22.彩色のスピード
初夏の気配は、もはや風の戯れの中に留まらず、石動七海の生活の肌理となって、濃い色彩を帯びてきた。
日中の多くを半袖Tシャツで過ごす日が増え、フードデリバリーの最中には、ペダルを漕ぐ度に頬を汗の筋が熱く伝い落ちる。
春の雨が持っていた凍えるような冷たさは消え失せ、近頃の雨は、溜まった汗と、街の熱をさっぱりと洗い流してくれる、まるで天の恩寵のように感じられた。
ソサイエティのメンバーとの他校交流会が開かれたのは、まさにそんな季節の、清々しい快晴の日だった。
七海を含むメンバーは、慣れない黄色い電車を乗り継ぎ、タクシーに分乗して、埼玉県にある彩湖のほとりに辿り着いた。
移動の道のりが、既に一種の「大ごと」のように感じられ、七海は内心で息をついた。
到着してみれば、既に先行していた馬渕東海と他校の生徒たちが、手際よく準備を終えている。
七海たちが道中のスーパーで買い求めた飲み物や食材の袋を手に、彼女は広大な景色を見渡した。
芝生は無限に広がり、点在する木々の緑が濃い影を落とす。日曜日とあって、湖畔は多くの若者グループや家族連れで賑わっていた。そこかしこから肉の焼ける香ばしい煙が立ち上り、立てられたテントの傍では、真っ白な小さな犬がちょろちょろと芝生を駆けている。
ソサイエティのメンバーと他校生が入り混じり、形式ばらない挨拶が交わされている。この手の交流会は幾度か催されているようだが、新入りの七海にとっては勝手が分からず、居場所の定まらない、居心地の悪い時間が流れていった。
その時だった。
「おーい。ナナミー! ちょっとこっち来いよぉ」
馬渕東海の、気安い呼び声が響く。七海が駆け寄ると、そこには二人の男女がいた。一人は前髪で目元がほとんど隠れた長身の男性、もう一人は、驚くほど鮮やかな金色の髪を持つ女性だ。
東海が二人を紹介する。
「この二人は、七海と同じテクスチャーアートをやってるんだよ」
その一言で、七海は自分が呼ばれた理由を悟った。
「どうも。はじめまして。石動七海です……」
丁寧に頭を下げる七海に、金髪の女性が尋ねた。
「ナナミさん。って、お名前は、どういう漢字を書くの?」
その発言から、彼女がこの頭髪にもかかわらず、れっきとした日本人であることが窺えた。
「七つの、海です」
この説明は、もはや七海の慣れた流儀であり、一回で確実に相手に伝わる。
「へぇ~。じゃあ、海繋がりだぁ」
目線が定まらない長身の男性が、唐突に得心したように言う。
「えっ?」
七海は戸惑い、思わず目を見開いた。
「東海さんと、七海さん。……東の海と、七つの海……ってことね」
女性が笑って種明かしをしてくれた。
言われてみれば、その通りだった。
今まで意識したこともなかった、名前の偶然の符合に、七海は微かな驚きを覚えた。
「七海さんもテクスチャーアートやるんですよね? アクリルって、どのメーカーの使ってます?」
金髪の女性の、唐突な、しかし本質的な問いに、七海は少々狼狽えた。
「テキトーです。拘りはありません。……強いて言うなら、ダイソーのをよく使います」
そう伝えた瞬間、その場に爆笑が巻き起こった。冗談だと受け取られたのだろうか?
