4.雨と絵の具
七海はうつむき加減に廊下を歩いていた。
視線をわずかに上げると、高価そうな服に身を包んだ、モデルのようにすらりとした先輩の姿が目に入る。階段には、作業着姿の男子生徒たちが座り込み、談笑していた。彼らはまるで、七海のいる世界とは別の次元に属する人々のようだった。
七海は自分を、大海に放り込まれたメダカのように感じていた。広大な海を知らない、取るに足らない田舎者のメダカ。自身の名前、「七海」が、あまりにも皮肉に響いた。七つの海、などという壮大な名は、このちっぽけな自分にはあまりに不似合いだろうと、胸の奥で自嘲した。
七海の進む先に、廊下の真ん中で騒がしくしている男子生徒たちの集団が見えた。どうやら一人が奇妙な踊りを披露し、それを他の者が撮影しながら笑い転げている。ひょっとしたら、何か動画配信でもしているのかもしれない。七海は昔から男子が苦手だった。特に、このように騒ぎ立てる男子は、生理的に受け付けない。踊っている男子は、リズムに合わせて軽快に飛び跳ねながら、「ふぉい! あふぉい!」と間の抜けた掛け声を叫んでいた。
七海は、彼らの邪魔にならないよう、廊下の隅を通り抜けようとした。その時だった。
「はいご一緒に! あふぉい!」
突如、踊っていた男子学生が七海の肩に腕を回してきた。その瞬間、七海の喉から絹を裂くような悲鳴がほとばしる。「きゃーっ!」驚きと恐怖に支配され、七海はその場にうずくまった。
「うわー、最悪ぅ」
嘲笑うような声が聞こえた。誰かが言った。
「セクハラだよ、セクハラ! 大丈夫?」
と、男子生徒たちが七海を取り囲む。
七海はうずくまったまま、自身の異常なまでの心臓の鼓動と、込み上げてくる嗚咽、そして、まるで意思を持たないかのように震え続ける両手を自覚した。恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは男子生徒たちだけではなかった。周囲にいた誰もが、何事かとばかりにこちらを見ていた。
なぜ? なぜこんなことをされたのだろう? 私は何も悪いことをしていないのに。ただ、教室に行こうとしただけなのに。ここを通らなければいけないのに。なのに、どうして? わからない! わからない! わからない!
思考がぐるぐると渦巻き、出口を見失った。
立ち上がろうとするが、七海は自分の身体がまるで自分の意思に反していることに気づいた。足に力が入らず、腕も痺れている。おかしい。さらに、うまく息ができない。胸が締め付けられるように痛み、肌寒い。
おかしい、わからない、わからない、わからない、わからない。
混乱と恐怖が波のように押し寄せ、七海は自分自身が壊れていくような感覚に囚われた。震える右手を左手で押さえつけようとすると、その手に温かい滴が落ちた。その時、七海は自分が涙を流していることに、やっと気づいた。
「お、おい、ちょっと、やべーんじゃねー?」
うずくまり、尋常ではない様子の七海に、男子生徒の一人がやっと事態の深刻さに気づき、顔色を変えた。
「あ、あの……、す、すみ、わ、わた……」
何かを言おうと口を開くが、思考と口から吐き出される音とが乖離し、言葉は意味をなさなかった。さらにパニックは深まり、七海の喉からは「う、うぅ、うう」という唸り声が漏れ出した。
「おい、マジやべぇって」
男子の一人が、恐怖に顔を引きつらせて後ずさった。その時だった。
「おい! テメェらぁ! 何してんだよ?!」
その声の主は、戸川だった。以前、学食で七海に声をかけてきた三年生の戸川。彼女の鋭い声が廊下に響き渡った。
戸川はうずくまり、震える石動七海の前にしゃがみ込み、その両肩にゆっくりと手を置いた。
「大丈夫?! 七海さん!」
「はっ、わた、はっ、はっ、通ろうと……はっ、教室、はっ、でも、はっ、はっ、わか、わかんなくて……」
支離滅裂な言葉を紡ぎ、涙に濡れた七海の顔を覗き込み、戸川は優しい声で諭した。
「いいから。いいから。落ち着いて。大丈夫。大丈夫だから」
その声は、七海の胸に、微かな安堵の波紋を広げた。
「あ、あの、保健室とか」
と、騒いでいた男子生徒の一人が声をかける。戸川はその男子を鋭く睨みつけ、
「お前らはもうどっかいけ!」
と一喝した。七海の肩が、ビクリと震える。
「ごめんね! 七海さん。大丈夫だから、いい? 今ね、あなたは過呼吸っていう状態なの。わかる?」
七海は、か細く頷いた。
「はっ、かこ、はっ、わた、わたし……」
「いいから。ね。大丈夫だから、ゆっくり、ゆーっくり息を吐いて。私と一緒に、ね? すー、はー。っていい? はい、一緒に」
戸川の言葉に促されるまま、七海はゆっくりと息を吐き出した。雨の気配が漂う廊下に、目の前の戸川の服から、かすかに油絵の具の匂いがした。
その匂いが、七海の荒れ狂う心を、少しずつ、しかし確実に鎮めていった。雨音と、油絵の具の匂い、そして戸川の落ち着いた声。それらすべてが、七海を包み込み、ゆっくりと、乱れていた呼吸と感情が静けさを取り戻していった。