表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界金融再建録 ― 税と貨幣と黙認の王国 ―  作者: しずか


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/18

10

第10話一日の遅延

泥濘ぬかるみの朝

雨は夜明け前に止んでいた。

だが、止んだというだけで、消えたわけではない。

クズ市の朝は、重かった。

石畳の目地に溜まった水が、靴底を吸い、歩くたびに遅れを生む。市場に漂うのは、濡れた藁と馬糞、それに湿った銀の匂いだ。金属は乾いてこそ音を立てる。濡れた銀は、沈黙する。

市庁舎の裏口で、使者が泥を引きずるようにして立っていた。

外套の裾は茶色に染まり、肩で息をしている。

「……街道が、やられました」


報告は短かった。

夜半の雨で道が緩み、荷車の車輪がはまった。馬が踏ん張り、軸が鳴った。嫌な音だったという。引き抜くのに半刻。ようやく動かした先で、川にかかる古い木橋が落ちかけているのを見つけた。補強が終わるまで通れない。

「到着は?」

レルムの問いに、使者は一瞬だけ視線を逸らした。

「……日が傾いてからです。早くて」


半日。

言葉にすれば短い。だが、ここでは致命傷になり得る時間だった。

レルムは帳簿を開いた。

数字は、何一つ狂っていない。

ヴァルデン領からの送金は、昨日の時点で確定している。残高は黒字。むしろ、余裕すらある。


――銀が無いのではない。


彼は、帳簿の余白に走る一本の線を見つめた。


――届いていないだけだ。


だが、帳簿は銀を吐き出さない。

窓口に積まれた木箱の中身は、軽かった。今日支払う分の現金げんなまが、物理的に足りない。

それだけで、市は息苦しくなる。

外で、ざわめきが膨らみ始めていた。

鐘楼の影に人が集まる。農具商、革職人、塩問屋。皆、同じ方向を見ている。窓口だ。

彼らは怒っていない。

まだ。

ただ、早すぎる時間に集まった人間が増えるとき、市場は必ず軋む。

クレドは、廊下の端でその様子を見ていた。

これは破産ではない。

流動性の問題だ。

現代なら、指先一つで解消される遅延。だが、この世界では、銀は歩かない。走らない。馬と車輪と橋に縛られている。

彼は、湿った空気を吸い込んだ。

雨の匂いは、金融の敵だ。

ここから先、誰かが一度でも声を荒げれば、連鎖が始まる。




窓口が開く前に、声が上がった。

「今日は、出るのか」

問いは穏やかだった。

だが、その背後に立つ人間の数は、穏やかではない。

雨上がりの革の匂いがした。

濡れた外套。濡れた袋。湿った縄。

そこに汗が混じる。泥が混じる。馬の体温が混じる。

人が増えると、匂いは“層”になる。窓の少ない役所の廊下に、その層が溜まっていく。

床板はまだ冷たいのに、空気だけが温い。

息が戻ってくる。

吐いたはずの湿気が、頬に触れて戻ってくる。

農具商の肩越しに革職人がいる。その革職人の背の後ろに、塩問屋が腕を組んで立っている。港から来た者もいる。昨日の雨で長靴が乾いていない。

誰も割り込まない。

秩序は保たれている。

ただ、距離だけが詰まっていく。

列の先頭の男が、鼻で息をした。

怒りではなく、計算の前の呼吸だ。

レルムは、木製のカウンターの内側に立っていた。

薄い板一枚。

この板が、今は境界になっている。

外側にいる男たちの圧は、板を透けて伝わってくる。板の向こうにあるのは拳ではない。生活だ。生活が板を押してくる。


「銀はあります」

レルムは言った。

一度目よりも、二度目よりも、声が低くなっていた。

「帳簿上は」

誰かが補足した。

嘲りではない。確認だ。

「ええ。帳簿上は」

レルムは肯いた。

その瞬間、外の風が戸口から入り、湿った匂いが一段濃くなった。

雨は止んでいる。

だが、道は止んでいない。

泥は吸い込み続け、橋は軋み続けている。


「では、見せろ」

言葉が落ちた。

空気が変わった。

レルムは背後の木箱に手を伸ばした。指先が一瞬、滑る。乾いていない。

蓋を持ち上げると、木がきしむ音がした。湿った木の音だ。軽く、嫌な音。

中の銀貨は、数えられるほどしかない。

硬貨が重なる音が、薄い。

今日の支払いを満たす音ではない。

沈黙。

沈黙は、怒号よりも重い。


「……俺が疑ってるんじゃない」

農具商が言った。

声は低い。

怒りではなく、乾いた疲労が混じっている。

「俺の支払先が、待ってくれないんだ」

革職人が続けた。

彼は両手を見せた。革で染まった指。雨でふやけて、爪の縁が白い。

「昼までに、鉄卸へ払わなきゃならない」

言葉が変わった。

「今は鉄の相場が荒れてる。現金を持たない奴には、クズ鉄一つ売ってくれない」

それは、個人の気性の問題ではなかった。

市場の話だ。

「鉄が止まれば、畑が止まる」

農具商が続ける。

「畑が止まれば、秋の税が止まる。税が止まれば、領主が怒る」

塩問屋が唇を舐めた。

「港の荷は夕刻だ。銀が無きゃ人夫が動かん」

「人夫が動かなきゃ、倉が止まる」

港の男が言った。

「倉が止まれば、荷が腐る。腐れば値が落ちる。落ちた分は、誰が被る」

笑いはなかった。

「俺だ」


「噂で死ぬ」

誰かが呟いた。

この街の死は剣でなく、紙と口から来る。

「一日だぞ」

誰かが言った。

「たった一日待てと言っているだけだろう」

