23.終わりの雨
空模様は、いつの間にかその相貌を変えていた。
ふと、七海は手首のカシオに目を落とす。無機質な文字盤が指し示すのは、十五時を僅かに遡る時刻。初夏の入り口、陽光がその名残を惜しむように延びる季節だというのに、視界を浸食する薄暗さはあまりに早すぎた。
見上げれば、鈍色の雲が、重苦しい沈黙を伴って頭上を低く這っている。
「これ、一雨くるかもな……」
誰かの呟きが、湿り気を帯びた風に混じって消えた。
その予言は、残酷なほどの速さで現実へと形を変える。小粒の雨が、淡い緑を湛えた芝生の上で、色とりどりのレジャーシートを容赦なく打ち始めた。
平穏は一瞬にして潰え、人々は弾かれたように動き出す。バーベキューコンロの火を慌てて消し、無様に荷物を抱え、逃げ場所を求めて駐車場へと霧散していく。
雨脚は、呼吸を整える間もなく激しさを増していった。
その喧騒の最中、馬渕東海だけは、静止画のような迷いのなさで動いていた。
紺色のカップを羽織り、雨を厭う風もなく、散乱した器材をタープの影へと黙々と運び込んでいく。
ソサイエティの面々も、専門学校の生徒たちも、ただその光景を呆然と眺めるしかなかった。雨音の遮壁に阻まれ、動くこともできず、張り詰めたタープの下で縮こまっている。
七海は、ふと思い立ち、出掛けに念のためとリュックの底へ押し込んできた塊を引っ張り出した。小さく丸められた、安物のカッパ。ワークマンで購入した三千円ばかりのそれは、フードデリバリーという過酷な生業を支える、彼女にとっての切実な御守りであった。
七海は無造作に袖を通し、フードを深く被る。
「あっ! 七海さん!」
金髪の女子生徒が、鋭い声を上げた。しかし、七海はその声を背中で断ち切り、飛沫の舞う灰色の世界へと駆け出した。
「東海さん。私も手伝います」
「すまんな。じゃあ、そっちのクーラーボックスを頼む」
「はい!」
雨の重みに抗うような、泥臭い撤収作業が始まった。
「器材はすべてレンタルだ。一箇所に集めておけば、それでいい」
「了解です!」
ふと、七海が振り返ると、タープの下には停滞した時間が横たわっていた。人々はただ呆然と二人の労作を傍観し、数人に至っては、この事態を他人事のように切り離し、スマホの光に意識を埋没させている。
七海の胸中に、澱のような苛立ちが芽生えた。だが彼女は、それを「彼らは軟弱な人種なのだ」という冷ややかな選民意識へとすり替え、強引に溜飲を下げることにした。そうして、視界から彼らの存在を抹消する努力を試みた。
作業は十五分ほどで終焉を迎えた。
土砂降りの暴威の前では、安物のカッパなど気休めにもならず、東海と七海は芯までびしょ濡れになっていた。
タープの支柱に身を寄せ、馬渕東海はどこかへ電話をかけている。
通話を終え、彼が振り返った。
「レンタル業者の回収が遅れるそうだ。立ち会いは不要だが、駐車場まで運んでおいてくれれば助かると言っている」
「えー、あそこまで運ぶの?」
自己紹介で名乗られたはずの名前は、雨音と共に記憶の彼方へ流されてしまった。そんな男子学生が、顔を歪めて不満を漏らす。
「少し待てば雨脚も弱まるだろう。ほら、余った酒もつまみも持って帰っていい。それが、この労働の報酬だ」
東海の提案を聞いた途端、彼らは一転して卑屈な活気を見せ始めた。クーラーボックスに群がり、中身を無遠慮に物色し始める。
「あ、俺、コーラもらいます!」
「私、ストゼロいいですか?」
七海は、その浅ましい光景に視線を向けることさえ拒んだ。濡れそぼったフードを乱暴に被り直し、解体されたバーベキューコンロを両腕で抱え、再び雨の帳の中へと飛び出した。
自分が怒っているのか、それとも幼い嫉妬に似た感情を抱いているのか、自分でも判然としなかった。ただ、雨ごときに立ち竦み、僅かな報酬に一喜一憂する彼らの姿が、耐え難いほど幼稚に映ったのだ。
「……ようやるわぁ」
雨音の隙間から、誰かの冷ややかな呟きが鼓膜を打つ。
心が、鉛を飲んだように重くなる。
その時、隣で激しく泥を跳ね上げる足音が響いた。
「すまん。助かるよ」
東海だった。彼もまた、発泡スチロールの箱を抱え、七海と歩調を合わせるように並走していた。
「いえ……」
七海は、短く応える。
彼らが雨宿りのために残したタープを背に、二人は十数分の時間をかけて、すべての荷を駐車場へと運び終えた。
タープの下に置かれたクーラーボックスに腰を下ろし、七海はぬるくなったジンジャーエールを喉に流し込む。
そこへ、先ほどの金髪の女子生徒が近づいてきた。
「七海さん。もしよかったら、うちで着替えを貸そうか?」
「いえ、大丈夫です」
「でも、そんなに濡れてたら風邪ひいちゃうよ?」
「本当に、お気遣いなく……」
「私の部屋、このすぐ近くなの。なんならシャワーも使っていいし」
押し問答のような彼女の善意に、七海は少しの戸惑いを感じ、救いを求めるように東海へ視線を走らせる。
彼は、タオルを無造作に頭に載せ、余り物の缶ビールを煽っていたが、彼女の視線に気づくと、穏やかに口を開いた。
「俺もネカフェでシャワーを浴びてから学校に戻るつもりだ。お言葉に甘えてはどうだ? もしかしたら、夜には二次会なんて話も出るかもしれないしな……」
七海は戸惑いを抱えたまま、改めて金髪の少女を見つめた。
そこには、裏表のない、真っ直ぐで無垢な微笑みが向けられていた。




