5.光
スーパーマーケットの洗剤コーナーで、七海はしゃがみ込み、ひたすら値札を見比べていた。一番安い洗剤はどれか。その問いが、乾いた喉の奥からため息となって漏れた。「はぁ……」。昼間の嫌な記憶が、まるで汚れた水のように心の底から湧き上がってくる。
あの後、医務室のベッドで横になって過ごした時間。何もせず、ただぼんやりと天井を眺めていた。荒れ狂っていた感情も、乱れた思考も、激しい動悸も、嘘のようにぴたりと収まり、後に残されたのはぽっかりと穴の開いたような虚無感だけだった。アパートにそそくさと帰り着くと、シンクの排水溝から立ち上る異臭が妙に気になった。そのために、七海は再び家を出て、スーパーへと足を運んだのだった。
「なんか、高いんだなぁ」
思わず口から零れた独り言が、スーパーの蛍光灯の光に吸い込まれていく。カゴの中には、リンゴが三つ、牛乳のパック、そしてレトルトの麻婆豆腐。財布を覗けば、五千円札がたった一枚。
その一枚を崩してしまうことに、言いようのない躊躇があった。実家にいた頃は、洗剤の値段など気にしたこともなかった。台所の隅にいつも当然のように置かれていて、当たり前のように使っていたものだった。しかし今になって思えば、それがなくなる度に、母がその都度お金を払って買い足していたのだと、改めて気づかされた。
惣菜コーナーを巡ると、メンチカツが二つ入ったパックに「半額」のシールが貼られているのを見つけた。ふと、明日これを学校に持って行き、学食のカレーライスにトッピングしてみたらどうか、と頭に浮かんだ。その誘惑に抗えず、七海は無意識に手を伸ばした。
「学校……」
声に出して呟くと、途端に不安が波のように押し寄せてきた。あんなことがあったのに、果たして明日、自分はいつもと変わらず学校へ行けるのだろうか。過呼吸。パニック症状。それらは七海が生まれて初めて経験したものだった。せっかく美大生になれたのに。だが、美大生になれたからといって、一体何だというのだ。もし卒業したら、その後はどうなる? このまま、何も変わらない弱い自分が、一体どうやって生きていくのだ? 途方もない不安が、暗い沼のように七海の心を深く沈ませた。
レジの行列に並びながら、七海はスマートフォンを取り出し、メッセージを打ち込んだ。"もう学校いきたくないかも"。ボタンを押すと、すぐに画面が光る。(大丈夫? 無理せず休むのも大事よ! 今度またカラオケでもいこうよ〜)。
カラオケなんて行ったことがあっただろうか? 七海は首を傾げ、ほんの少しだけ、くすりと笑ってしまった。ミリィのメッセージは、荒んだ心に一筋の光を差し込むようだった。
翌日、七海は心に微かな気合いと覚悟を宿し、大学へと向かった。うつむき加減に人目を避けるように歩く。周囲の視線は一切気にしないように努め、講義を受けた。講義の合間には、誰もいない外階段で絵を描いた。もし誰かが通りかかったとしても、黙々と絵を描く人物がいたところで不審には思われないだろう。ここは美大なのだから。スケッチブックに筆を走らせている間だけは、不安や自己嫌悪から解放された。
昼になり、七海は学食へと向かった。ほとんどの学生がグループになって談笑しているが、一人で黙々と食事をしている人もちらほら見受けられ、七海はなんだか安心してしまった。二百円のカレーライスを受け取り、窓際のテーブルに座る。
その時だった。
七海のテーブル目掛けて、まっすぐに歩いてくる者がいた。やはり。会うような、というよりも、会えたらいいな、と密かに願っていた人物だった。戸川は、蕎麦を載せたトレーを手に、七海の向かいの席に座った。戸川の纏う油絵の具の匂いが、七海の心を穏やかにした。
「もう、大丈夫そ?」
戸川の問いに、七海は小さく頷いた。
「はい。……あの、昨日は本当にご迷惑を……」。
七海は深々と頭を下げた。
「いいのいいの! 気にしないで! 頭を下げるべきはあのバカどもでしょ」
戸川の潔い言葉に、七海は少しだけ安堵した。そして、意を決して言葉を続ける。
「あ、あの。もしこれ、よかったら」
七海はトートバッグの奥底から、半額シールが貼られたメンチカツが二つ入ったパックを取り出した。戸川はきょとんとした表情で、「は?」と間の抜けた声を上げた。
「あの、カレーにトッピングしようと思って。二つはちょっと多いから、もしよければ一枚どうですか?」
七海の言葉に、戸川はふっと笑みをこぼした。
「七海さんって、なんだか面白い子ね?」
その言葉は、七海の胸に、これまでの不安を溶かすような温かい光を灯した。




