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異世界金融再建録 ― 税と貨幣と黙認の王国 ―  作者: しずか


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プロローグ

第1話「史上最高値の静けさ」

二〇〇七年十月十一日、木曜日。午前九時十三分。

東京・大手町。皇居の外濠にほど近い高層ビルの三十階に位置する機関投資家のトレーディングフロアは、本来祝祭に包まれて然るべき朝にもかかわらず、鉛を溶かしたような重苦しい沈黙に支配されていた。空調設備が吐き出す乾いた冷気は、規則正しい低音を立てながら天井の蛍光灯をかすめ、行き場を失ったまま床面へと沈降していく。その無機質な循環音の下で、三十台近いBloomberg端末の液晶だけが、生物の心電図のような淡い明滅を繰り返していた。

前夜のニューヨーク市場は、歴史の一頁を塗り替えている。ダウ工業株三十種平均、一万四千百六十四ドル。数字そのものは狂騒を孕み、金融専門チャンネルのキャスターは抑制の効かない昂揚を露わにしていた。だが、このフロアにその熱は伝播しない。ここに漂うのは、凍りついた安堵と、勝利を確信できない者だけが共有する鈍重な緊張感だった。相場に勝っているはずの人間たちの顔には、祝杯の代わりに倦怠にも似た影が落ちている。

鷹司恒一は、自席の前で腕を組み、正面の液晶画面を凝視していた。四十二歳。ファンドマネージャーとしては脂の乗り切った年齢だが、その神経には、バブル崩壊の瓦解音も、ITバブルが崩れ落ちた瞬間の冷気も、いまだ生々しく刻み込まれている。彼の視線は、跳ね上がる株価指数の表層ではなく、その裏側――市場という巨大な構造物の基礎部分に走る歪みに注がれていた。

株式市場は祝祭を演じている。S&P500は高値圏を維持し、新興国株式ファンドには世界中から資金が雪崩れ込んでいる。証券会社のレポートは、楽観的な修辞と強気の数値で埋め尽くされていた。しかし、鷹司が呼び出したのは、そうした光の当たる指標ではない。彼の指先が叩いたコマンドが画面に呼び寄せたのは、クレジット市場――金融システムの地下水脈だった。

企業の信用リスクを束ねたCDX指数。ここ三週間で、百十二ベーシスポイントから百三十九へと、音もなく水準を切り上げている。これは警鐘ではない。だが、確実に進行する異変だった。株式市場が祝祭の仮面を被る一方で、債券市場だけが、腐敗の兆しを嗅ぎ取っている。

ハイイールド債のスプレッドも、同じ方向を指していた。いわゆるジャンク債と国債との利回り差。本来なら、株式市場がこれほど高揚している局面では縮小して然るべきそれが、逆に四百五十ベーシスポイントを超え、じわじわと拡大を続けている。数字が突きつける事実は単純だ。信用は、すでに後退を始めている。


「市場が……分裂している」


鷹司の低い独白は、空調の低音に溶けて消えた。株式と債券。二つの市場が、まるで異なる現実を見ているかのようだ。彼の経験則では、この乖離が示す結論は一つしかない。どちらかが嘘をついている。そして、嘘をつくのは常に楽観の側だ。

背後で、スーツの衣擦れが控えめに鳴った。若手トレーダーの佐伯拓郎が立っている。二十八歳。優秀で、数字の上昇をまだ無垢に信じられる世代だ。


「ニューヨーク、すごいですね。最高値更新です」

佐伯の声には、まだ市場への信頼が残っていた。鷹司は応えず、為替の画面を示す。

「ユーロ円を見ろ」


百六十二円五十銭。異様なほど、動かない。そこには、見えない壁が存在していた。低金利の円を借り、高金利通貨に投じる円キャリー。その巨額の残骸が、いまも市場に張り付いている。安定しているのではない。動かせないのだ。

フロアの奥から、白髪交じりの男が歩み寄ってきた。ベテラントレーダーの三宅誠二だ。バブルの狂乱も、その後の荒廃も、すべてを見てきた男の顔には、疲労と警戒が刻み込まれている。


