6.描線の向く先
屋上の、春を過ぎてもなお冷たい風が吹き抜ける空間で、七海は一人、無心にキャンバスに向かっていた。
空はどこまでも青く澄み渡り、遠くで鳥の鳴き声が響く。コンクリートの匂いと、微かに混じる絵の具の匂いが、七海の五感を鈍く刺激する。
キャンバスにメディウムを厚く塗りつける。アクリル絵の具のチューブを押し出し、鮮やかな色を粗く混ぜ合わせると、予測不能なマーブル模様が浮かび上がった。
ペインティングナイフを使い、ただひたすらに、意味のない模様を作り出していく。
テクスチャーアート。配色と模様、そして凹凸の質感そのものを作品として表現するこの技法が、七海の心に不思議としっくりきた。
絵は得意だ。だが、「何かを描きたいか」と問われれば、何も浮かばない。仕方なく目の前の景色や、ふとそこに存在する静物を描けば、描写力こそ巧みではあれど、どこか凡庸な作品になってしまう。
しかし、このテクスチャーアートであれば、何も考える必要がない。ただ無心に色を置き、混ぜるだけだ。
ペインティングナイフのエッジで敢えて傷をつけるかのようにメディウムを削ぎ落とし、まるで風のような、あるいは降りしきる雨のような描線を刻むこともできる。
青、白、黒。そして、それらの色が混じり合い、曖昧なグラデーションを生み出す。七海は、それがまるで自身の心を映し出す鏡のように感じた。まとまりなく、粗く、そしてどこか寂しい。
ふと、手元に置かれたメモに視線を落とす。そこには、箇条書きで記された「悩み相談」の内容が並んでいた。昨日、戸川先輩から「会ってみてほしい人がいる」と告げられたのだ。その人物の名前は、
マブチトウミ。
七海もその名前を聞いたことがあった。確か有名なアート系インフルエンサーだ。この美大に在学していることは、なんとなく知っていた。
彼は「令和の美大闘争」などという、七海には理解し難い謎の騒動で一躍有名になったらしい。
彼の動画を七海も一度観たことがあるが、討論相手を口汚く罵る様子は、とてもではないが直接会ってみたいと思えるような人物ではなかった。
しかし、戸川先輩は「悩み相談にはうってつけの人なのよ」と、有無を言わさぬ口調で勧めてきた。
七海は遠慮したが、割と強引に押し切られる形で、彼の主催する「ソサイエティ」とかいう集団の溜まり場に、この後お邪魔することになっていた。
もう一度、箇条書きされた自身の悩みを目で追う。
* お金がない。
* 将来の不安。
* 友達がいない。
しかし、三つ目の項目には、ボールペンで何度も打ち消し線が引かれていた。それは、戸川先輩との出会い、そして昨日からの短い交流が、七海の心に微かな変化をもたらした証拠だった。戸川先輩は、七海の抱える孤独を、言葉ではなく、その存在そのもので優しく包み込んでくれた。
友達、と呼ぶにはまだ距離があるかもしれない。けれど、一人ではない、という感覚が、七海の胸にじんわりと広がっていた。
見上げた空に、一羽の鳥が弧を描いて飛んでいく。どこへ向かうのだろう。鳥の軌跡は自由で、迷いがないように見えた。
七海は再びペインティングナイフを手に取り、キャンバスに新たな色を乗せた。青と白が混じり合い、僅かに希望のような淡い色彩を帯びていく。その色は、七海の心の中に芽生え始めた、微かな期待のようにも見えた。