数千の債権者が追えば、馬車は動けません」
一瞬の沈黙の後、レオンハルトは剣から手を離した。
「……よし」
声の質が変わる。
「広場への介入は不要だ」
衛兵に向かって、冷徹に命じる。
「民衆には指一本触れるな。その代わり、部隊を外周へ回せ」
「西へ向かう道を塞ぐな。……開けろ」
命令が、走る。
窓の外で、警備隊が道を開いた。
堰を切ったように、人の波が西の大通りへ雪崩れ込んでいく。
その先に、逃げ遅れた商人の馬車列が見えた。
クレドが、小さく呟く。
「行け」
一拍。
「……その足で、逃げる金を捕まえろ」
彼の目は、揺れなかった。
強欲は、今この瞬間、最強の武器だった。
夕陽が、西の空に沈みかけていた。
逆光の中、関所の大門は黒々とした壁となって立ちはだかっている。
門は閉ざされ、その手前に、豪奢な馬車が十数台、乱雑に詰まっていた。布で覆われた荷台は不自然に低く、車輪は地面へ深くめり込んでいる。金貨の重みが、そのまま土を押し潰していた。
馬はいらだち、蹄を鳴らし、御者たちは鞭を振るうが、進む場所はない。
「通行権の侵害だ!」
西の商人たちが、門前で衛兵に詰め寄っていた。上質な衣装は汗と埃にまみれ、顔は恐怖と焦燥で歪んでいる。
「我々は正当な取引を行っただけだ!」
「この一分一秒の遅れが、どれほどの損失になるか分かっているのか!」
衛兵たちは槍を構え、門を塞いでいる。だが、相手は本来なら敬うべき“上客”だ。指先に迷いが見えた。
その喚き声を切り裂くように、背後から蹄の音が響いた。
単騎ではない。
整然と揃った、騎馬隊の行軍音だ。
先頭に、レオンハルトがいた。
彼は馬から降りない。高みを保ったまま、地べたにいる商人たちを見下ろす。クレドは、少し下がった位置で、静かに控えていた。
レオンハルトが手綱を引く。
馬が荒い鼻息を吐いた。
その一音で、商人たちの怒号が止む。
レオンハルトの視線は、彼らの顔には向かなかった。地面にめり込んだ車輪――金貨の重みへと落ちる。
――よくもまあ、我が領土の脂身を、限界まで詰め込んだものだ。
やがて、商人の中から最も身なりの良い男が進み出た。恰幅のいい体を揺らし、尊大な態度で声を張る。
「我々はハルバート男爵の公認商人だ。不当な拘束は外交問題になる!」
レオンハルトは、表情一つ変えず、短く問う。
「……急いでいるようだな」
「当たり前だ! 商機は待ってくれない!」
レオンハルトは、ゆっくりと顎をしゃくり、東の方角を示した。
「商機? ……あれがか」
遠くの地鳴りが、はっきりとした怒号に変わりつつあった。
土煙が立ち上る。
数千の民衆が、農具や棒を手に、こちらへ殺到してくる。
商人たちの顔色が、赤から蒼白へと変わった。
レオンハルトは、ここで初めて“慈悲深い領主”の表情を作る。
「後ろを見ろ。暴徒が迫っている」
「今、この門を開けてみろ。貴様らが通過する前に、連中が追いつく」
「狭い門の前で、馬車ごと引きずり降ろされ、金貨の袋と一緒に八つ裂きだ」
「ひっ……!」
「ならば通してくれ! 門の向こうへ逃げれば助かる!」
レオンハルトは、静かに首を横に振った。
「ならん」
「門を開ければ、暴徒も一緒になだれ込む。隣の領地に暴動を輸出するわけにはいかん」
「それに――我が領土で外国商人が殺されれば、それこそ外交問題だ」
正論だった。
そして、逃げ道は塞がれた。
レオンハルトは声を張り上げる。
「全隊、円陣を組め!」
「商人と馬車を囲め! 槍の穂先は外へ向けろ!」
衛兵たちが動く。商人と馬車は瞬く間に取り囲まれた。
それは護衛の陣形に見えたが、実態は檻だった。
「ふざけるな! これは軟禁だ! 逮捕だ!」
商人が叫ぶ。
レオンハルトは馬上から冷たく言い捨てる。
「感謝こそされ、恨まれる筋合いはないな」
「……命が惜しくないなら、この包囲から出て行ってもいいぞ?」
直後、民衆の先頭が到達した。
「金返せ!」「泥棒!」
怒号と共に、衛兵の壁へ激突する。
「下がれ!」「領主様の命令だ!」
必死に止める衛兵の列の内側で、商人たちは震え、馬車の陰に縮こまるしかなかった。
皮肉にも、安全地帯は、その槍の内側にしかなかった。
レオンハルトは、混乱を見下ろし、背後のクレドに視線を送る。
――物理的には止めた。金も確保した。
クレドは、静かに頷く。
――あとは、私が料理します。
レオンハルトは、低く呟いた。
「金床とハンマーの間に挟まれた気分はどうだ」
「精々、潰されないように祈るんだな」
石造りの詰め所は、密室だった。
