26.落ち延びた場所
枕元で震えるスマートフォンの電子音が、粘りつく眠りの膜を無理やり引き剥がした。
手探りで掴み取った画面には、無機質な「07:00」の数字。七海は微かな拒絶反応とともにアラームを黙らせる。スヌーズ機能という名の猶予は十五分。そのわずかな隙間に、意識は再び微睡みの淵へと滑り落ちていった。
不快で、どこか刺々しい夢を見た気がする。
追い立てられるような、あるいは足元が底なしの泥濘に変わるような、実体のない恐怖。二度目のアラームを止めた記憶は、その悪夢の残滓とともに霧散していた。
次に七海がはっきりと「現実」を突きつけられたのは、時計の針が九時十五分を無情に指し示した時だった。
一限目の講義は、もう絶望的だ。
しかし、心に湧き上がるべき焦燥感は、肺の奥に溜まった湿った空気のように重く、持ち上がることすらない。
這い出すようにベッドを抜け、遮光カーテンを引く。
皮肉なほどの快晴だった。
網膜を刺す暴力的なまでの青空が、自室の沈殿した空気をいっそう際立たせる。
静寂を恐れるように、スマホのポッドキャストを起動した。指先が適当に選んだのは、名前も知らない女性パーソナリティの番組。この空っぽなワンルームという宇宙には、自分以外の誰かの気配——たとえそれがデジタルなノイズであっても——が必要だった。
『本って、本当にコスパがいいんですよ! この一冊がもたらしてくれる知性と感動は、何ものにも代え難い特別な体験価値になると思うんです』
スピーカーから溢れ出す熱を帯びた声が、冷え切った部屋に響く。
七海は小型冷蔵庫を開けた。中には、期限の怪しい牛乳パックと、彩りのないレーズンパンの袋、そして場違いなグミのパッケージ。
「栄養の偏りを補うため」とか「食生活に彩りを」といった、スーパーの特売カゴの前で自分に言い聞かせた殊勝な言い訳を思い出しながら、冷えたレーズンパンを一つ取り出す。しかし、それを口に運んでも、そこにあるのはパサついた生地の食感と、疎ましいレーズンの甘みだけ。期待した「彩り」など、どこにも見当たらなかった。
温かいものが飲みたかったが、ケトルに水を張る工程すら、今の彼女にはエベレストを登るほどに億劫だった。
衝動に突き動かされるように財布を掴み、外へ出る。
寝癖で爆発した髪、着古したスウェット。人前に出る最低限の体裁すら整えていないが、今の七海にはどうでもよかった。目的地は、アパートの向かいにある駐車場の自販機。
路地を渡り、小銭を探そうと財布を覗き込む。
昨日、そこにあったはずの一万円札が、跡形もなく消えていた。
「はぁ……」
乾いた溜息が、過ぎゆく春の陽光に溶けていく。
昨夜、"あの恐ろしい虚無感"から逃げ帰るために捕まえたタクシー。大きな橋を渡り、恐る恐る問い掛けた七海に対して、無感情な横顔の運転手が告げた「あそこまでだと……一万円くらいですね」という言葉。
降車時、支払った瞬間の手の感触は覚えているのに、その男の顔は、もう思い出せない。
自販機から転がり落ちてきた温かいミルクティーのペットボトル。
路地の先では、老人が小型犬を連れて悠然と散歩をしていた。犬が電柱の根元で用を足す日常の光景。老人の目に、自堕落な朝を晒す自分はどう映っているのだろう。そんな自意識すらすぐに色褪せ、七海は逃げるように自室へ戻った。
部屋ではまだ、ポッドキャストの女性が「知性と感動」について熱弁を振るっている。
その高尚な言葉は、七海の耳を滑り落ち、脳の深層に届く前に消えていく。
ぬるいミルクティーで、口の中のパサついたパンを流し込む。それは食事というより、生存のための最低限の儀式だった。
ベッドに再び身を投げ出す。
窓の外は、ロードバイクを駆ってデリバリーのバイトに精を出すには、これ以上ないほどの快晴だ。
けれど、脳の奥底に吹き溜まった靄が、彼女の四肢から力を奪っていた。
番組が終わり、完全な無音が戻ってきたところで、ようやく七海は重い腰を上げた。
午後からの講義には、行かなければならない。
自分が望んで門を叩いた美大だ。学費を工面するために背中を丸めて働いている母親の姿を思えば、行かないという選択肢は罪悪感という棘に変わる。
シャワーを浴びて、湿った憂鬱を洗い流す。
鏡の中の自分に、誰かからの「貰い物」を重ねていく。
ソサエティの先輩から譲り受けたグラフィックTシャツ。戸川先輩から貰ったハーフパンツ。肌寒い時期に重宝する大きめのデニムジャケットも、すべてお下がりだ。
髪を強引にキャップに押し込み、昨夜の雨で湿ったリュックの代わりに、馬渕東海から贈られた黒いメッセンジャーバッグを肩にかける。
その中に、親に買ってもらった参考書、スケッチブック、ペインティングナイフ……。
ふと、手が止まる。