「実需が、消えてる」

それだけで十分だった。輸出入に伴う為替取引も、長期の資本移動も見えない。市場を動かしているのは、崩壊を恐れて現状維持にしがみつく投機筋だけだ。

鷹司はトップニュース画面を呼び出した。ブルームバーグが配信する世界のヘッドラインが、白い背景に整然と並ぶ。


『米株、史上最高値更新』 『FRB議長、インフレリスクに言及』 『次回FOMC、追加利下げ観測浮上』

どこにも警告色はない。システムそのものが、正常性バイアスに覆われている。誰もが、崩壊を予見しようとしない。

鷹司は再びクレジット指標の画面に戻った。CDX指数の推移を示す曲線は、緩やかだが確実に右肩上がりを描いている。それは祝祭の床下で進行する、静かな断層だった。


「いつだ……」

答えは、まだどこにもない。ただ一つ確かなのは、この静寂が永遠ではないということだけだった。

史上最高値の静けさ。それは、決壊寸前の巨大なダムの上に漂う、不気味な無風状態に他ならなかった。




「張り付いた相場」

二〇〇七年十月十一日、木曜日。午後一時二十七分。

大手町のトレーディングフロアに、昼の時間帯特有の弛緩は訪れなかった。昼食を終えた若手たちが戻り、端末の前に座り直す。だが、キーボードを叩く指先には、午前中とは異なる躊躇が滲んでいた。市場は動いているはずなのに、誰も「触れている」感覚を持てずにいる。

鷹司恒一は席に座ったまま、ジャケットの袖口を整え、静かに画面を切り替えた。午前中から注視していたクレジット市場の指標は、昼をまたいでも変わらない。CDX指数は百三十八ベーシスポイント台。下がらない。株式市場が高値圏で推移するなか、この粘着質な重さは異様だった。

彼は意図的に、株価指数の画面を閉じた。見なくてもわかる。日経平均は堅調。ニュースフローも午前と同じだ。代わりに表示したのは、米国債利回り曲線。二年債、五年債、十年債。短期金利が高く、長期が低い。完全な逆イールドではないが、形は明らかに歪んでいる。


「景気後退の予兆だ」

誰に聞かせるでもなく、鷹司は呟いた。逆イールドは、過去半世紀において例外なく、景気後退の前触れだった。だが、その事実は常に「後講釈」として語られる。起きる前に信じる者はいない。

フロアの奥で、電話のベルが短く鳴った。三宅誠二だった。受話器を置いた三宅は、鷹司の方へ歩いてくる。


「ニューヨークからだ」三宅は低い声で言った。「サブプライム関連、また一社飛んだ」

「表には出ていませんね」

「出ないようにしてる」


三宅は肩をすくめた。

「評価損はオフバランス。延命処置だ。だが、血は止まってない」


サブプライム——信用力の低い個人向け住宅ローン。数年前まで、ウォール街が「金融工学の勝利」と称賛した商品だ。そのリスクは証券化され、世界中にばら撒かれた。誰が、どれだけ抱えているのか。もはや誰にも把握できない。

鷹司は、住宅ローン関連のABX指数を呼び出した。数字は低位で張り付いたまま、回復の兆しを見せない。市場は、すでに壊れ始めている。だが、それを認めるには、あまりに多くのものがこの幻想に依存していた。


「誰も引き金を引きたがらない」

三宅の言葉に、鷹司は頷いた。売り始めた瞬間、すべてが崩れる。だから、誰も最初の裏切り者になろうとしない。結果、市場は不自然な均衡の中で硬直する。

その時、佐伯拓郎が小走りで近づいてきた。


「鷹司さん、ユーロ円が……」

鷹司はすでに画面を見ていた。百六十二円五十銭。午前から、ほとんど動いていない。出来高も薄い。流動性が蒸発している。


「介入じゃない」

鷹司は言った。

「誰かが必死に押さえてる。壊れるのを恐れてな」


「でも、何も起きていません」

佐伯は戸惑ったように言う。


「起きていないんじゃない」

鷹司は静かに訂正した。

「起こせないんだ」


午後二時を回り、東京市場の終盤が近づく。通常なら、ポジション調整の売買が活発になる時間帯だ。しかし、板は薄く、値は動かない。市場参加者全員が、互いの出方を窺っている。

鷹司は、ファンドのポジション一覧を開いた。株式、債券、為替。数字の上では、問題はない。だが、それは「流動性がある」という前提に立った評価だ。もし市場が凍りつけば、これらの数字は一瞬で意味を失う。


