プロローグ
どこまでも続く深い緑が、銀髪の少女の視界を覆っていた。
瞼を開いた瞬間、鼻腔をくすぐる土と葉の匂い。そして、肌に感じるひんやりとした朝露の感触。どれもこれも、少女にとっては初めてのもので、なのにどこか懐かしさを覚えるような不思議な感覚だった。
体を起こすと、地面に広がる苔の絨毯が目に入った。その中心で、少女は横たわっていたらしい。緩やかにうねる木々の幹は天高く伸び、葉擦れの音が遠くでさざめいている。鳥のさえずりが聞こえる。すべてが美しい光景なのに、少女の心はなぜか不安にざわめいた。
(わたしは……?)
自分の名前さえも、思い出せなかった。それが、今いるこの森で唯一確かな情報だった。それ以外のことは、何も思い出せない。自分がどこから来たのか、なぜここにいるのか、そもそも、自分が何者なのかも。
銀色の髪が、さらりと肩に落ちた。指でそっと触れると、絹のような滑らかな感触がした。生まれて初めて見るような、不思議なほどに美しい髪の色だった。
声に出してみる。自分の声なのに、どこか他人事のように聞こえた。喉が渇いていることに気づき、少女はゆっくりと立ち上がった。全身が軋むような感覚はない。むしろ、体が驚くほど軽いことに驚いた。
森の奥から、微かに水の音が聞こえる。少女は迷わずその音のする方へと歩き出した。一歩踏み出すたびに、足元の小枝がパキリと音を立てる。その一つ一つの音が、自身の存在を確かめるかのように響いた。
どれくらい歩いただろうか。やがて、小さな清流が視界に現れた。澄んだ水が、岩を滑らかに流れ落ちていく。少女はしゃがみ込み、冷たい水を両手ですくって口元に運んだ。渇きが癒されると同時に、顔を上げて水面に映る自分を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、少しばかりやつれた顔色をした、見慣れない少女の姿だった。大きな瞳は、戸惑いと不安を宿している。そして、その瞳の色は、まるで夜空の星を閉じ込めたかのような、深く澄んだ青色をしていた。
(本当に、わたしは誰なんだろう?)
水面に揺れる自分の顔を見つめながら、少女は心の中で問いかけた。その時、視界の隅で何かが動いた気がした。ハッとして顔を上げると、清流の向こう岸、茂みの陰に何かの気配を感じた。
「誰か、いるの……?」
少女の声は、風にかき消されそうなくらい小さかった。だが、その声に応えるように、茂みから一匹の小さなリスが顔を出した。そのつぶらな瞳が、少女をじっと見つめている。警戒する様子もなく、むしろ興味津々といった様子だ。
少女は思わず、ゆっくりと手を差し出した。リスは一瞬ためらったように見えたが、次の瞬間にはちょこちょこと近寄ってきて、少女の指先にちょんと鼻を触れた。その小さな感触が、少女の心に温かいものを灯した。
(もしかしたら、この子も何か知っているのかもしれない)
そんな漠然とした思いが頭をよぎった瞬間、少女の指先から不思議な光が放たれた。光はリスを包み込み、そしてすぐに消え去る。次の瞬間、少女の脳裏に、断片的な映像が駆け巡った。
森の中を駆け回るリスの姿。木の実を夢中で頬張る姿。そして、遠くで聞こえる、誰かの笑い声……。
ハッとして手を引っ込める。リスはきょとんとした顔で少女を見上げている。今、何が起こった? まるで、リスの見てきたものを自分が見たような……。
戸惑いながらも、少女は再びリスに触れてみた。再び、小さな光が放たれ、今度は先ほどよりも鮮明な映像が脳裏をよぎる。そこに映し出されたのは、リスが巣に帰っていく道筋。そして、その道の先にある、いくつもの家屋が立ち並ぶ小さな村の風景だった。
(村……!)
少女の目に、希望の光が宿った。もしかしたら、あそこに自分のことを知っている人がいるかもしれない。あるいは、この場所について教えてくれる人がいるかもしれない。
リスが導くように、少女は森の奥へと足を踏み入れた。失われた記憶の手がかりを求めて、彼女の未知なる旅が今、始まる。