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クラゲが還る水星の岸辺に  作者: ヤマザキゴウ


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27.都市の皮膚

 土曜の朝、大気は微かな熱を孕み、来るべき夏の胎動を予感させていた。


 七海は午前七時のアラームとともに、重い肢体をベッドから剥がし取ると、遮光カーテンを乱暴に引いた。

 溢れ出した光の粒子が、埃の舞うワンルームを容赦なく暴き出す。


 彼女は儀式のようにオーブントースターをセットした。銀色の流線型を纏ったその筐体は、かつての古き良きアメリカ映画のキッチンに置かれていてもおかしくない、時代錯誤なほどに洗練された二枚焼きの小道具だ。


 これは、所属するソサイエティの、未だに姓名すら判然としない先輩から譲り受けた「遺物」だった。


『意匠に惹かれて買ったものの、僕の朝食という概念には固形物が存在しなくてね』


 そんな浮世離れした台詞に、七海は思わず吹き出してしまった。そのささやかな負い目を購うように、放課後、学校裏のキッチンカーで売られている、学生の財布にはいささか酷な価格のカレーパンを差し出した記憶が蘇る。


 トースターの熱線が赤く胎動をはじめ、パンの焦げる芳醇な香りが狭小な空間を支配し始めた。

 電気ケトルが低く唸りを上げ、やがて沸騰の産声のような音を立てる。


 七海は無機質なスマートフォンを指先でなぞり、YouTubeのアイコンを叩いた。アルゴリズムが提示する、自分とは無縁なはずの「推奨された世界」に身を委ねる。


 流れ出したのは、中東の砂塵や、合衆国大統領の冷徹な思惑を解体しようと試みる、高踏な議論の番組だった。不穏な語彙を、さらに難解な修辞学で塗り固める専門家たちの声。その知的なノイズが、朝の湿り気を帯びた部屋に埃のように揺蕩う。


 焼き上がった一枚のトーストに、彼女は冷蔵庫の奥から取り出した瓶入りの苺ジャムを塗りたくった。バターナイフが、微かにざらついたパンの表面に深紅の色彩を広げていく。その無造作なストロークは、ふと、テクスチャーアートの習作のように見えた。


 一口、その甘美な重みを噛み締める。


「……流石に、高いだけのことはある」


 独り言が空気に溶ける。

 スーパーの陳列棚にあって、そこだけが異質な静謐を纏っていた高価なジャム。その芳醇な果実味に、彼女は束の間の納得を得た。


 続いて、安価なインスタントコーヒーに熱湯を注ぐ。慎重に、しかし貪欲に、その熱を啄むようにして喉へと流し込んだ。


 画面の向こうでは、依然として世界の理が語られている。


『……保守もリベラルも、単なる合理性の奴隷ではありません。その権謀術数の裏側を覗けば、そこには極めて原初的で、シンプルな欲望が脈打っているのです。合意形成という虚飾を目的とした議論が霧散するのは、両陣営が抱くそれぞれの欲望が……』


 七海は、どこか銀河の彼方で起こっている出来事のように、その言葉の礫をやり過ごしていた。


 今、彼女の眼前に横たわっているのは、形而上学的な危機ではない。


 美大生というアイデンティティを維持できるかという焦燥。来月の生活費を捻出するために、あと何日、フードデリバリーで肉体を酷使しなければならないかという計算。そして、遠い未来の自分が「何者」として社会に刻印されるのかという、答えのない問い。


