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9.沈むビー玉

 ソサイエティの六人が連れ立って焼肉屋に向かうことになった。何人かは、この後に予定があるとかで、口惜しそうに唇を噛みながら辞退していった。

 残されたのは、七海、戸川、馬渕東海、そして槇村を含む二人の男子学生。彼らの足取りは、夕暮れの街に溶け込み、どこか浮世離れした集団に見えた。

 目的地の焼肉屋は、どうやら七海がアルバイトの面接に落ちた、あの立ち呑み屋の近くらしい。しかし、大通りから一本路地に入った、ひっそりとした場所にその店は佇んでいた。赤く薄汚れた暖簾には、墨で力強く「焼肉・ホルモン」とだけ書かれている。その簡素な佇まいが、かえって深い歴史を物語っているようだった。

 ガタつく木戸を開け、油と炭の混じった香りが七海の鼻腔をくすぐる。ぞろぞろと店内に入ると、七海もそれに続いた。


 馬渕東海が店員に気さくに挨拶を交わすと、店奥の駆け上がりの畳のお座敷に通された。このような素朴で情緒のある店が、東京にもまだ残っているのだなぁと、七海は少し驚いた。都会の喧騒から隔絶されたような、小さな隠れ家。その空間に、七海の心は微かに安堵した。


「とりあえず瓶ビール五本くらいテキトーにお願いします。あとキャベツとチャンジャ、冷やしトマトも」


 馬渕東海は、席に着くなりメニューも見ずに淀みなく注文を始めた。その手慣れた様子に、七海はまたしても彼の意外な一面を見た気がした。


「あっ、私、ラムネハイ下さい!」


 と、戸川先輩が明るい声で注文する。七海は躊躇いながらも、小さな声で店員に告げた。


「すみません。私はジュースで、未成年なので」


 その言葉に、馬渕東海が顔を向けた。


「ああ、そうか。すまん。コーラかオレンジかウーロン、どれがいい?」


「ラムネってあるんですか? さっき戸川さんが注文してましたよね?」


 店員に尋ねると、女性店員はいとも容易く、「はい。お出しできますよ」と答えてくれた。


 全員に飲み物が行き渡り、七海と戸川先輩は並んで、シュポンと音を立ててラムネ瓶のビー玉を落とした。透明なガラス瓶の中で、ビー玉がカランと音を立てて沈む。その音と、ラムネの甘い香りが、七海の心をふわりと持ち上げた。なんだか懐かしいなぁ、と、七海は嬉しくなった。幼い頃、母に連れられて行った縁日の記憶が、淡い光のように蘇る。


「はい、じゃあ揃ったかぁ? じゃ、我らソサイエティに、乾杯!」


 馬渕東海の力強い声が響き渡る。「かんぱーい!」皆に倣って、七海も全員のジョッキとラムネ瓶をぶつけていく。カチン、カチンと軽快な音が重なり、小さな泡が弾ける。一口飲むと、冷たくて甘ったるい清涼感が喉の奥に沁み渡った。なんだか、はじめて大学生らしいことをしているなぁ、と、七海はつい嬉しくなってしまった。

 その瞬間、バイトに落ちたことや、自分を必要としない社会の冷たさも、すべてが遠い記憶のように思えた。


 ソサイエティの面々は、まるで一つの生き物のように、しかし個々の意志を持って会話を続けていた。


「カルビははずせないよなぁ。あと、ハチノスとマルチョウ頼もうか」


「来月のコンペから逆算してリスケしていけばさぁ」

 

 彼らの会話は、なんだかまとまりがあるようで、ない。いつ見てもこの集団は不思議だ。それぞれの興味や関心が、まるでモザイク画のように組み合わさり、一つの大きな絵を作り出しているようだった。