だが、その声は弱かった。

「一日が命取りなんだ」

別の商人が言った。

「今日払えなかったって噂が立てば、明日は誰も待たん」

信用。

それは腹を満たさない。

だが腹を満たす物を、次の日に連れてくる。

「信用で腹は膨れない」

誰かが吐き捨てるように言った。

その言葉が、合図になりかけた。

レルムは喉の奥の乾きを感じた。

舌が上顎に貼りつく。

理屈は通じないのではない。

理屈が、間に合わない。

クレドは壁際で腕を組んでいた。

彼は声を聞いていない。

流れを見ている。

これは取り付けではない。

だが、取り付けに変わる寸前だ。

現代なら、電子送金で流れを繋げられる。数秒。たった数秒で「届いていない」を「届いた」に変えられる。

ここでは違う。

銀は重い。

運ぶには馬が要る。

馬には飼葉が要る。

飼葉には畑が要る。

畑には鉄が要る。

距離は、いつも誰かの労働で埋められている。

その労働が、雨と泥で止まる。

止まった瞬間、金融も止まる。


――ソルベンシーの問題じゃない。


――リクイディティだ。


支払う力はある。

だが、支払う形で“今ここに”存在しない。

帳簿は黒い。

木箱は軽い。

差は、時間だ。

群衆の中で、誰かが小さく呟いた。

「……もし、今日払えなかったら」

その声は、まだ怒号ではない。

だが、このまま続けば、絶望に変わる。

クレドは、その一歩手前を測った。

市場は、壊れる前にしか説得できない。

クレドは、一歩前に出た。

板の向こうの熱気が、頬に触れた。

そして、口を開いた。





時間の値段

クレドが一歩前に出た瞬間、窓口の前に溜まっていた空気がわずかに歪んだ。怒号でも期待でもない。ただ、群衆の内側で膨らみ続けていた焦燥が、形を変えた沈黙へと圧縮される。湿った革と汗、泥の匂いが混じった空気の中で、男たちの視線が一斉に彼に集まった。その視線は感情ではなく、判断を求めていた。今この場で、何を選べば生き残れるのかという、切迫した問いだった。

クレドは板張りのカウンターに指先を置いた。冷えた木の感触が、これから吐き出す言葉に重さを与える。銀がないわけではない。ただ、届いていないだけだ。そう告げると、誰かが鼻で笑った。だが彼は、その反応を遮らない。今日、払えない。その事実を隠さずに出すことで、場に残されていた幻想を先に壊したのだ。ここから先は、希望ではなく計算の時間になる。


「待ってもらいます」

その言葉が落ちた瞬間、商人たちの思考が一斉に回り始めた。怒りは止まり、代わりに頭の中で帳簿が開かれる。今日、ここで騒げば何が起きるか。銀は出ない。噂だけが立つ。噂は昼までに広がり、明日には取引が止まる。止まれば、鉄が来ない。革が切れない。人夫が動かない。連鎖の先にあるのは、自分の首だ。

クレドは懐から小さな布袋を取り出し、口を開いて中身を見せた。小粒の銅貨が、布の底で乾いた音を立てる。その音は大きくないが、室内の男たちにははっきりと聞こえた。銅貨は軽い。だが、軽さは数で補える。そして何より、確実にここにある。今ここにある金属は、未来の約束よりも強い説得力を持つ。

「迷惑料です。今日の支払いを、明日の朝まで待ってもらう礼として払う」

銀一枚につき、小粒銅貨二枚。

数字が示されると、空気がさらに変わった。怒りは完全に消え、代わりに計算が始まる。二枚。安いか、高いか。農具商は、今日畑を回って頭を下げる手間と、その間に失う信用を思い浮かべる。革職人は、革一束の粗利と照らし合わせ、確実に手に入る銅貨の重みを指先で想像する。塩問屋は港の時間を数え、夜明けまで待てば人夫が戻る可能性を、冷静に秤にかける。

誰もが、同じ結論に辿り着くわけではない。だが全員が、同じ計算を始めていた。怒鳴るか、待つか。ゼロか、上積みか。信用で腹は膨れない。しかし銀が増えるなら話は別だ。その単純な式が、頭の中で何度も反芻される。

やがて一人が問いかけた。本当に来るのか、と。その問いは怒りではなく、確認だった。クレドは即座に答える。夜明け前だ。来なければ、自分が決済を引き受ける。証文を書く。日付、金額、迷惑料。すべてを紙に残す。その瞬間、紙切れは単なる記録ではなく、重みを持った担保に変わった。噂より遅く、だが剣よりはるかに強い重みだ。

証文という紙は軽い。だが、それを破れば、この街では生きられない。商人たちはそれを知っている。だからこそ、その一枚が、銀袋よりも重く感じられた。クレドは逃げ道を断ち、自分の名を担保に差し出している。その事実が、場の計算をさらに現実的なものに変える。

最初に列から下がったのは港の男だった。人夫をなだめる方が、暴れさせるより安い。その計算が、彼の背中を押した。次に農具商が息を吐き、畑は逃げないと呟いて後ろへ下がる。革職人は最後まで迷ったが、銅貨二枚分の重さを頭の中で何度も持ち上げ、ついに首を縦に振った。

怒号は消えた。残ったのは、計算の沈黙だった。男たちは互いを見ず、それぞれの帳簿を頭の中で閉じていく。レルムは板一枚の向こうで、肩にかかっていた重圧がわずかに抜けるのを感じた。クレドは深く息を吐き、これが勝利ではなく、ただの延命に過ぎないことを理解していた。

それでも、この場で一つの事実が生まれた。時間に、値段が付いたのだ。

鐘が鳴り、日没まであと半日を告げる。銀はまだ届いていない。しかし市場は、かろうじて崩れずに踏みとどまっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