21.青い春の輪郭
七海の生活は、絵の具が水に滲むように、緩慢に、しかし不可逆的にその彩度を変えつつあった。
馬渕東海を核とした、あの奇妙なソサイエティ。彼らを仲間と呼称していいものか、七海にはまだ判然としない。ただ、どこかの座標にピンで留められているという事実は、生物としてある種の安寧をもたらすらしい。
生活を駆動させるためのフードデリバリー。
アスファルトを切り裂くロードバイクという新たな脚。
かつて地方の鬱屈した空気の中では呼吸できなかった「新しさ」が、今の七海の肺を満たしていた。
屋上のコンクリートは、太陽の熱を鈍く孕んでいる。
七海は小さな張りキャンバスに向かい、メディウムを塗り重ねていた。まだ手になじまないステンレスのペインティングナイフが、抵抗するような感触を掌に伝える。
頭上には暴力的なまでに抜けるような青空。その虚空と地上の境界を曖昧にするように、白と青の粘度あるテクスチャーを画面に定着させていく。
「七海ちゃんの色って、なんだか、回路が違う感じがする」
唐突に鼓膜を震わせたのは、戸川先輩の声だった。
視線を横に向けると、彼女は大きなカレーパンを頬張っている最中だった。揚げ油とスパイスの匂いが、屋上の乾いた風に混じる。
「そうですか? 私はただ、無意識に色を置いているだけなんですが……」
七海は首を傾げる。自分の網膜が捉える世界に、特異点などあるのだろうか。むしろ、世界をそのようにしか受容できない自分の方に、ある種の欠損があるのではないかとさえ思う。
「んー、なんていうか。視覚情報そのものじゃなくて、一度フィルターを通した後の景色、っていうのかな。心象風景に近い」
戸川は、咀嚼しながら七海のキャンバスを覗き込む。
風が彼女の髪をさらい、シャンプーか、あるいは香水か、人工的だが心地よい花のような香気が、七海の鼻腔を掠めた。揚げパンの油臭さと、可憐な花の香り。その不協和音が、妙に生々しい。
「見たままのつもりなんですけどね。……変、ですか」
問いかけた声は、風に舞う埃のように頼りなかった。
「ううん。変じゃない。ユニーク、かな」
「……それは、言葉の綾というものでは?」
七海が眉間に微かな皺を寄せると、戸川は笑い飛ばすように残りのパンを飲み込んだ。
「違うって。でもさ、オリジナリティがあるっていうのは、武器だよ。アーティストとしてはね」
――アーティスト。
その言葉は、甘美な響きを持ちながら、同時に鋭利な切っ先で七海の胸を突いた。
本当になれるのだろうか、そんなものに。
美大という聖域に足を踏み入れれば、何かが劇的に変容すると信じていた。その動機がいかに幼稚であったかを、今の七海は知っている。
確かに、変化はあった。自転車のペダルを踏み込む脚には筋肉がついたし、先輩たちにパンの一つも奢れる程度の経済力は身についた。だが、本質的な「個」としての強度はどうだ。
「そういえばさ、来月の交流会、七海ちゃんはどうするの?」
思い出したように、戸川が話題を変えた。
ソサイエティと他校との合同バーベキュー。埼玉の、名前も忘れた河原で行われるというその催しは、七海にとって憂鬱の種でしかなかった。
「はい……。知らない人が、大勢来るんですよね」
「大勢ってほどでもないよ。十人ちょっとじゃないかな」
「……その。あまり、騒がしい場所は、得意ではなくて」
「はは、ソサイエティの連中だって、十分騒がしいのに?」
戸川の無邪気な指摘に、七海は言葉を詰まらせる。確かに、彼らの喧騒には慣れてしまった自分がいる。
「それは、そうですね……」
「いいじゃん! 来なよぅ! 人見知りなら、私やトウミさんの後ろに隠れてればいいし。それに一年生は参加費無料だから。タダメシ食ってやるくらいの図太さで来ればいいのよ」
タダメシ。その即物的な響きが、七海の迷いを揺らした。
バーベキューといえば、肉だ。
労働によって当座の金銭は得ているが、ニュース映像の端々に踊る物価高騰や、将来確実に徴収されるであろう社会保障費の幻影は、常に七海の脳裏に澱のように沈殿している。
食える時に食う、それは生物としての生存戦略だ。
「どうしようかな……。じゃあ、行こうかな」
七海の声は、半ば独り言のように漏れた。
あるいは、肉への欲求だけではないのかもしれない。
新しい他者との接触が、まだ見ぬ自分を引きずり出してくれるのではないかという、淡い期待。それが、恐怖の裏側にへばりついていた。
青の顔料と白の絵具が混ざり合い、不透明な水色が生まれる。
ナイフの先端にそれをすくい、太陽にかざしてみる。
鈍く光るその塊は、空の青さとは似ても似つかない物質だ。けれど、そこには確かな質量がある。
風が温んできた。
春が終わろうとしている。
だが、七海の中に燻る青い春は、まだその輪郭さえ定まらず、息を潜めている。
「それ、完成したら、またトウミさんに売りつける気?」
戸川が茶化すように笑う。
「……さすがにタダメシは申し訳ないので。これを肉の代償として、トウミさんに差し出します!」
七海にしては珍しく、冗談のような、軽口のようなものが口をついて出た。
そして、屋上に響いた二人の乾いた笑い声は、どこにも引っかかることなく、高すぎる空へと吸い上げられていった。




