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クラゲが還る水星の岸辺に  作者: ヤマザキゴウ


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25.叫び

 見知らぬ街の、湿り気を帯びた夜気に曝されながら、七海は逃げるように足を進めた。

 街路に溢れる人々の無遠慮な話し声。濡れたアスファルトの鏡面を滑り、切り裂いていくタイヤの低音。


 吸水したリュックは容赦なく肩に食い込み、湿ったままの髪は冷たく額に張り付いている。

 拭い去れない焦燥感に突き動かされるように、彼女は自らの髪を乱暴に掻き散らした。その指先に残る湿り気が、先ほどまでの「他者の生活」の残滓であるようで、ひどく不快だった。


 ポケットから震える手でスマートフォンを取り出し、地図アプリの光を凝視する。


 最寄りの駅は、思いのほか近くに記されていた。

 その無機質な青いドットを道標に、七海はこの不可解な逃避行を継続した。


 やがて、視界の先にバスロータリーの騒乱が浮かび上がる。

 手持ち無沙汰に客を待つタクシーの列。

 路上で円陣を組み、夜を謳歌する若者たちの卑俗な嬌声。

 ベンチで紫煙を燻らせる老人が、警察官の事務的な声に眉を顰めている。


 駅の階段を駆け上がると、踊り場では外国人の一団が缶ビールを片手に、未知の言語で笑い合っていた。


 券売機の上に掲げられた、蜘蛛の巣のように張り巡らされた路線図を仰ぎ見る。


 どうやら、一度の乗り換えを経れば、自分の安息地へと帰れるらしい。


 改札へと足を踏み出そうとした、その時だった。

都心からの電車が、人々の群れを吐き出した。


 休日という境界を失ったかのように、煤けたスーツを纏う男。

 巨大な登山用リュックに自己を投影する旅人。

 無邪気な子供たち、疲れ果てた大人たち、男、女、そして異邦人……。


 押し寄せる多種多様な色彩の奔流に、七海はまた、あの眩暈を伴う感覚に呑み込まれた。


 足が竦み、思考が停止する。


 脳裏を過ったのは、幼き日に薄暗がりで見た、あのクラゲたちの水槽だった。


 緩慢に、けれど確実に漂う透明な命。


 みんな同じ、みんな同じ、みんな同じ……。


 個という輪郭を持ちながらも、固有の意思を持たない。ただ環境に身を委ねるだけの、ひどく儚く、無意味な存在。


 その群衆の均質さに、七海は耐え難い畏怖を覚えた。

 七海の横を、ギターケースを背負った男が通り過ぎざま、訝しげに視線を投げた。

 夜の駅で、濡れ鼠のような髪のまま立ち尽くす小娘。その異様な佇まいに一瞬の興味を引かれたようだが、彼はすぐに、自分の生活という軌道へと戻って去って行った。


 七海はたまらず、翻って階段を駆け下りた。


 とぼとぼと、舗装された夜道を歩く。


 一体、自分は何を求めて足掻いているのだろうか。


 そんな自問が胸を突くが、あの駅の群衆の中に、自分の居場所など一片も残っていないことを悟っていた。そこにあるのは、自己の惨めさを再確認させるための鏡合わせの絶望だけだ。

 ただ、自室という名の狭い箱に帰ればいい。それだけのことなのに。

 けれど、濡れた身体は本能的に、一人になれる暗がりの方へと彼女を誘っていった。


 歩いて、帰れるだろうか?


 ふと思いつき、地図アプリにアパートの座標を打ち込み、移動手段を「徒歩」に設定する。

 画面に示されたのは、五時間を超える途方もない時間だった。


「何、してんだろう……」


 またしても自己嫌悪の毒が回る。

 しかし、止まることのできない足は、すでに現実を置き去りにしていた。


 やがて、夜の闇に架かる巨大な橋の上に出た。


 歩道の手摺の向こう、大型トラックが重厚な咆哮を上げて、何台も何台も通り過ぎていく。

 その轟音の中に、自分が寒さに震えている事実にようやく気づかされた。


 七海は、やっと足を止めた。


 何気なく、欄干に両肘をついて身を乗り出す。

 漆黒の河の向こう岸、星屑のように散らばる高層マンションの窓明かり。


「あの光も同じだ。……みんな同じ、みんな同じ、同じ……」


 唇から漏れた呟きは、風にかき消された。

 考えたくはなかった。

 思考の海に沈んでしまえば、この巨大で残酷な世界に、魂を粉々に砕かれてしまう気がした。

 それはまるで、嵐の夜の荒波に弄ばれ、岩礁に身体を打ちつけられるクラゲの最期に似ている……。


 その時、春日のあの無垢な声が、呪いのように蘇った。


『でも、一人だと、なんか、ふと寂しくなることない?』


 七海は、その問いに初めて、確かな輪郭を持つ感情の名前を当て嵌めることができた。


 それは、間違いなく「怒り」だった。


 けれど、その矛先がどこに向いているのか、彼女自身にも判然としない。


 ただ、腹の底に堆積した煤のような、吐き出したくて堪らない熱だけが、彼女を焦がしていた。


 こんな時、あの男——馬渕東海なら、一体どんな言葉を吐くだろうか。


 刹那、彼の無頼な面影が脳裏を掠める。

 思考を介さず、本能のままに、鋭利で簡潔な言葉を放つ彼なら……。

 七海は想像した。

 あの口の悪い彼ならば……。


 七海は、冷たい空気を限界まで肺へと吸い込み、全身の筋肉を硬直させた。そして、


「……親の金でッ、オトコ飼ってんじゃねーよ! バーカッ!!」


 裂帛の気合を込めた大声が、夜の闇を貫いた。

 欄干に身を乗り出し、喉が張り裂けるほどに、彼女は叫んだ。


 背後では、絶え間なく行き交う車の喧騒。

 遠くで響く、救急車のサイレンと苛立ったクラクション。

 七海の孤独な絶叫は、暗く湿った世界の表面を僅かに震わせ、やがて無慈悲な静寂の中へと飲み込まれていった。

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