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異世界金融再建録 ― 税と貨幣と黙認の王国 ―  作者: しずか


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第12話  承認と既存価格


 文書が届いた瞬間、執務室の空気が重くなった。

 空気が重い。だが、それは湿気のせいではない。人の息が増えたわけでもなかった。むしろ逆だ。帳面の奥に押し込められていた懸念が、封蝋の赤を視界に捉えた途端、静かに起き上がり、部屋の隅々まで行き渡っただけだ。

 窓は閉め切られている。冬の冷気を避けるためだったが、今日はそれが隔離壁のように感じられた。机上の蝋燭は短く、炎は揺れない。紙の匂いだけが濃く、罫紙と書き損じた数字の屑が薄く積もっている。机の端に揃えた硬貨は昨夜から動いていない。それでも、どこか落ち着かない輝きを帯びていた。

 扉が控えめに叩かれ、書記が包みを差し出す。王都の紋、封蝋の刻印。執務室に集まった視線が、自然とその一点に収束する。ここでは、紙一枚が通貨より重い。紙一枚で利回りが変わり、列が生まれ、列が市場になる。

 クレドは包みを受け取り、余計な反応を見せなかった。感情は情報だ。そして過剰な情報は、必ず値動きを呼ぶ。

 封を切り、文面を一瞥する。簡潔だった。救済の言葉はなく、祝意もない。ただ形式と承認が並んでいる。国家は善意を装わない。ただ分類し、線を引き、止める理由を消す。

 クレドはその紙片を、机の隅に払い置いた。書き損じた計算式を脇へ退けるのと、変わらない動作だった。

 冷淡さではない。習慣だ。

 紙は価格に変換される。署名は割引率に置き換えられ、封蝋の赤は信用スプレッドの色になる。彼にとって文書は出来事ではなく、変数だった。


 ――割引率は、すでに下がっている。


 前回、市場は一度均衡を取り戻している。遅延分は銅貨を二枚上乗せし、リスク・プレミアムは利で支払った。痛みはあったが破綻ではない。取引は再開され、倉は閉じず、噂も沈静化した。

 だから今回の承認は、新しい材料ではない。すでに織り込まれていた前提条件が、紙の形を取っただけのことだ。市場に必要なのは反転ではない。停止条件が制度上から消えること、それだけだった。

 だが、その確認がもたらす副作用を、彼は見落としていなかった。

 承認によって消えるものがある。検問、再確認、前払いの証明、書式の突き返し。疑念という名の摩擦が、制度の側から剥ぎ取られる。

 ブレーキが外れるとは、速度が上がることではない。止まれなくなることだ。流れは、量ではなく質を変える。

 クレドは計算した。窓口を増やし、人員を足し、帳面を分ける。投入量に比例して処理能力は伸びる。世界が線形である限り、この設計は破綻しない。

 だが、線形でない現実が、すでに足元に迫っている。

 窓口が増えれば、問い合わせが増える。照合が増え、例外が増え、誰かが止まる。誰かが止まれば、全体が止まる。列は短くならない。形を変えるだけだ。目に見える列が消える代わりに、机の上で紙が澱み、堆積していく。