「七海ちゃん、何食べたい?」


 戸川先輩が、差し出されたメニューを七海に見せてきた。その優しい気遣いに、七海は少しだけ身を縮めた。


「私は、皆さんにお任せします」。


 しかし、戸川先輩はそれを許さない。


「遠慮しなくていいからね! なんなたって、トウミさんの慰謝料なんだから。ねっ! トウミさん!」


 戸川先輩の声に、馬渕東海はジョッキに口を付けながら、手をヒラヒラと振った。その仕草は、彼がこの場の主役であることを物語っていた。


 七海は、意を決して口を開いた。


「では、その……タン塩を」


 戸川先輩がさらに促す。


「他には?」


「いえ。ただひたすら、タンで」


 少し恥ずかしくなってしまったが、その言葉に、知らない男子たちから意外な声が上がった。


「おー。わかってるねぇ」

「一点突破も一つの流儀だよなぁ」


 と、何故か褒められてしまい、七海は戸惑いながらも、胸の奥に微かな温かさを感じた。


 取り留めのない会話が続き、七海はいつの間にか、胸に巣食っていた不安だとか、バイトに受からなかったショックが、遠くへ霞んでいくのを感じた。肉を焼く煙と、香ばしい匂いが、七海の心をゆっくりと満たしていく。ふと、七海は皆に尋ねてみた。


「皆さんは、どんなバイトをやってるんですか?」


「俺は色々。単発バイトやったり。派遣行ったり、自分の作品売ったり、YouTubeにゲスト出演したり」


 馬渕東海がそう答えると、槇村が笑いながら言った。


「トウミさんって、結局何屋なんすかぁ?!」


「さあ、ハイパーメディアクリエイター?」


「古っ。ネタが古い」


 と、戸川先輩が呆れた顔をした。


 そこから、皆がどんなアルバイトをやってきたかの話に花が咲いた。期間工、ガソリンスタンド、お花屋さん、テレアポ、ファミレス……。それぞれの経験談は、七海にはどれも眩しく、そして遠い世界の話のように聞こえた。やはり、皆は上手く社会に参加し、様々な経験を積んでいるのだなぁと、七海は感心した。自分だけが、この世界のどこにも居場所を見つけられないような、そんな孤独感が再び胸に広がりそうになった。


 七海の不安を察したように、戸川先輩が優しい声で言った。


「大丈夫よ! バイトなんていくらでもあるわよ」


 その言葉は、七海の心に微かな光を灯した。


「そういえば、このお店ってバイト募集してないんすかね?」


 と槇村が何気なく口にした。


「ここだと。賄いで焼肉食べ放題だったり?」


 と戸川先輩が冗談めかして言う。すると馬渕東海が、「ちょっと聞いてみるか?」と、本当に店員さんに尋ねていた。しかし、返ってきたのは残念な答えだった。今は人が足りていて、仮に欠員が出てもオーナーのご家族が手伝いに来てくれる態勢になっているという。


「まあ、でも。確かに、飲食店とかの学生バイトって、今競争率激しいんすよねぇ」


 と槇村が呟いた。「そうなん?」と、馬渕東海がマルチョウを頬張りながら聞き返す。


「コロナ禍で色々変わっちゃったとかで。セルフレジ導入したり、デンモク注文できるようになったり。そもそも店が潰れまくったって」


「なるほどなぁ。しかし、人手不足人手不足って騒いでるのはなんなんだ?」


「言ってるだけっすよ。足らん足らんって、忙しいフリしてる奴が多いんすよ」


 槇村が空き瓶を端っこに寄せながら、世の中の不条理を語った。


 七海は、また仄暗い心が満ちてくるのを感じた。「バイト、どうしよう……」。その問いは、答えの見えない迷宮のようだった。


 その時、店の木戸が開き、大きな背負いバッグを背負った人物が入ってきた。自転車用のスポーティなヘルメットを被っている。七海はふと、その人物に目を向けた。レジ前の椅子に座り、スマートフォンを見ている。マスクをしているので、顔はよく見えないが、男の人だ。しばらくすると、店員さんがその人にビニール袋を渡し、ヘルメットの人は「お預かりしまーす」と頭をペコペコ下げて、店を出て行った。


 その様子を見ていた槇村が、ふと口を開いた。


「そういえば、フードデリって手もありかもっすねぇ」


「フードデリ? あれって学生でもできるんですか?」


 七海は、その言葉に思わず食いついた。


「全然できます。登録制で、雇用関係じゃないんすよ。そんで、好きな時に出勤して好きな時に退勤できる」


 七海は、そんな仕事があるということはSNSやニュースで見たことはあったが、それが本当に存在するのか、そして自分にも可能なのか、半信半疑だった。しかし、その言葉は、七海の心に、これまでになかった新しい可能性の光を灯した。焼肉の煙が立ち上る中で、七海の視線は、店の外へと消えていったフードデリの配達員の背中を、いつまでも追っていた。

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