24.逃避の泡立
金髪の女子生徒は、春日朱美と名乗った。
暴力的なまでの大雨によって強制的に幕を引かれたバーベキュー会場を後にし、一行は逃げるようにバスへと乗り込んだ。
七海は、日常では縁のないその鉄の箱に身を任せ、二人での移動を開始した。
窓の外、雨はすでにその勢いを失い、ただ湿った沈黙だけが街を覆っている。
見覚えのない、濡れたアスファルトの光沢が、網膜の裏側を絶え間なく滑り落ちていく。
車内は、湿気と体温が混じり合った独特の重苦しさに満ちていた。学生らしき若者もいれば、背を丸めた高齢者もいる。その誰もが、淀みなくパスカードをかざして乗車の手続きを済ませていく。その光景を眺めるたび、七海は自分の世間知らずさと、社会というシステムからの微かな乖離を突きつけられるようで、胸の奥がじりじりと焼けるような悲しみに支配された。
彼女は、窮屈で居心地の悪い座席に身を縮め、そのすぐ横には春日が立っていた。
片手で冷たい銀色の手摺を無造作に掴み、もう一方の手は吸い寄せられるようにスマートフォンの画面をなぞっている。
会話はない。
この密閉された空間で言葉を交わすのはマナーに背くような気がしたし、何より、知り合ったばかりの二人に分かち合える共通の話題など、どこにも落ちていなかった。その断絶が、会話を苦手とする七海にとっては、かえって痛切な安堵をもたらしていた。
春日の住まいは、大通りに面した五階建ての、峻厳なオートロックを備えたマンションだった。
七海が身を寄せる、風が吹けば震えるような木造の古びたアパートとは、そこにある格式からして違っていた。
「どうぞ。入って」
「おじゃまします……」
敷居を跨ぐ瞬間、七海の視線はふと足元へと吸い寄せられた。
色彩豊かな、踵の高い靴が三足と、無垢な白さを保ったスニーカーが二足。そして、それらの調和を乱すように置かれた、一回り大きな、黒く磨き上げられた革靴。その圧倒的な「異物感」に、七海は説明のつかない違和を覚えた。
「どうぞ、遠慮せず入って」
春日の弾んだ声に促され、七海はためらいを口にする。
「あの……すみません。リュックが、その、ひどく濡れてしまっていて。それに、靴も、靴下まで……」
鏡のように磨き上げられたフローリングに、自らの湿った痕跡を残すことは、取り返しのつかない冒涜であるように思えたからだ。
「あー。じゃあ、そこで脱いじゃいなよ。今スリッパ持ってくるから」
春日は軽やかな足取りで奥へと消えた。
七海は、母が選んでくれたスニーカーを脱ぎ、じっとりと肌に張り付いた靴下を剥ぎ取る。雨を吸い込んだリュックは、春日が用意してくれたゴミ袋という名の無機質なゆりかごに預けた。
「温かいの飲みたいよね? コーヒーがいい? ココアもあるけど」
「あの……では、ココアを」
「はいはい。待ってねぇ」
電気ケトルが、低く唸りを上げ始める。
七海は、促されるままに他人の居住空間に足を踏み入れ、部屋を見渡した。
浅葱色の布団が波打つ、生活の体温が残るベッド。
無機質ながら、どこか洗練されたデザインのデスク。
その上には、自意識を照らし出す鏡と、彩色のためのメイク道具一式。
壁に掛けられた大きなキャンバスには、モノトーンの荒いテクスチャーアートが施されていた。
「ちょっと散らかってるけど、気にしないでねー」
春日が、取り繕うような苦笑を浮かべる。
七海は、喉元まで出かかった卑俗な問いを、思わず口にしていた。
「ここって……家賃、おいくらですか?」
「んー。確か……十万円、ちょっとかな? 親が払ってくれてるから、よくわかんないんだけど」
七海は、なんとも言えない表情を浮かべる他なかった。
自分の住処の、倍以上の価値がこの空間には付随している。世に言う「親が太い」という、分厚く、透明な壁。
春日は、ふかふかのクッションに七海を座らせ、小さなテーブルに二つのマグカップを置いた。
七海の前には、青色の可愛らしい器。春日の手には、少し大きめの、重厚な黒の器。
「ありがとうございます」
差し出されたココアに口を付けると、それはまだ飲めそうもないほどに熱を帯びていた。
「七海さんも、一人暮らし?」
「あ、はい。……もっと、その、ボロいところなんですけど……」
「そうなんだ。私も、もっと安い所でいいって言ったんだけど。オートロックは絶対に必要だってお父さんが……。あーあー。その代わり、もっと仕送り増やして欲しかったんだけどねぇ」