紛れもない真実なのに、と七海は思ったが、この場の一種のガス抜きとして、悪い作用ではないはずだ、と前向きに解釈し、弁明はせず、ただ黙って笑いに包まれた。
東海は缶ビールを傾けながら肉を焼き始め、周囲ではそれぞれが立ち話をし、あるいはデッキチェアに腰掛け、缶チューハイを味わうなど、思い思いの時間を過ごし始めた。どうやら、堅苦しい開会の挨拶や、乾杯の音頭といった儀式は一切ない、ざっくばらんな集まりらしい。
根が人見知りの七海は、とりあえず東海の傍に立ち、ジンジャーエールを手に、グリルで肉が焼ける様子を静かに眺めることにした。東海が網の上で転がしているのは、まるで画面の中のYouTuberが食しているのでしか見たことのない、堂々とした骨付き肉だった。少なくとも、七海が生まれ育った故郷の田舎町のスーパーでは、お目にかかることのない代物だ。
ジュウジュウと、焦げ付く音が立ち上り、その肉の身には、グリルの網目の焦げが、美術的な模様を描き出していく。
「なに……、腹減ってんの?」
東海が、少し気まずそうに七海に尋ねた。
「朝から、何も食べてません」
と素直に答えると。
「賢明な判断だわ!」
と、また金髪の女性が言い、笑いが起きた。
「東海さん! 焼きそば作っていいっすか?」
と、槇村がスーパーの袋を持って、無造作に割り込んできた。
「いきなりかよ? まあ、いいけど……」
東海は訝しげな表情を浮かべたが、七海は焼きそばも美味しそうだと思った。肉を食すのに厳格な形式的順序などあるまい。好きなものを好きな順番で食べれば良いのだ、と。
最初こそ、集団の輪に馴染めるか不安であったが、七海はこの催しに自然と同化することができた。
大声で騒ぐ者もおらず、七海に無理に話しかけようとする者もいない。非常に穏やかな、個の自由が許容されたバーベキューイベントだった。
ある者はフリスビーに熱中し、またある者は、芝生の上を匍匐前進するかのように一眼レフカメラを構えている。その光景は、まさに自由そのものだった。
七海は、焼きそばを頬張り、肉を何枚も食らい。あの骨付き肉の、野蛮なまでの美味しさに打ちのめされた。ジンジャーエールで、一気にカロリーと脂の奔流を喉の奥へ流し込む。
しばらくして、槇村が七海に声をかけてきた。
「そういえば、七海さん! この向こうで、ロードバイクのレースイベントやってるみたいなんですよ! 見に行きません?」
七海は驚いた。
すると、
「えっ? 七海さんて、そういうの好きなの?
意外~」
と、金髪の女性からシンプルで率直な驚きの声が漏れる。それも当然だろう。見た目こそ、昨日今日田舎から出てきた、垢抜けない黒髪の小娘にしか見えない七海が、日々の糧を稼ぐためにロードバイクで街を駆け回っているとは、誰も想像しないだろう。七海は、微かに自慢気に頷いた。
槇村と、数人の知らない男子生徒と共に、七海は歩き出した。
少し歩くと、フェンスの向こうに、舗装されたコースが広がるのが見えた。色とりどりのユニフォームを纏った、そして七海の愛車ブリヂストンとは似て非なる、太いフレームのロードバイクの選手たちが、信じられない速度で疾走している。
「ハッハッハっ! コスプレもいるし!」
男子生徒の一人が指を差し、笑う。
「ホントだ! フリーレンがいる!」
別の生徒が続く。どうやらプロだけのイベントではなく、一般の愛好家も参加できる催しらしい。
「七海さんも。ロードバイク持ってくればよかったっすねー!」
槇村が言ったが、「こんな面倒臭い場所まで、無理だろう」とは、七海は言わなかった。
すると、一人の生徒が興奮したように叫んだ。
「あっ! 来ましたよー。プロ達が!」
七海もそちらを見た。
それは、確かに異様な集団だった。
コースの向こう、陽炎に揺らめくロードバイカーの群れ。近づいて来るほどに、その迫力と統率性に、目が奪われた。まるで、規律正しい行軍のように、三列の車列に分かれ。文字通り「ゴゥ」という低いうなり音を立てて迫ってくる。
ハンドルを握る人々は、皆、目元を覆い隠すサングラスを装着し、その表情は能面のように無機質だ。それはまるで、全身に鎧を纏った屈強な兵団が、地の果てから攻め寄せてくるかのような、荘厳な景色を彷彿とさせた。
フェンスの向こう、大きなカーブを、大気を切り裂くかのような音と、圧倒的な迫力を持って、彼らは流れていく。
そこでようやく、七海の目には、彼らが出していたスピードの信じられなさが、現実の事として刻み込まれた。右から左に流れていく集団は、車と何ら変わらぬ速度を出している。
本当に、あれが、私のと同じ、自転車?
七海は目を見開いた。彼女の愛車とは、まるで根本的に違う別の機構であるかのような気がした。
「凄いっすよねぇ。あーやって、集団になって、空気抵抗を減らしてんすよ」
槇村が、興奮気味に解説してくれた。
「……あれ、本当に、私のと同じロードバイクなんですか?」
七海は尋ねた。
「うーん。基本構造は、そんなに変わらないはずっす。ただ、あのカーボンフレームは、恐ろしく軽いっす。そんで……、目玉が飛び出るほどの値段っす……」
試しに、その場で七海たちは、高級ロードバイクの値段をスマートフォンで検索してみた。
確かに、「目玉が飛び出るほど」という表現は、決して大袈裟ではなかった。七海は、いったいフードデリバリーを何年続ければ、この天文学的な金額が稼げるのだろうか?という換算を試みそうになり、すぐにその思考を諦めた。