身に纏うものも、学ぶ道具も、今跨がろうとしているロードバイクですら、すべて他人から与えられたものだ。自分自身の中から湧き出したものは、ここには一つもないのではないか。
そんな卑屈な思考を振り払い、七海は鉄のポールに繋がれた相棒のロックを解き、午後の街へと走り出した。
大学に到着しても、遅刻を咎める声はどこにもなかった。
出席確認という名の形式的な手続きを経て、淡々と講義を消化し、ワークショップに参加する。誰と語らうこともなく、学びという名の輪郭のぼやけた時間をやり過ごす。
放課後、磁石に吸い寄せられるように、いつもの資材置き場——通称「ソサエティ」の溜まり場へと足が向いていた。
渡り廊下の向こう、野球場にポツンと佇むボロボロのタコのオブジェが、夕日に焼かれている。夏を予感させる季節の移ろいも、今の七海の心には、数ミリの振動も与えない。
溜まり場の扉を開けると、そこにはいつもの、奇妙で愛おしい停滞があった。
幾何学的な図形をホワイトボードに描き殴り、哲学的な議論を戦わせる男女。
毛羽立ったソファでスマホの光に埋没する女子生徒。
そして、この集団の核である馬渕東海は、すでにビールの缶を開けていた。
部屋の中央、小さなテーブルを囲む輪の中に、見慣れない香ばしい匂いが漂っている。
「それ、たこ焼きですか?」
七海の問いに、鉄串を操っていた槇村が、少し誇らしげに応じる。
「いいえ。豚焼きっす。タコは高いんで……」
「ナナミちゃんも、食べる?」
戸川先輩が、マヨネーズをたっぷりかけた"豚焼き"を頬張りながら、紙皿を差し出してくれる。
「遠慮しなくていいぞ。槇村の奢りだってよ。飲み物は、そこの冷蔵庫から好きに取れ」という東海の言葉には、拒絶を許さない温かな強引さがあった。
社会的なプロトコルや、複雑な感情の機微を読み取ることが苦手な七海にとって、この無遠慮なまでの施しは、何よりも救いだった。
冷蔵庫から外国製のコーラを取り出し、紙皿を受け取る。
「ありがとうございます。……これ、大丈夫なんですか? 学校内で、料理なんかして」
「火災報知器が作動しなきゃ大丈夫だろ」
そう言って笑う東海も、すでにその料理を頬張っていた。
見事な手際で鉄板を操っていた槇村が、威勢よく声を上げる。
「はい。熱いっすよ!」
焼きたての「豚焼き」が一玉、七海の紙皿に転がり落ちる。卓上のお好みソースをたっぷりとかけ、一口。
「あつっ、あふっ、あっ! ……美味しい」
「よっしゃ!」
タコの代わりに詰め込まれた豚肉。邪道と言えばそれまでだが、たっぷりのネギと生姜の刺激が、豚の脂の甘みを引き立てている。それは既存の「たこ焼き」という枠組みを軽やかに飛び越えた、新しい「何か」だった。
「槇村先輩って、料理上手なんですね」
「まあ、見様見真似っすね!」
「ラノベのだろ?」
東海の揶揄するような言葉に、槇村は戯けるように胸を張った。
「そうっすそっす!」
「ラノベ?」
七海が小首を傾げると、槇村のスイッチが入った。
「ライトノベルっすよ。アニメとかの原作になる、ライトな小説っす」
「ああ……」
高校の教室の片隅で、その手の本を広げていた同級生たちの姿が脳裏をよぎる。納得した七海をよそに、槇村の言葉は熱を帯び、加速していく。
「『異世界食堂』に、『居酒屋「のぶ」』。『とんでもスキルで異世界放浪メシ』とか……、あと最近のオススメは、やっぱり『居酒屋領主館』っす。めっちゃ面白いんすよ! あれ!」
「うわぁ、オタクって、なんで好きなモノ語り出すと早口になるんだかなぁ」
呆れたような東海の吐息が、部屋の空気をわずかに揺らす。
けれど、七海はその早口の濁流を心地よく感じていた。ポッドキャストの洗練された声よりも、ずっと実直で、生きた人間の熱を感じたからだ。
「もう一つ下さい」
七海は再び紙皿を差し出す。
「あいよー!」
景気のいい返事とともに、再び熱々の塊が置かれる。
例え見様見真似でも、これだけの創作料理が作れるのは大したものだ。常識や型枠に囚われないこの自由な創造性こそが、このソサエティのらしさなのだと感じる。
そして、ふと思った。
この「ニセモノのたこ焼き」は、まるで自分そのものではないか。
他人から与えられたものを身に纏い、何者でもない自分に、表面的なアイデンティティとアティテュードを最低限与えてもらって生きている。
けれど、ニセモノの何が悪いのだろう。
豚肉だって、こんなに良い味を出している。美味しければ、それでいいのだ。
そして、この場所は……砂漠を彷徨った旅人が、ようやく辿り着いた終の棲家。少しだけ、そんな気がした。
そんな、謎の居心地の良さに、七海は深く安堵した。
「もう一つ下さい!」
少しだけ厚かましく、少しだけ図々しく。
七海の言葉に、溜まり場の面々が苦笑いを浮かべる。その微かな笑い声が、彼女にとってはどんな芸術作品よりも、誇らしく、愛おしいものに感じられた。




