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8.透明なざらつき

 学校からの帰り道、七海はふと目にしたアルバイト募集の張り紙に心を奪われた。薄汚れたガラス戸に貼られたその紙は、最低時給をわずかに上回る時給と、学校終わりにちょうど良い就業時間帯を提示していた。

 小さな立ち呑み屋。接客の経験も、ましてや飲み屋に入ったことすらない七海にとって、それは未知の世界であり、不安が胸を締め付けた。それでも、このままではいけないという焦燥感が、彼女の指をそこに書かれた携帯電話の番号へと導いた。震える指で番号を押し、耳に当てた。

 電話に出たのは、意外にも女性の声だった。その声に、七海の張り詰めた緊張はわずかに和らいだ。しかし、相手は慌ただしく「履歴書が用意でき次第、いつでも良いので、また電話をしてきて欲しい」と告げると、一方的に通話を終えてしまった。そのぶっきらぼうな対応に、七海は宙ぶらりんの気持ちでスマホを下ろした。


 七海はコンビニに寄り、履歴書を買った。薄っぺらい紙切れの束が、意外にも高い値段で売られていることに驚いた。しかし、財布の中には、馬渕東海がくれた五枚の千円札が、まるで護符のように収まっていて、そのおかげで七海の心には、ささやかな余裕が生まれていた。


 面接は、まさかの立ち呑み屋の狭いバックヤードで、立ったまま、ぞんざいに行われた。油と埃の混じった匂いが充満する薄暗い空間。金色に染めた髪を後ろで無造作に結んだ、おそらく四十代くらいの女性がオーナーらしかった。彼女は七海の顔を一度も見ることなく、履歴書に視線を落としたまま、簡単な質問を淡々と投げかけてきた。七海もまた、用意してきた言葉を機械的に答えるしかなかった。面接はあっという間に終わり、七海は自分がまるで透明な存在であるかのように感じた。


 そして、その翌日。校舎の外、土砂降りの雨の中で、一本の電話を受けた。「今回は御縁が無かったということで」。簡潔な連絡は、七海の心に泥のような重さとなってのしかかった。雨粒がアスファルトを叩きつける音が、七海の胸の奥で響く絶望と重なった。戸川先輩や馬渕東海との出会いで、何かが変わり始めた気がしていた。しかし、結局のところ、何も変わってなどいなかったのだ。雨に濡れる地面のように、七海の心は重く、そして冷たかった。


 翌週からも、七海はいくつかの求人サイトで見つけた夕方からの学生アルバイトに応募してみた。しかし、面接までこぎつけたのは二つだけ。そして、その二つからも、まるで申し合わせたかのように「御縁が無かった」という連絡が届いた。七海は、なんだか、自分自身がこの世界のすべてと縁を結べない、取るに足らない存在なのではないか、と惨めな気持ちになった。

 胸の奥に、黒い塊がじわりと広がっていく。


 何も考えないように、七海は校舎の廊下を歩いた。考えてしまえば、また自分の心が荒み、ガラガラと音を立てて崩れてしまいそうな気がしたからだ。足は自然と、あの資材置き場、ソサイエティの溜まり場へと向かっていた。


 そこは、いつもの雑然とした雰囲気に満ちていた。薄暗い空間に、様々な音が混じり合う。一心不乱に木製パネルに水彩を塗りたくっている者がいれば、煙草を咥えながらパソコンのキーを叩く者もいる。ソファに横になって映画を観ている馬渕東海。奥のデスクでは、槇村と呼ばれた男子学生が、スピーカーから謎のノイズを発生させていた。戸川先輩は、ミクスドメディア・アートの学術誌に目を落としていた。

 誰も七海のことを気にしない。その無関心さが、なんだか、七海には心地よく感じられた。この場所に正式に受け入れられたというわけでもないが、ここにいてもいいし、いなくても良い。そんな曖昧な空間が、今の七海にはちょうどよかった。


 馬渕東海の隣に置かれたパイプ椅子に腰掛け、モニターに映し出された映画を観た。古い外国の映画のようで、砂嵐が吹き荒れる荒野で、登場人物の二人が煙草に火を付けようとしている場面だった。風の音が、モニターから漏れ聞こえる。


「なんていう、映画なんですか?」


 七海は、小さな声で馬渕東海に尋ねた。


「ん? 『スケアクロウ』。アル・パチーノと、ジーン・ハックマン主演」


「映画、お好きなんですね?」


「どうかなぁ。別に……、ただぼーっとするのにちょうど良いんだよ。……この映画も三回目だし」


 馬渕東海は、どうやら映画の内容やストーリーにはあまり関心がないようだった。その言葉に、七海は少しだけ安堵した。それなら、少しくらい、また悩み相談をこの場でしてみても良いかもしれない。そう思った。


「バイト、落ちちゃいました」


 七海は、ぽつりと呟いた。その言葉は、資材置き場の雑多な音の中に、かき消されそうになるほど小さかった。


「まあ。そういうこともあるだろうなぁ」


 馬渕東海は、相変わらずモニターに視線を向けたまま、淡々と答えた。その声には、同情もなければ、突き放すような冷たさもなかった。ただ、事実を述べるような響きがあった。


「世の中、人不足とかって聞きますけど。それでも私なんか、誰も必要としてないんだなぁ。なんて……」


 七海の言葉には、自己憐憫と絶望が滲んでいた。


「風俗でもやるか? 稼げるぞ」


 唐突に、馬渕東海がそんなことを言った。七海は、自分の顔が、耳まで真っ赤になるのを自覚した。その言葉は、七海の心の奥底に、凍りつくような衝撃を与えた。


「トウミさん! セクハラ! コンプラ違反! 謝罪会見!」


 戸川先輩が、学術誌から顔を上げて叫んだ。どうやら聞こえていたようだ。


「うるせーなぁ。事実を言ったまでだろ」


 馬渕東海は、不機嫌そうに答えた。そうか。そういう仕事もあるのか。七海は、一瞬、その言葉の意味を深く考えてしまった。しかし、それは、とてもではないが、自分にはできることではないと、すぐに頭を振った。


「慰謝料を請求します! 七海ちゃんに焼肉を奢ること! それで勘弁してやるわ!」


 戸川先輩の言葉に、資材置き場の空気が一変した。


「うぇーい! 焼肉だぁ!」

「トウミさんの奢りだってよー!」

「山水行こうぜ、山水!」


 ソサイエティの全員が、一斉に騒ぎ出した。それまでそれぞれの作業に没頭していた彼らが、まるでスイッチが入ったかのように、馬渕東海を取り囲んだ。


「うっせーなぁ! 俺だって給料日前なんだよ!」


「この前、特大パネルの作品売れたんでしょ?」


 戸川先輩が、さらに追い打ちをかける。


「ちっ。わかったよ! もう。……山水は無理! 安いとこ行くぞ!」


 馬渕東海の諦めにも似た声に、歓声が上がる。


「よっしゃ! はいー。槇村君、容疑者確保!」


「ワッパ持ってこいワッパ! はい、十八時二十分。逮捕! 容疑者連行しやーっす!」


 槇村と呼ばれた男子学生が、馬渕東海に飛びかかり、他のメンバーもそれに続く。


「まてコラっ!」


 馬渕東海の叫び声が、資材置き場に響き渡る。

 七海は、その騒がしい光景を眺めていた。なんだか、騒がしい人達だなぁ。そう思った。だけど、なんだか嫌ではない。むしろ、その騒がしさの中に、温かい光のようなものを感じた。彼らの無遠慮な優しさが、七海の凍てついた心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。

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