 クレドは帳簿の端を押さえた。乾いた紙が、かすかに軋む。音ではない。負荷の兆候だ。

 外は静かだった。それでも彼には聞こえた。市場の音が変わりつつある。軽い金属音ではない。荷を積み過ぎた車軸が沈み、板がきしむ、低く重い響きだ。

 流れは太くなり、岸を削る。

 ここから先は、評価の話ではない。資本の話でも、信用の話でもない。処理能力の話だ。

 どこまで耐えられるか。どこで折れるか。その瞬間に、何が連鎖するか。

 彼は数式に問いかけた。

 答えは返らない。

 数式は、沈黙していた。


 朝は、いつもより早く始まった。

 夜明け前から、倉の前に人が集まっている。怒号も押し合いもない。ただ、荷車の数が多い。数が多いという事実だけが、じわじわと場の温度を上げていた。

 書記のレルムは、執務机の前で深く息を吐いた。吐く息が白くならないほど室内は温い。それでも胸の奥が冷える。紙の束が、いつもより重い。

 昨日までは、列は動いていた。遅れはあっても、必ず順番が回ってきた。今日も、手順は変わらない。書式は同じ、印章も同じ。変わったのは、止める理由が消えたことだけだ。

 承認の文書は、壁に掲げられている。誰かが指示したわけではない。自然に、そうなった。あの一行があるだけで、確認の言葉が減る。念押しが省かれ、立ち止まりがなくなる。

 結果として、処理は速くなった。

 少なくとも、そう見えた。

 レルムは一件目の書類に判を押し、次を手に取る。二件目、三件目。机の上は整っている。帳面の数字も合っている。だが、紙の束は減らない。むしろ、背後で静かに増えていく。

 窓口が増設された。若い書記が二人、急ごしらえの机に座っている。彼らは優秀だ。手も速い。だが、慣れていない。例外に弱い。

 例外は、必ず来る。

 前払いの証明が足りない者。

 荷の内容が帳面と微妙に合わない者。

 他所の印章を持ち込む者。

 承認が下りてから、それらは拒絶されなくなった。代わりに、「あとで確認する」という札が付けられる。その札が、紙の山を育てていく。

 列は短い。

 だが、机の上が長い。

 昼前には、倉の動線が詰まり始めた。出る荷と入る荷が、同じ場所で交差する。誰も間違えていない。ただ、判断が遅れる。ほんの一拍の遅れが、次の一拍を呼ぶ。

 倉番が小声で言った。

 「いつもより、重いですね」


 レルムは頷いた。重いのは荷ではない。決断だ。

 外では、車軸の音が低くなっていた。積み過ぎた車は、音を立てない。沈むように、軋む。

 昼を過ぎても、騒ぎは起きない。市場は落ち着いている。むしろ、信頼しているように見える。誰も疑わない。誰も怒らない。

 だから、誰も止まらない。

 夕刻、レルムは初めて帳面を閉じた。未処理の札が、紙の端から覗いている。数えてはいけない気がした。

 執務室の奥で、クレドが帳面を見ている。彼はまだ、何も言わない。

 言葉が出ないのではない。

 出す必要が、まだ数式に現れていないだけだ。

 その沈黙が、今日一番、重かった。





 昼下がり、執務室の扉が静かに叩かれた。

 入ってきたのはハインリヒだった。外套は整い、靴底に埃はない。彼は挨拶を最小限に済ませると、椅子に腰を下ろす前から室内を見回した。視線は人ではなく、机の配置、紙の量、書記の動線をなぞっている。流れを測る者の目だ。