「流動性は幻だ」


彼はそう考えていた。存在するのは、信認だけだ。その信認が揺らいだ瞬間、市場は暴力的な本性を現す。

三宅が時計を見た。


「ロンドンが開くな」

「ええ」

ロンドン。為替と金利の心臓部だ。ここで何かが起きれば、東京の静けさは簡単に打ち破られる。

だが、その日、何も起きなかった。

ロンドン勢は慎重だった。ニューヨークの高値と、クレジット市場の異変。その両方を見ながら、誰もがポジションを動かさなかった。危機は、再び先送りされた。

東京市場の引け。日経平均は小幅高。ニュースは「堅調」を報じるだろう。だが、鷹司の胸中に、達成感はなかった。

彼は端末を閉じ、椅子にもたれた。


「今日も、何も起きなかったな」

三宅が言う。


「ええ」

鷹司は答えた。

「だからこそ、危ない」


市場は、壊れる直前がいちばん静かだ。そのことを、彼は何度も経験してきた。

フロアの蛍光灯が、ゆっくりと消灯準備に入る。数字は今日も、史上最高値圏にある。だが、その足元では、見えない亀裂が確実に広がっていた。

この静けさは、永遠には続かない。

鷹司はそう確信しながら、誰もいなくなりつつあるフロアを後にした。



二〇〇七年十月十二日、金曜日。午前九時二十分。

トレーディングフロアの照明は、まだ夜の名残を引きずっていた。窓の外は白く、空と雲の境目が曖昧だ。鷹司恒一は自席ではなく、フロア奥の会議スペースにいた。長机の中央に、黒いスピーカーフォンが置かれている。

NY本社との定例カンファレンス。この時間帯に設定されるのは、久しぶりだった。

壁際のモニターには、共有資料が映し出されている。米国の主要経済指標。雇用統計、消費者物価指数、ISM製造業景況指数。どれも、致命傷と呼べる数字ではない。悪化はしているが、説明可能な範囲に収まっている。


「では、始めよう」

スピーカーから、抑制された英語が流れた。NY本社のマクロ統括責任者の声だ。感情は読み取れない。ただ、無駄な言葉が削ぎ落とされている。

鷹司は資料に視線を落としたまま、耳だけを会議に向けていた。


「雇用から入る。非農業部門雇用者数は市場予想を下回ったが、失業率は横ばいだ」

ページをめくる音が、会議室に重なった。

「インフレは依然として抑制的だ。コアCPIは想定内。FRBが即座に追加措置を取る状況ではない」

それは正しい。少なくとも、過去のデータに基づけば。


「住宅関連はどう見ている?」

東京側の誰かが、慎重に問いを投げた。

一拍置いて、NYが答える。


「新規着工、許可件数ともに弱い。ただし、下げ幅は縮小している。底打ちの兆候と見る向きもある」

鷹司は、ペンを指先で転がした。資料のグラフは、確かに下げ止まりを示している。だが、その線は細く、脆い。


「クレジットは?」

今度は鷹司が口を開いた。

一瞬、回線の向こうが静かになった。


「CDXは拡大している。ただ、現時点では流動性は保たれている」

保たれている。現在進行形の表現だった。


「ABXは回復していない」鷹司は続けた。

「住宅ローン関連のスプレッドは、価格形成そのものが怪しい」

沈黙が落ちた。


「それは認識している」

NYの声は、わずかに硬くなった。


「だが、ポジションを一気に落とす根拠にはならない」

誰も反論しなかった。反論できる材料が、なかった。

資料は次々と切り替わる。GDP成長率、企業収益、在庫循環。どれも、決定打に欠ける。


「為替について」

東京の別の席から声が上がる。


「円キャリーの残高は依然大きい。ボラティリティは低位だが、出来高が薄い」

「介入の兆候はない」NYが即答した。

「だが、均衡は脆い」

その言葉だけが、妙に残った。

会議は三十分以上続いた。数字は並び、解釈が添えられ、可能性が列挙される。しかし、結論だけが出ない。


「総じて、現時点ではスタンス維持だ」

最終的に、NYがそうまとめた。


「過度なリスクオフは不要。ただし、流動性の変化には注意する」

注意する。行動ではなく、姿勢の話だった。

スピーカーフォンが切れ、会議室に静寂が戻る。誰もすぐには立ち上がらなかった。

鷹司は、モニターの隅に表示された為替レートに目を向けた。

ユーロ円。

百六十円台前半。

会議のあいだに、静かに水準を切り下げている。誰も触れていないのに、価格だけが動いている。


「決めなかったな」

背後で、三宅誠二が呟いた。


「決められなかったんです」鷹司は答えた。

数字は、まだ壊れていない。だが、判断の前提が、すでに揺らいでいる。

フロアに戻ると、電話の着信ランプがいくつも点灯していた。誰かが、遅れて異変に気づき始めている。

鷹司は自席に戻り、端末を開いた。

ユーロ円は、さらに下にいた。

誰も決断していない。だが、市場だけが先に答えを出し始めている。

史上最高値の時代は、終わっていない。

ただ――判断できなくなっただけだ。

その遅れが、これから何を連れてくるのか。まだ、誰も正確な言葉を持っていなかった。


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