小さな窓には鉄格子が嵌められ、外からの怒号が低周波の振動となって壁を揺らしている。カンテラの火が揺れ、影が伸び縮みするたび、商人たちの顔から血の気が引いた。
西の商人代表三名は、硬い木のベンチに並んで座らされていた。膝の上には、金貨の入った小箱。命綱を抱くように、誰もがそれを離そうとしない。
入口にはレオンハルトが立っている。腕を組み、無言で塞ぐ姿は処刑人そのものだった。
対照的に、クレドは粗末な机に書類を広げ、羽ペンを整えている。ここが修羅場であることなど、意に介していないようだった。
「不当だ!」
代表の一人が、震える手で机を叩いた。
「これは拉致監禁だ! 我々は正当な商行為を行った!」
「買い手が合意し、契約に署名し、金も支払った。何一つ法に触れていない!」
続けざまに吐き捨てる。
「市場が暴落した? 知ったことか! それは買い手の自己責任だ!」
「我々には、この金を持って帰る権利がある!」
レオンハルトは、ピクリとも動かない。
ただ、商人の首筋を眺める。その沈黙が、ここでは剣より雄弁だった。
クレドが、静かに頷いた。
「おっしゃる通りです。契約は絶対です」
商人が息を呑む。
「正当な手続きで『商品』を売ったのであれば、この金は貴殿らのものです」
肯定から入る。
そして、机に二枚の紙を並べた。
裏書きで黒く染まった倉庫証券。
そして、在庫管理簿。
「ですが……確認させてください」
事務的な声。
「貴殿らが売ったのは『球根』ですね。紙切れではなく」
「当たり前だ!」
「では、その球根は今、どこにありますか?」
商人が鼻で笑う。
「倉庫だ」
「何番の棚の、どの箱ですか?」
一拍。
「ロット番号は? 品質は? 最後に現物を確認したのは、いつですか?」
沈黙。
クレドは、淡々と続けた。
「倉庫番に確認しました。本日、倉庫の鍵は一度も開けられていません」
カンテラの火が揺れた。
「つまり貴殿らは、『存在を確認していないモノ』を売った」
「もっと言えば、既に腐って消滅しているかもしれないモノを、新品として売った可能性がある」
商人の顔が引きつる。
クレドの声が、低くなる。
「商法では、これを『空売り』とは呼びません」
一拍。
「……詐欺の疑いがあります」
「言いがかりだ!」
「ええ。ですから、確認しましょう」
クレドは、金貨の小箱を指した。
「この金は、詐欺の疑いが晴れるまで、すべて証拠品として押収します」
「倉庫の全在庫を検品し、台帳と照合し、品質を確認する」
指で、見えない日付をなぞる。
「……最低でも、三ヶ月はかかるでしょう」
「三ヶ月だと!?」
代表者が叫ぶ。
「金を止められたら、我々は破産だ!」
外から、ドン、ドン、と扉を叩く音が響いた。
「金返せ!」
怒号が重なる。
クレドは、そこで初めて声の温度を変えた。
「……抜け道はあります」
新しい書類を差し出す。
「詐欺ではなく、『手違い』だったことにするのです」
「現物確認の漏れによる契約の錯誤。直近四時間の取引は、すべて無効」
「金貨は返還し、代わりに権利書を回収する」
「その代わり、罪は問わない。今すぐ、門を通します」
クレドは、窓の外を親指で示した。
「選んでください」
「三ヶ月、ここで結果を待つか」
「今日、少しの損で、生きて帰るか」
扉が、再び叩かれる。
代表者は歯を食いしばり、やがて小箱から手を離した。
羽ペンを取り、震える手で署名をする。
「……覚えておけ。この借りは高くつくぞ」
クレドは、淡々とインクを乾かした。
「ええ。今日は『貸し』ということにしておきましょう」
「門を開けろ。彼らを通せ」
商人たちは、命と引き換えに、金を失って解放された。
レオンハルトは、その一部始終を見ていた。
剣を抜かず、血も流さず、言葉だけで全財産を吐き出させる息子を。
――やはり、一番恐ろしいのはこいつだ。
夜。
関所の門前広場は、松明の炎だけが揺れていた。
怒号はまだ残っている。だがそれは、さきほどの獣じみた轟きではなく、喉の奥で擦れるような、疲労した低音へ変わっていた。
衛兵の槍が作る檻の中で、西の商人たちが立たされている。
その前に、領民が群れている。目は赤く、手は震え、だがもう走らない。息が切れ、足が言うことを聞かないのだ。
レオンハルトは城壁の上に立っていた。剣に手を置いたまま、抜かない。
クレドが一歩前へ出る。
声は通らないほど小さくてもよかった。ここから先は、言葉ではなく物理が支配する。
「――返すんだ」
それだけで足りた。
商人の代表が歯を食いしばり、衛兵にうながされるまま、金貨の袋を抱え上げた。