 「動いているか」


 問いは短く、余計な前提を含まない。

 クレドは即答しなかった。帳面を閉じ、指先で紙の端を揃える。考える時間ではない。言葉を削るための間だ。

 「動いています」

 そこで一度、区切った。


 「ただし――血管に澱が溜まり始めている」

 ハインリヒの眉が、わずかに動く。

 クレドは続けた。

 「承認以降、ここに流れ込む取引の質が変わりました。国のお墨付きを盾に、本来なら弾かれるはずの荷や手形が、選別されないまま混入している」

 彼の声に怒りはない。診断書を読む医師の口調だった。


 「悪意ではありません。合理的な逆選択です。止められないと知った瞬間、質の悪い取引ほど、ここを通ろうとする」

 机の上に積まれた紙束を、指先で軽く叩く。

 「いま詰まり始めているのは遅延ではない。澱です。不純物が、流れそのものを汚し始めている」

 ハインリヒは何も言わない。否定もしない。その沈黙は、続きを促す合図だった。

 「国家の要求は理解しています」

 クレドは視線を上げる。

 「止めずに回せ。流れを維持しろ。――合理的です。ですが、その条件を満たすには、追加の要件が必要です」

 ここで、彼は初めて交渉のテーブルを作る。

 「流れを維持する代わりに、選別権をください」

 室内の空気が、わずかに張り詰める。

 「規格外の荷、不備のある手形、信用が担保されない取引。相手が貴族であろうと、王都の商人であろうと、その場で切り捨てる権限です」

 言い換えない。言葉を和らげない。

 「これは報復ではありません。感情でもありません。システムを延命させるためのキル・スイッチです」

 ハインリヒは、ゆっくりと息を吐いた。

 「随分と思い切ったな」

 「思い切りではありません」

 クレドは即座に返す。

 「本流を守るための切断です。支流を温存すれば、全体が死ぬ」

 短い沈黙の後、ハインリヒは頷いた。

 「合理的だ」

 彼は即断した。


 「本流さえ守れるなら、支流がどれだけ死のうが構わん」

 淡々とした声だった。

 「苦情は私が握り潰す。貴族の不満も、王都の商人の泣き言も……たとえそれが、君の父君(ハルバート伯)からのものであってもだ。お前はただ、純粋な機能として選別しろ」

 それは許可だった。

 同時に、殺生与奪の権利の委譲でもある。

 「結果だけ出せ」

 それだけ言い残し、ハインリヒは立ち上がった。

 扉が閉まる音は、乾いていた。

 クレドは一人残り、しばらく動かなかった。机の上の紙束に目を落とし、次に壁を見る。視線が、自然と一点に収束する。

 選別。

 それは、流れを守るために、流れを断ち切る行為だ。

 彼は理解していた。

 今、手に入れたのは単なる権限ではない。

 価格を付けずに、拒絶できる力だ。

 この力があれば、流れを束ねられる。

 束ねられるなら、並べられる。

 並べられるなら、板にできる。

 クレドは帳面を開いた。

 次に書くのは、取引所の構造だ。




 翌朝、クズ市の景色は一変していた。

 商談に使われていた個別の机や衝立はすべて撤去され、広い空間が剥き出しになっている。床には何もない。人が立ち止まり、身振りで説得し、声を荒げるための余白は、最初から設計されていなかった。

 空間の中心、壁一面を占める黒い板が据え付けられている。磨かれた石板――スレート。その表面は平滑で、光を吸い、声を返さない。ここでは人間ではなく、この板だけが視線を集めていた。市場の支配者だ。

 板には太い線で二つの列が引かれている。

 売り(Ask)。

 買い(Bid)。

 その間に残されたのは、価格の欄だけだった。感情も、事情も、過去も書き込む余地はない。ただ数字を受け取り、演算を待つための面積が、無機質に確保されている。

 クレドは書記たちを前に、短く告げた。

 「今日から、我々は商売をしません」

 ざわめきが起きかけたが、彼は構わず続ける。

 「価格を決めません。価格を書いてください」


 「条件が合わないものは、人を見るず。黒板から消してください」

 それが新しい規則だった。交渉は存在しない。あるのは記載と抹消だけ。人間の意図は、板に触れた瞬間に剥ぎ取られる。

 やがて商人たちが集まり始めた。彼らはいつもの癖で声を張り上げる。

 「国のお墨付きだ。この麦を買え。少し古いが兵站には使える」

 窓口に立つレルムは、感情を挟まず応じる。

 「売り注文。麦。等級三。価格、銀貨三枚」

 チョークが走る。

 骨を叩くような硬質な音が、空間に刻まれる。秒針のように冷徹で、一定だ。数字が書き込まれるたび、板が一度、息をしたように見えた。

 レルムは板を見上げる。

 「……買い注文なし。不成立」

 商人は一歩踏み出し、怒鳴る。

 「は? 交渉しろ」

 誰も応じない。視線は集まらない。レルムはただ、板を指差す。

 「板を見てください」

 空白の**買い(Bid)**欄が、冷たく口を開けている。

 「需要がありません」

 それがすべてだった。

 ここで行われている選別は、武力ではない。排除でもない。

 無視だ。

 商人はそこに立っている。声も出している。唇は動き、喉は震えている。それでも誰の世界にも存在しない。数字だけが進み、板だけが応答し、彼は透明になる。社会的な死が、音もなく実行される。

