3.冷たいナイフ
小雨が降りしきるアスファルトの上、七海は水溜りを避けるようにして校舎へと向かっていた。画材と資料で膨らんだトートバッグを抱え込み、小さな傘の中に身を収めて雨粒から逃れる。重たい布地の感触が指先に鈍く伝わった。
校舎の軒下で、ビニール傘の露を払う。乱れた前髪が濡れて額に張り付き、その違和感に誘われるように、ふと隣の大きなガラス窓に映る自分の姿を見た。
そこにいたのは、都会の喧騒にはあまりに不釣り合いな、野暮ったい「田舎者」の自分だった。母がしまむらで選んでくれた、くたびれたプリントTシャツと毛玉の浮いたカーディガン。地元の千円カットで切り揃えられた、垢抜けない黒髪。
上京し、美大生にさえなれば、何か劇的な変化が訪れると漠然と信じていた。しかし、窓に映る現実は、凡庸という言葉すら生温い、この華やかな世界から置き去りにされたかのような惨めな小娘でしかない。
校舎の奥から、男子学生たちのけたたましい笑い声と、何事かを喚き散らすような喧騒が漏れ聞こえてくる。彼らの声は、まるで七海の内側に深く切り込む刃のように、居心地の悪さを際立たせた。
左手首に光るカシオの腕時計を確認すると、まだ時間は早かった。その事実に、安堵するよりもむしろ、校舎の中に入るのが一層億劫になった。
小雨がコンクリートを打つ単調な音が、胸の奥底に澱む不安を増幅させる。居心地の悪い軒下で、七海は鞄からスマートフォンを取り出した。
"上手くやれるか自信なくなってきた"
ほぼ間を置かず、画面が点滅する。
(どうしたのー? 大丈夫だよ! ナナミなら上手くやれる! ミリィは信じてるよ!!)
その感嘆符だらけのメッセージは、私の胸に温かいものが広がるのと同時に、痛みを伴う棘のように刺さった。私は「ありがとうね、ミリィちゃん」と短く返した。
絵が「上手い」。その一事だけで、自分は美大生になれた。中学も高校も、彼女には「友達」と呼べるような存在はいなかった。ただ黙々と、ノートの隅に絵を描き続けていた。親や先生たちは口を揃えて言った。「ナナミちゃんは絶対に将来画家か漫画家になれるよ!」 その言葉を、七海は漠然と、何の疑いもなく信じてしまっていた。
いつからだろうか、七海は「考えること」が苦手になった。絵は得意だ。だが「好きなものを描いていい」と言われると、途端に筆が止まる。一体何を描けばいいのか、皆目見当もつかない。「好きなもの」——その言葉を頭の中で検索しようとすると、その瞬間に、曖昧でざらついた感情の塊に触れてしまうような気がして、すべてがどうでもよくなる。真っ白な何も描かれていない紙を前にすると、そこに自らの虚無が、あまりにも的確に表現されているのではないか、とさえ思えてくるのだ。
ふと、トートバッグから一本のペインティングナイフを取り出した。生協で買ったものだ。美大の生協にはこんなものまで売っているのか、と少し感心した記憶がある。少し高価だったが、ステンレス製の鈍い輝きに惹かれて衝動的に手に入れた。持ち手には「RGM ITALY」の文字が小さく刻まれている。実際に使ってみると、すべてが金属製であるそれは、使い慣れた木製のグリップのものよりも、七海の手には馴染まなかった。冷たい感触が、指先からゆっくりと心臓にまで伝わっていくようだった。
雨の音、手に馴染まないペインティングナイフの冷たさ、校舎の影、そして遠くから聞こえる学生たちの笑い声。それらすべてが、七海をこの世界の片隅に置き去りにし、どこまでも、どこまでも、取り残された気持ちにさせた。自分はこの場所に、本当に存在しているのだろうか。そんな漠然とした問いが、七海の心臓を鈍く締め付けた。