43.命の岸辺
七海は、絶対的な暗黒と沈寂の深淵にその身体を繋ぎ止められていた。
正確には、それは視界を完全に遮蔽する厚密なゴーグルと、外界のざわめきを拒絶する高音質・高密閉のヘッドホンによって、視覚と聴覚という外界との通路を力任せに塞がれた状態での、直立であった。
足裏が捉えている堅牢な木床の感触からして、ここがギャラリーの奥に位置する、あの僅かに広い空間であることは疑いようもなかった。頭脳はその位置関係を冷静に記憶していたものの、感覚器官を無理矢理にに奪われた肉体は、知らない場所に取り残されたような底知れぬ揺らぎと、拭い去れない心細さに苛まれていた。
やがて、密閉された耳腔へ、ブツリという無機質なノイズが侵入した。
微かな気泡が弾けるような音の輪郭に続いて、振動板を伝って届いたのは、坂大介の深く澄んだ声だった。
「これは、いまや陳腐とすら言えるかもしれないけれどVRという装置だよ。――最も無機質な死の領域と、最も原始的で無垢な生命の美。その極限に位置する対比を、仮想という歪んだ空間の皮膚に刻みつけた。テクノロジーという冷徹な媒介によってのみ立ち現れる、君がまだ出会ったことのない『命の岸辺』の体験になれば、嬉しいのだけれど」
坂の静謐な言葉が鼓膜の奥で揺れ収まると、再びガサゴソと衣擦れに似た無遠慮なノイズが耳孔をくすぐる。
「おい、絶対に歩き回るなよ。この場所がどれほど狭いか、考えろよ」
粗野でいてどこか過剰な保護欲を含んだその声は、東海の注意事項だった。
「もっと広大な空間を確保できたらね、己の脚でその大地を踏みしめ、歩みを進めるような体験も提供できたのだろうけれど」
声の余韻に滲む坂の小さな苦笑が、ヘッドホンの振動となって七海の耳の奥をくすぐる。
「ちなみに言っておくが、その核となるプロンプトの幾つかは、俺が組み上げたものだ」
自慢げに鼻を鳴らす東海の声色に、七海は張り詰めた緊張の隙間から、思わず唇を綻ばせそうになった。
耳底に響いていた低音の地鳴りに、ゆっくりと洗練されたシンセサイザーの旋律が重なり始める。それは壮大でありながら、既存の音律を拒絶するような前衛的なヒーリングミュージックだった。
「その音楽、僕が担当したんすよっ!」
割り込んできたのは、先輩である槇村の、あまりにも能天気で軽い声だった。
それは、何光年もの孤独な暗闇に取り残された七海の孤舟へと届いた、一筋の細い有線電波のようであり、一瞬の安らぎとして胸に響いた。
しかし、槇村の放った明るい残響が途絶えると、回路の残熱が冷めていくように、急激な冷気が音像の隙間から滑り込んできた。
ギャラリーの現実の気配を繋ぎ止めていた最後の糸が、プツリと不可逆的に断ち切られる。
完璧な沈黙のなかで、生身の皮膚感覚が急速に遠ざかり、どこにも戻れぬ虚空へと落ちていく恐怖。
その静寂の底から、坂の静かな声が、低く満ちてきた。
「七海さん。そこがどこか、君には理解できるかい?」
問いかけに応じ、七海は自らの思考を経由させる間もなく、乾いた唇を開いていた。
「水星……ですよね……」
「へぇ。博識だね。そう、その通りだよ」
七海はかつて、その孤独な天体についてわずかに調べたことがあった。
覚えているのはごく断片的な記憶。
大気が希薄で、人間という脆弱な生き物が生存することなど到底許されない極限の環境であること。そして、その星の身体のほとんどが、冷ややかな鉄で構成されているということ。
「何故、水星にしたのですか?」
七海の声に、ある種の切迫した予感が混じった。この必然の選択の裏には、己の運命を穿つ何かが隠されているのではないかという直感。
「……それは、僕の口から言葉として手渡すものではないよ。その『世界』そのものが放つ息づかいから、君自身の感性で感じ取ってほしい。そしていつか、君だけの言葉で、僕に教えて欲しいな!」
