旅立ち
意識が浮上する感覚とともに、少女の瞼がゆっくりと開いた。最初に目に入ったのは、見慣れない木の天井だった。体は柔らかい布の上に横たわっており、全身がじんわりと温かい。
(わたしは……)
起き上がろうとすると、頭の奥でズキン、と鈍い痛みが走った。しかし、それ以上に、体の内側から湧き上がってくるような、不思議な力が満ちているのを感じた。
「目が覚めたか、お嬢さん」
優しい声が聞こえ、視線を向けると、先ほどの老獣人がそばに座っていた。心配そうな表情で、こちらを見つめている。
「ここは……」
少女の声は、まだ少し掠れていた。
「村長の家だ。お嬢さんは、あの神像に触れた後、気を失ってしまったんだ。だが、見てみろ」
老獣人は、少女の右手をそっと持ち上げた。少女が掌を見ると、手の甲に、ごく薄い輝きを放つ紋様が浮かび上がっていた。それは、まるで透明なインクで描かれたかのように繊細で、しかし確かにそこに存在していた。
「これは……?」
「原初のタイタン『アル』の祝福だろう。これまで、神像に触れても何も起こらなかった者ばかりだった。だが、お嬢さんには、何か特別な力が宿ったようだ」
特別な力。少女は、森でリスに触れた時のことを思い出した。あの時も、自分の指先から光が放たれ、リスの記憶が流れ込んできた。あれも、この祝福と関係があるのだろうか。
「何か、感じることはあるかね?」
老獣人の問いに、少女は目を閉じて意識を集中した。すると、体の奥底から、微かな「声」のようなものが聞こえてくる気がした。それは言葉にはならない、しかし確かに何かを訴えかける、漠然とした情報の波だった。
以前は、触れたものの「過去」の映像が流れ込んできただけだった。しかし今、この声は、その「存在」そのものに宿る、もっと深い情報を感知しているようだった。
「……何か、世界が、違って見えます」
少女は、率直に答えた。目の前の老獣人から、古くからの知恵や、村への深い愛情のようなものが、言葉ではなく感覚として伝わってくる。壁に飾られた古い装飾品からは、それを作った者の手の温もりや、込めた願いが感じられた。まるで、すべてのものが語りかけてくるかのようだった。
「それは、お嬢さんの力が覚醒し始めた証拠だろう。原初のタイタン『アル』は、この世界のあらゆるものの源であり、その力を授かったお嬢さんは、この世界の真の姿を識る者となるのだ」
老獣人は、厳かな口調で言った。少女は、自分がただの記憶喪失の少女ではないことを、改めて認識させられた。自分は、何か大きな役割を担う存在なのかもしれない。
「私は……何をすればいいのでしょう?」
少女の問いに、老獣人は静かに首を振った。
「それは、お嬢さん自身が見つけなければならない。だが、記憶の封印が解けぬ限り、真の力は発揮されないだろう。記憶は、お嬢さん自身の成長と、この世界を巡る旅の中で、少しずつ取り戻されていくはずだ」
老獣人は、窓の外の深い森を指差した。
「この世界は、今、危うい均衡の上にある。古き神々が姿を消し、調和が乱れつつある。お嬢さんが『世界の歌い手』として目覚めることができれば、この世界の未来を救うことができるかもしれない」
「世界の歌い手」……。その言葉が、少女の心に強く響いた。まだ何も分からない自分だが、この力は、きっと何か意味がある。そして、失われた記憶の中には、その「意味」を知るための手がかりが隠されているに違いない。
「私、旅に出ます」
少女は決意を込めて言った。老獣人は、少女のまっすぐな瞳を見つめ、静かに頷いた。
「この村は、お嬢さんの帰る場所だ。だが、今は行くべき時なのだろう。しかし、旅は危険に満ちている。道中、お嬢さんを助けてくれる者もいるだろう。しかし、力を悪用しようとする者もいる。自分の力と、心の声に従うのだ」
少女は、老獣人に深々と頭を下げた。彼らの優しさと、期待が、少女の背中を押した。
翌朝、少女は村人たちに見送られ、再び森の中へと足を踏み入れた。体の中に満ちる新たな力。手の甲に浮かぶ紋様。そして、失われた記憶への渇望。それらすべてが、少女を未知なる旅へと駆り立てる原動力となっていた。
獣人族の村を後にし、少女は世界へと踏み出す。旅の先には、どんな出会いが、どんな真実が待ち受けているのだろうか。