彼女は、持たざる者の痛みなど知らない無邪気さで笑う。
「バイトとか、してます?」
「うん……週に三日か……今週は出勤してないけど、都心のバーで働いてる」
コーヒーを啜る春日の横顔に、七海は自分とは決定的に異なる世界の輪郭を見た。自分が自転車で街を駆け回るフードデリバリーの歯車であるという事実は、今や口にすることすら恥ずべき、惨めな告白のように思えた。
その時、春日のスマートフォンから、場違いに陽気なメロディが流れ出した。
「あ、ちょっと、ごめんね」
春日は、逃げるように部屋を出た。薄いドアの境界を越えて、湿った声が漏れ聞こえる。
「えっ? 今日? ……うーん、ちょっと、今、友達が来てて……うん……うん……。わかった。じゃあ、ちょっとまたLINEするから」
七海は、視線を逃がすようにクローゼットの梁に目をやった。
そこには、春日には似つかわしくない、皺だらけのワイシャツが吊るされていた。
春日が、何事もなかったかのように戻ってくる。
「あの……。やっぱり、私、お邪魔みたいなので、帰ります」
七海が弾かれたように立ち上がろうとすると、
「あー! いい、いい! 気にしないで!」
春日の制止に、七海は座り直した。
ココアを一口。
今度は、その甘みが喉を滑り落ちた。
けれど、心に澱のように溜まった居心地の悪さは、一向に消え去る気配がない。
そして、自分らしくないと思いながらも、七海はその問いをぶつけてしまった。
「春日さん、ここって……誰かと住んでるんですか?」
「……まあ、住んでるっていうか、向こうが時々転がり込んでくる、というか……」
春日の声から、先ほどの鮮やかさが失われる。
「お付き合いされてる方、ですか?」
「うーん。多分そう、かな?」
その曖昧さの意味を、七海は理解することができない。
「どんな人なんですか?」
「普通の会社員かな。よくわかんないけど、結構お給料は貰ってる人みたい。お店で知り合ったお客さんだったんだ……」
「そう、ですか」
再び、ココアを一口。
沈黙が、部屋の隅々まで侵食していく。
「七海さんは、彼氏いないの?」
「いません」
きっぱりと言い放つ。それは拒絶であり、自己防衛でもあった。
「そう、なんだ。モテそうなのに……」
「全然です」
「ええ、そんなことないでしょ? でも、一人だと、なんか、ふと寂しくなることない?」
「全然ありません……」
また、そう言い切る。
二人の間に、言いようのない気まずさが流れる。
「そうだ……シャワー使うよね? 風邪引くと悪いから。着替えも貸すから」
春日が、話を切り上げた。
七海は、言語化できない自己嫌悪に俯いた。
濡れた服は洗濯しておいてくれるという。代わりに、灰色のパーカーを貸してくれた。
ユニットバスに入ってみると、そこは、七海のアパートと驚くほど同じ造りだった。家賃の多寡に関わらず、排泄と洗浄を司る空間だけは、等しく無機質な平等を与えられているのかもしれない。
シャワーの熱い湯が、七海の焦燥と、今日という日の雨を洗い流していく。
拝借したシャンプーは、暴力的なまでに良い匂いがした。
ふと、湧き上がる問い。
――自分は、なんで、こんなところにいるのだろう?
排水口へと吸い込まれていくお湯を見つめる。
すると、その網目に絡まりついた、数本の黒い髪の毛が視界に入った。
春日は、鮮やかな金髪だ。
なら、この髪の毛は……。
急に、無防備な裸身を晒す空間に、得体のしれない他者の気配が流れ込んできた。
知らない、男の……。
七海は、その生理的な不快感に耐えきれなくなり、シャワーの栓を捻った。
慌てるように身体を拭き、雑に髪の湿気を拭う。
下着を身に着け、洗濯機の上に置かれた借り物のパーカーに袖を通す。
すると、洗面台の上。カップに差し込まれた二本の歯ブラシが、不意に視界を刺した。
「すみません! あ、あの、私、急用を思い出して、すぐに帰らなきゃいけなくなって!」
脱衣所を飛び出し、春日にまくしたてる。
「えっ? ちょ、ちょっと。別に、なんなら泊まっていってもいいし……」
「いえ。ごめんなさい。本当に急いでいて」
リュックを持ち上げる手がつい強くなる。
「いや、あの。せめて、髪を乾かしてからじゃないと……」
「本当に大丈夫なんで! 本当に……あの、色々とありがとうございます」
七海は、逃げるように部屋を飛び出した。
背後で閉まるドアの重厚な響きから逃れるように、彼女はその場から駆け出した。