袋の口がほどかれる。
次の瞬間。
ガラガラ。
チャリ……。
重い金属音が、夜の静寂に転がった。
金貨が、地面に散った。
落ちた黄金は、跳ねない。
ただ、そこに“ある”。
領民が、ほとんど反射でそれに手を伸ばす。拾い上げ、掌で確かめ、歯で噛む。
そして、同じ動作で懐へ手を入れ、くしゃくしゃになった羊皮紙を引きずり出した。
「持って行け!」
誰かが叫んだ。
「こんな紙切れ!」
数千枚の権利書が、夜風に舞い上がる。
軽い。
まるで紙吹雪だ。
だが、祝祭のそれではない。
投げつけられた紙片が商人の顔や馬車に張り付き、泥と汗に濡れた文字が、哀れな飾りのようにひらついた。
地面には動かない重い現実。
宙には、軽い虚構。
対比が、残酷なほど鮮明だった。
門が、軋んで開く。
商人たちは、逃げるように馬車へ這い上がった。
車輪は――軽やかに回った。
空荷。
略奪は、失敗した。
馬車列は闇へ消えていく。
歓声は、ない。
「万歳」も、「勝ったぞ」も聞こえない。
広場に残ったのは、安堵の吐息と、すすり泣きと、膝から崩れ落ちる音だけだった。
レオンハルトは、城壁の上からそれを見下ろす。
「……金は戻った」
低く呟く。
「だが、見ろ。まるで敗残兵だ」
人々は金貨を抱き、ただ座り込む。互いに顔を見ない。笑えない。
「信用は地に落ちた。明日から市場には閑古鳥が鳴くだろう」
レオンハルトは、吐き捨てるように言った。
「これが『勝利』か?」
クレドは、即答した。
「ええ。しばらくは厳しい冬の時代です」
そして、言い直すように続ける。
「ですが、父上。血は体内に残りました」
レオンハルトの視線が、息子へ向く。
「血さえ失わなければ、傷は治せます。……これは勝利ではありません」
一拍。
「『蘇生』です」
レオンハルトは、闇へ消えていった街道を見つめた。
「男爵はどうする」
声は低い。
「奴は無傷だ。また別の手で攻めてくるぞ」
クレドは、懐から一枚の書類を取り出した。
写し。
墨で整然と書かれた、乾いた事務文書だ。
「ご安心を」
淡々と。
「『お土産』を持たせました」
レオンハルトが眉を動かす。
「男爵への手紙ではありません。王都の税務局への――関税申告書です」
クレドの指が、文面の要所を押さえる。
「今回の騒動で、西の商人たちの資金が一時的に“公的記録”に残りました」
「私は、ありのままを報告しました。『申告額と乖離した大量の資金を携行していた』と」
レオンハルトの目が細くなる。
「王都が動くか」
「動かざるを得ません」
クレドは断定する。
「男爵は、我々に報復する暇などなくなります。……自領の金庫をひっくり返される査察対応で、手一杯になる」
夜風が吹いた。
広場を転がる紙くずが、乾いた音を立てていた。
王都。
財務省庁舎の奥まった一室。
机上に積まれた台帳の中で、ハインリヒは一通の報告書を開いた。
地方から上がってきた、関税申告。
彼は数字を読まない。
指先で、数字の“並び”を撫でる。
滑る。
止まる。
老人の目が、わずかに細くなった。
「……綺麗すぎるな」
指を止めたまま、息だけを吐く。
「循環のための汚れは、許せる」
「だが――これは、汚れを隠すための白だ」
彼は別の束――男爵領の納税記録へと視線を移した。
「裏に濁流がある帳簿ほど、表面を氷で固めたがる」
ハインリヒは、引き出しから赤い栞を取り出す。
それを、男爵領の台帳に挟んだ。
音はしない。
だが、その瞬間、この帳簿は“扱いが変わった”。
「来年は、西を洗え」
声は淡い。淡いまま、決まっている。
「……腐った金は、血にならん。毒になる」
唇が、薄く閉じられた。
それは笑いではなく、決裁の終わりの形だった。
城壁の上に、場面が戻る。
レオンハルトは、腰の剣に手を置いた。
今夜、一度も抜かれなかった剣。
「……姿も見えず、血も流れない」
吐露するように言う。
「だが、国が一つ滅びかけ……相手もまた、見えぬ刃で刺されたか」
クレドは答えない。
「剣で斬り合う方が、まだマシだ。単純だからな」
レオンハルトの声には、畏怖が混じっていた。
クレドは、自分の指先を見た。
商人を追い詰めたときについた墨の染みが、まだ残っている。
彼はハンカチを取り出し、その染みを静かに、丁寧に拭い取った。
それは、剣士が戦いの後に刃についた血糊を拭う仕草と同じだった。
闇に包まれた街道。
風が吹く。
無数の紙くず――かつて夢見た富の残骸が、カサカサと乾いた音を立てて転がっていく。
遠くで、松明の炎が一つ、二つ、消えた。
そして、夜だけが残った。