坂の返答は、どこまでも煙に巻くような曖昧さを孕んでいた。
しかし、七海はその答えに深く納得していた。芸術とは、いつだって解の存在しない問いそのものなのだから。人は誰もが、辿り着くことの叶わない地平の途上に立ち尽くすしかないのだから。
「……それじゃあ、物語を始めよう」
その一言の背後で、ギャラリーという現世への帰還路は完全に閉ざされた。
仮想空間の冷気に、明確な『気配』が満ちていく。吸い寄せられるように、七海は再び背後を振り返った。
ゴーグルの中に広がった光景に、七海は息を呑んだ。
灰色の地平線の彼方から、揺らめく光の束とともに、巨大なクラゲが姿を現したのだ。
漆黒の宇宙に昇る優美な夕日のように、淡く光り輝く半透明のピンク色の生命体。
重力を失った虚空を、ゆったりと揺蕩いながら迫ってくる。
やがて、その光体は地平の破片から次々と溢れ出し、モノトーンの光景に、朱色と桃色の艶やかなマーブル模様が、侵食していく。
全視界を、大小様々に発光するおびただしい数のクラゲの群れが満たしていた。
死した鉄の天体に乱舞する、圧倒的な生の幻影。
足元に広がる水星の核——剥き出しの冷徹な「鉄」の冷たさは、かつて自分の額を割り、愛車を歪ませたあの不条理な衝撃の記憶と、痛烈に同期する。
その冷え切った死の世界を埋め尽くすクラゲの、目もくらむような温もりと光。その惨烈なまでの対比が、七海の胸底に突如として遠い幼少の日の景色を呼び覚ました。
まだ世界が曖昧な輪郭しか持たなかった頃。
地元の古い百貨店の、薄暗い催事場。
水槽の中でゆらゆらと揺れていた、無垢な青と緑の光。
胸の奥が、力任せに締め付けられる。
この世界から姿を消していった、あの友人の、二度と戻らない笑顔。
七海は顔を上げ、天を仰いだ。
全天を覆い尽くす、クラゲ、クラゲ、クラゲの渦……。
みんな、おなじで、なにもない……。
みんな、おなじ。みんな、おなじ……みんな……。
なにも、ないの……。なにも、なにも……
なにもない
頭脳の奥で、かつて通過してきた過去の断片が、鮮烈な感触を伴って雪崩を起こす。
キャンバスに塗られた油塗料の重たい匂い。
心を通わせた仲間たちの笑い声と、手のひらに残る初めて自分で稼いだ硬貨の金属的な冷たさ。
切る風の鋭さに昂揚したロードバイクの踏み込み。
理不尽な悪意に晒された瞬間の、喉の奥が焼きつくような怒り。
そして——ガラスドアに叩きつけられた瞬間の、吐き気を催す鉄の匂いと重たい衝撃。
額の皮膚を引き裂いた消えぬ傷痕の疼きと、二度と元には戻らない形へとひしゃげた、愛車のフレームの虚無。
それらは単なる出来事の記憶ではなく、いまでも肉体を苛み続ける生々しい「感覚」として、七海の全身を駆け巡った。
もしもこの取り留めもなく湧き上がる痛みにひとつの名前を与え、美しい「物語」として編み上げてしまったなら、己の精神は耐えきれずに砕け散ってしまう。
だからこそ、ずっと目を背け、思考の深淵に封印し続けてきたのだ。
その自らの脆さと不誠実さに気づいてしまった七海の精神は、制御不能な揺らぎとなって崩壊を始めていた。
いつの間にか、ヘッドホンから流れる旋律は、怒涛のような壮大なシンフォニーへと変貌を遂げていた。
重厚な音の波が、脳腔を直接揺さぶる。
七海は宇宙を見上げた。
クラゲたちは、不可視の途方もない海流に身を任せるように、ゆっくりと、どこまでも優美に、彼方なる暗闇へと去っていく。
——彼らは一体、どこへ行き着くのだろう?
果てのない疑問が、胸の波紋となって広がっていく。
やがて七海は、震える唇から、かすかな音声を絞り出した。
「……分かりません。すみません。私には、分かりません……」
それが、決壊しそうな心をかろうじて繋ぎ止めるために彼女がついた、あまりにも切なく、痛々しい嘘だった。




