7.色彩の価値
七海は「資材置き場」と記された部屋の奥で、馬渕東海と対面していた。そこは、ソサイエティの溜まり場としてDIYでリフォームされた空間で、聞けば馬渕東海はここに住んでいるという。その事実を聞いた七海は、奇妙な人物だと感じた。
剥き出しのコンパネの壁、雑然と積まれた木材の匂い、そして、どこか場末の酒場のような薄暗さが、七海の心に微かな不安を募らせる。
そんな「変人」との対面ではあったが、隣には戸川先輩が座っている。同性の先輩がいてくれるというだけで、七海は過度に身構えずに済んだ。戸川先輩の存在が、張り詰めた七海の心の糸を、わずかに緩めてくれる。
「で、また恋愛相談?」
馬渕東海は、手元のスマートフォンに視線を落としたまま、気だるげに呟いた。その声には、微塵の興味も感じられない。「今回はちょーっと違うかも」と、戸川先輩が七海の代わりに答えてくれた。
「ふーん、じゃあなんだ?」
相変わらず興味なさそうに問い返す馬渕東海に、七海は、なんだか嫌な人だなぁ、と、初対面の印象を早くも下方修正した。彼の纏う空気は、七海の警戒心を刺激する。
「ほら、七海さん」
戸川先輩が肘で七海の脇腹を小突いた。その小さな衝撃が、七海の思考を現実へと引き戻す。
「あ、あの。この度はお忙しい中、お時間をいただいてしまって、すみません。私、石動七海です」
用意しておいた文言を、まるで舞台の台詞のように紡ぎ出す。声はわずかに震えていたが、なんとか最後まで言い切った。
すると、馬渕東海は七海をちらりと一瞥し、手にしていたスマートフォンをコトリとテーブルに置いた。
その音は、資材置き場の静寂に、妙に響いた。
「はじめまして、石動七海さん。馬渕東海です。……どうせ戸川に話を聞いてもらえとか唆されたんだと思う
けど。まあ、話ならいくらでも聞きますよ」
その誠実そうな対応を目にした七海は、馬渕東海に対する評価を再び、わずかに上方修正した。
彼女よりも十歳以上年上だと聞いていたが、確かに大人の落ち着きのようなものを身につけている人物だと思った。少なくとも、七海の同世代の、騒がしくて次の瞬間何をしでかすか予想がつかないような男子たちよりも、ずっと心穏やかに話せそうだった。
七海は、ぽつりぽつりと自身の悩みを話し始めた。部屋に漂うインクの匂いと埃っぽさ、毛羽立ったソファの手触りが、なんだか現実離れしていて、七海は自らの本心を、まるで誰かの書いた脚本を眺めるかのような、奇妙な客観性をもって話すことができた。
しかし、それでも言葉は取り留めなく、前後関係は曖昧で、時折言葉に詰まった。
先日の出来事なども、可能な限り言語化してみたが、感情の奔流は言葉の器から溢れ出しそうになる。馬渕東海は、七海の言葉にずっと真剣に向き合い、「うん」とか「なるほど」と、相槌を打ってくれた。
その相槌は、七海の言葉を、まるで受け止めてくれるかのように響いた。
途中、一人の男子生徒が資材置き場に入ってきて、七海は少し身構えてしまった。しかし、彼は七海を一瞥しただけで、部屋の片隅に置かれたパイプ椅子に腰掛け、ノートパソコンを打ち始めた。その無関心さが、七海にはかえって心地よかった。
七海は、ふと、いつの間にか握りしめていた悩み相談のメモを見た。もう、汗で湿ってぐちゃぐちゃだ。私は、私の悩みをちゃんと伝えられただろうか? 不安が胸をよぎる。
馬渕東海は、しばらく天井を仰ぎ見ていた。剥き出しの配線や、埃を被った蛍光灯の光が、彼の顔をぼんやりと照らす。そして、「なるほどなー」と、吐き出すように呟いた後、静かに語り始めた。
「金がないってのも、将来が恐ろしくて恐ろしくて仕方がないってのも、どこにいてもなんだか自分が浮いてんなーって居心地悪さも。俺、すっごいよくわかる」
七海にとって、それはあまりにも意外な言葉だった。まさか、こんな自立できていそうな、学校の敷地内に寝泊まりするような非常識さはあるものの、一応有名インフルエンサーである彼が、こんなにもちっぽけで何者でもない人間に、心から共感してくれるなんて。七海は、どうしたらよいのかわからず、思わず「……ありがとうございます」と、小さく呟いた。
「なんか……、暇な時とかは、ここに来なよ。まあ、変な奴らしかいないし。無駄に仲良くする必要もないし。好きに作品作ったり、映画観たり、腹が減ったら先輩がたにメシをたかればいいからさ」
「メシをたかる?」
七海は、その言葉の意味を測りかねた。
「金ないから奢ってくれ。って言えばいいんだよ。そこにいる槇村にでもいいぞ」
そう言うと、パイプ椅子に座っていた槇村と呼ばれた男子が、
「げえっ! ちょ、ちょっと待ってくださいよー! トウミさん!」
と飛び上がった。そのやり取りに、七海の張り詰めていた心が、少しだけ緩むのを感じた。
「さて、で……。それ、君の作品?」
馬渕東海は、七海の隣に置かれていたテクスチャーアートのキャンバスを指差した。
「はい……。まだちょっと、乾いてないかも、ですけど」
七海はそれを差し出した。すると、馬渕東海は丁寧にキャンバスの裏面を指で支えるように受け取り、それをじっくりと観察してから、「ふむ」と頷いた。そして、キャンバスを持ったまま壁の方へと歩いていく。
コンパネの壁に釘が打ち込まれた場所に、七海のテクスチャーアートを展示するように引っ掛けた。こうして見ると、意外にちゃんとした作品になっているなぁ、と七海は感じた。馬渕東海もそれをじっくりと鑑賞していた。
そして、七海にとって思いもよらぬ提案をしてきた。
「これ、ここに飾りたいから、俺が買っていい?」
馬渕東海は、椅子に引っ掛けられたジャケットから財布を引っ張り出し、中から何枚かの千円札を取り出した。そして、七海に差し出す。
「五千円でどう?」
七海は驚いた。お金をこの場でくれるというのか、しかも五千円も。いや、買い取ってくれるのか。キャンバス、画材、そして七海の労力を差し引いても、こんなに小さな思いつきで塗ったくったものに、五千円。七海は、その五千円を受け取ってよいものかどうか逡巡した。すると、戸川先輩が肘で七海の脇腹をつつく。
「貰っちゃいなさいよ!」
もしかしたら、彼はすごく良い人なのかもしれない。七海はそう思ったが、同時に、自分も案外現金な人間だったのだなぁと、自嘲が混じる乾いた笑みを浮かべた。五千円札の感触が、七海の指先に、現実の重みと、そして微かな希望を伝えてきた。