 需要のない荷は、板の上で晒され続ける。高値を付けたまま、誰にも触れられない。誰の手も汚さないまま、取引の外へ押し流されていく。それが、この市場における最大の廃棄だった。

 時間が経つにつれ、商人たちは理解し始める。ここでは叫んでも意味がない。板に書かれた気配値は、重力のように働く。高すぎる数字は浮き、低すぎる数字は沈む。やがて双方が、妥協という名の落下を始める。

 貴族が、価格を書き換える。

 強欲で知られた商人が、数字を削る。

 チョークの音だけが支配する。

 カツ。

 カツ。

 カツ。

 そのリズムは、磁力のように売りと買いを引き寄せる。二つの数字が重なった瞬間、滞留していた空気が弾けた。

 「約定」

 レルムの声は低く、短い。紙がめくられ、印が押される。流れが生まれる。それだけだ。

 そこに人間はいない。あるのは流動性という現象だけ。不純物は板の端で沈黙し、消える。拒絶する意志すら、必要とされない。

 二階の回廊から、クレドはそれを見下ろしていた。かつてのような熱気はない。あるのは回転数だ。数字が現れ、擦れ合い、消えていく。その摩擦が、わずかなエネルギーを生む。

 板の左右を行き来する数字の差――スプレッド。そこから抜き取られるのは、在庫でも勇気でもない。純粋な運動エネルギーだ。ヴァルデンはもはや価格リスクを負わない。装置の設計者として、その回転効率だけを監視する。

 純粋な取引所――OSE(公正取引所)。

 遠くから、その様子を見ている者がいた。ハインリヒだ。

 彼は小さく呟く。

 「……なるほど。感情を殺すために、数字を使わせたか」

 評価は、それだけだった。彼は視線を外し、踵を返す。ここから先は政治ではない。制度が自走する領域だ。彼の役目は、すでに終わっていた。

 クレドは答えない。盤面は安定している。彼はもうプレイヤーではない。市場という演算装置の回転を監視する、管理者に過ぎなかった。

 チョークの音が、低く、一定のリズムを刻み続ける。

 それは、巨大なエンジンが回り始めた合図だった。


 日が傾き、取引所の喧騒が完全に引いた頃。

 スレートの前に、レルムは一人残っていた。チョークの粉を布で拭い、板を黒一色に戻す。数字は消えたが、痕跡だけが薄く残る。今日ここで何が起きたかを、板そのものが記憶しているようだった。

 足音がした。

 振り返ると、領主が立っていた。護衛はいない。視線は板ではなく、レルムに向けられている。

 「一日で、随分と静かになったな」

 「人が減ったわけではありません」レルムは答える。「声が減っただけです」

 領主は短く息を吐いた。

 「恨み言も、泣き言も、ここには残らなかった」

 「板は拾いません。数字だけを残します」

 領主はスレートに近づき、消えかけた線を指でなぞる。白くなった指先を見て、わずかに笑った。

 「剣を抜かずに、これほどの選別をしたのは初めてだ」

 「剣なら、相手を殺します」

 レルムは布を畳みながら言った。

 「これは、居場所を消します」

 しばし沈黙が落ちる。

 「恐ろしいか」領主が問う。

 「いえ」

 レルムは首を振る。

 「恐ろしいのは、人です。板は、ただ動いただけです」

 領主はその言葉を咀嚼するように、視線を落とした。

 「では、我々は何になる」

 「管理者です」

 即答だった。

 「決める者ではありません。止めることも、急がせることもできますが、代わりに動くことはできません」

 領主は、しばらく黙っていたが、やがて頷いた。

 「それでいい」

 彼は踵を返し、出口へ向かう。

 「レルム」

 呼び止められ、レルムは顔を上げる。

 「今日から、この町で一番強いのは、誰だ」

 レルムは答えなかった。

 代わりに、静まり返ったスレートを見上げる。

 領主も同じ方向を見た。

 返事は、不要だった。


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