 それらは、歴史の奔流から見ればあまりに些末で、しかし、多くの若者がその途上で必ず磨り減らす、ありふれた実存の摩擦熱に過ぎない。


 だが、今日という日には、一つだけ揺るぎない真実があった。

 カレンダーは休日を示し、窓の外は、残酷なまでに澄み渡った快晴だ。


 それは、フードデリバリーという現代の、資本主義化された狩猟・採集に従事する者にとって、この上ない「吉兆」を意味していた。


 七海は、雑ではあるが色彩豊かで、温度の高い朝食の残滓を片付けると、薄手のウインドブレーカーを纏った。

 決意を固めるように、額に張り付いた髪をかき上げ、黒いキャップを深く被る。


 今や、肉体の一部のように馴染んだ、ブリジストンのレイダック。


 巨大なデリバリーバッグを背負い、彼女は陽光の降り注ぐ街へと漕ぎ出した。


 駅前の喧騒へと滑り込み、ホルダーに固定されたスマートフォンのアプリを起動する。

 エントリーの瞬間、画面上には自分の現在地を中心として、脈動するデジタルな地図が展開された。


 土曜の午前。

 まだ街が眠気を引きずっている時間帯に、注文などあるのだろうか――そんな疑念を嘲笑うかのように、即座にオーダーが舞い込んだ。


 駅前のマクドナルド。

 彼女はペダルに渾身の力を込めた。トゥクリップに収まった爪先が、円運動を描きながら加速度を増していく。


 客も疎らな店内。

 人工的な油の匂いが漂う中、七海は待機することなく、カウンターでそのパッケージを受け取った。


「オーダー番号、E1108で、お間違いありませんか?」


 若く、画一的な笑みを浮かべた女性店員が、ビニール袋を差し出す。

 七海は、努めて事務的に、しかし確信を持って応じた。


「はい、E1108です」


 発光する画面を提示し、相互に確認し合う。

 以前、この照合を疎かにした配達員が、取り返しのつかない取り違えに直面し、パニックに陥っていた惨状を目の当たりにしていたからだ。


「はい、承知いたしました。ありがとうございます。お気をつけて!」


 店員が、マニュアルの向こう側にある真摯な笑みを向けた。


 七海は振り返り、その笑顔に声を投げた。


「はい! ありがとうございます!」


 弾んだ自分の声が、店内の静寂を僅かに震わせる。 

 ふと視線を感じれば、近傍のテーブルにいたスーツ姿の男性が、値踏みするような眼差しで彼女を追っていた。急激な羞恥心が背中を駆け抜け、彼女は逃げるように店を後にした。


 目的地は、隣駅の静穏な住宅街に佇むマンション。

アプリのアルゴリズムは、交通量の激しい国道を推奨していた。

 だが、七海は敢えて線路沿いの遊歩道を選択する。それは、自転車という最小の移動単位に許された、直感的な機転だった。

 巨大なトラックの排気ガスに巻かれ、社会の「邪魔者」として扱われる屈辱を回避するための、ささやかな抵抗。


 遊歩道は広く、風景は緩やかに流れていく。

 愛犬を連れて歩む女性。規則的な呼吸を刻み、ランニングに没頭する初老の男性。


 七海は、彼らの日常を置き去りにするように、軽快に走り抜けた。


 出口付近、車止めのコンクリートポールという物理的な障害に阻まれ、数秒の苦戦を強いられたものの、目的地にはわずか七分で到達した。


 インターホンを通じ、無機質な電子音と共にオートロックが解かれる。エレベーターの籠の中で、彼女は改めて401号室という数字を網膜に焼き付けた。


 ドアの前へ、音を立てずに「置配」を完了する。

 再び一階へ戻ると、そこには管理人と思しき老人が、竹箒でエントランスの塵を払っていた。


「お疲れ様です」


 無意識に、声が漏れた。

 老人は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で動きを止めたが、すぐに目尻に深い皺を刻んだ。


「ああ、お疲れさん。気をつけて行きなさいよ」


 その、思いがけず温かな響き。

 七海は再び、レイダックのハンドルを握り締めた。車体を伴い、数歩歩く。

 自販機で冷えた水を買い、咲く花もない、無機質なレンガの花壇に腰を下ろした。


 水が喉を通り、胃に落ちる感触だけが、今の彼女にとって唯一のリアルだった。


 ――なんだか、すべてが円滑に回っている。


 社会の周縁で、人々の巨大な営みの歯車の中に、自分という小さなピースが確かに組み込まれている。そんな、微かな、しかし確かな充足感が胸に満ちた。


 ただ、空が晴れ渡っている。

 ただ、見知らぬ誰かと、心を通わせるような挨拶を交わした。

 スムーズに、一件のタスクを完遂した。


 ただそれだけの、ありふれた出来事によって、七海の世界は鮮やかな色彩を取り戻したかのように見えた。


 再び、ペダルを漕ぎ出す。

 光の渦巻く街中へ。


 バス通りに出ると、車列は密度を増し、都市が本格的に覚醒したことを告げていた。

 不意に、視界の端でスーツを纏った三人の男たちが、激しく手を振る仕草を捉えた。

 七海の脳内で、動物的な警報音が鳴り響く。

 それは、かつて経験した、生命の危機に近い既視感。

 振り返ろうとした瞬間、全身に冷たい電流が走った。

 真横。

 わずか数センチの、手を伸ばせば金属の肌に触れられるほどの距離に、タクシーの鋭利な先端が並走していたのだ。

 彼らはタクシーを呼び止め、そしてドライバーは、死角に潜む一人の自転車乗りを、完全に「無」として扱っていた。


「く、クソがぁッ!」


 絶叫が、喉を引き裂いて溢れた。

 七海は剥き出しの怒りに任せ、右手でタクシーのボディを力任せに叩きつけた。

 鋭い金属音が響き、タイヤを悲鳴のように軋ませたタクシーが、彼女の視界から遠ざかっていく。


 目の前には、呆然と口を開け、間抜けな表情を晒したスーツの三人組。

 七海は、彼らの眼前を、般若のように眉間に深い皺を刻んで通り過ぎた。

 ペダルを踏む足が、怒りと恐怖で痙攣している。心臓は肋骨を内側から突き破らんばかりに早鐘を打っていた。


 だが、七海自身は気づいていなかった。

 その時の自分の貌が、凶悪なまでの歪みを伴って、歓喜に近い笑みを浮かべていたことに。


 可笑しくてたまらなかった。

 口を突いて出た、あのアスファルトのように無機質で汚濁に満ちた「クソ」という罵声。


 それは、自分の中に、あの『馬渕東海』という、傲慢で暴力的な男の影が乗り移ったかのような、悍ましくも万能感に満ちた瞬間だった。


 どれほど走っただろうか。

 人通りの絶えた、殺風景な駐車場の隅に彼女は崩れ落ちた。


 ――私は、何て取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。


 冷ややかな後悔が、潮が引くように全身を支配していく。

 だが、物理的な損傷は与えていないはずだ。そんな言い訳と断罪が、脳内で激しく火花を散らす。


 その時、スマートフォンのバイブレーションが、彼女の沈黙を切り裂いた。

 びくり、と肩が跳ねる。

 画面を見れば、無慈悲にも新しいオーダーが通知されていた。

 居ても立ってもいられず、彼女はデリバリーアプリをスワイプし、慣れ親しんだ別の画面を呼び出した。

震える指先で、縋るように文字を刻む。


『ミリィちゃん、どうしよう。私、悪いこと、しちゃったかもしれない』


 刹那の静寂の後、返信が躍った。


『どうしたの? 悪いことしちゃったら、ちゃんと「ごめんなさい」しなきゃだよ!』


 その無垢な言葉に、七海は弾かれたように立ち上がった。

 入っていたオーダーをキャンセルし、再びロードバイクに跨る。


 先程、死の香りが過った、あのバス通りへと全速力で取って返した。

 指先はまだ、小刻みに震えていた。


 だが、たどり着いたその場所には、ただ、あまりにも平穏な風景が広がっていた。


 あのタクシーも、硬直していた三人組も、幻であったかのように消え去っている。


 歩道には、未来を謳歌するような若者たちが嬌声を上げ、車道には、巨大なバスが規則正しく通り過ぎていく。幼子の手を引く主婦が、疲れ果てた貌でスマートフォンの発光を見つめている。


 七海は、レイダックをガードレールに立てかけた。


 そして、ゆっくりと周囲を見渡す。


 世界は、何事もなかったかのように循環を続けている。


 彼女の犯した過ちも、その後の激烈な後悔も、この巨大な都市の皮膚を掠めることさえできない。


 七海は、まるで色褪せた世界から一人だけ取り残されたかのように、その場に立ち尽くしていた。

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