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クラゲが還る水星の岸辺に  作者: ヤマザキゴウ


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20/22

20.二枚の証

 七海は、登校前の清澄な光の中に、大学正門近くの小さな郵便局を見上げていた。そこにあるのは、一台きりの古びたATM。その前には、通帳と書類を広げ、タッチパネルに悪戦苦闘する背中の丸い老婦人がいる。その後ろに続く二人の客、白髪の初老の男と、作業着姿の若者。

 若者は、隠そうともしない焦燥を、小刻みな貧乏揺すりと、銀色の腕時計への頻繁な視線という、落ち着きのない身振りに変えていた。七海もまた、自らの腕に巻かれたカシオの液晶画面に目を落とす。急いでいるわけではない。しかし、一限の開始時刻は刻一刻と迫っていた。


 生まれて初めての労働――フードデリバリーでの八日間の稼働――その対価が、通帳に活字として打ち出される具体的な実感を欲していた。スマホの画面で確認した金額は、まだ仮想の数字に過ぎない。現金をその手にしたいという、自身の案外さもしやかな性根を自嘲しそうになる。


 そうこうするうちに、老婦人は諦めたように局員を呼び出し、作業着の若者は、「チッ」と微かな舌打ちと共に、郵便局から立ち去った。七海もまた、その背に続く。


 消火栓の鉄ポールに括り付けたロードバイクの南京錠を、チェーンから解く。

 また、昼にでも出直そう、と心の中で呟いた。


 いつもの退屈な講義もあれば、教授によっては、エキセントリック極まるものもある。唐突に紙を被り、床にまき散らし、チョークを壁に叩きつけて割り、"存在"、"イデア"、"アガペー"を語りだす。

 流石は美大だ、と感心する。入学当初は、この異常な空気に身体を強張らせていたが、随分と慣れた。ソサイエティの先輩たちから譲り受けたストリートファッションが、精神的な鎧の役割を果たしているのかもしれない。


 昼時。再び郵便局に向かうが、またしても数人が並んでいた。ふと、学内にもATMがあったはずだと思い出し、踵を返す。玄関ホールの案内図を眺めるが、それらしき表記は見当たらない。


 逡巡していると、ちょうど槇村が通りかかった。


「あ、七海さん。おっつー!」


 その気さくな声に、七海は尋ねる。


「あの、槇村先輩、この学内に、ATMがあるって聞いたんですけど……」


「あー。それねぇ、ない。……何故か、去年撤去されたんすよぉ」


 七海は愕然とした。行列に大人しく並んでいれば良かった。とんだ無駄足だ。思わず漏れた溜息が、空気に溶けていく。


 槇村は、そんな七海を見やり、


「なんなら、一緒にファミマ行きます? これから裏門の方のファミマ行くんすけど……」


 と提案する。七海も、たまには学食ではなく、コンビニ弁当でもいいかと考えた。何よりも、手に入れたばかりの金を使ってみたかった。


 裏門を抜け、片側一車線の、ほどほどの交通量の市道を、タイミングを見計らい駆け足で渡る。角にある豪邸の黒い鉄門の中から、真っ黒でモサモサした大型犬に「ウォッフ!」と吠えられ、七海は思わずビクリと身体を強張らせる。


「大丈夫っすよ!」と、槇村が軽やかに言う。


 交番の前の信号を大人しく待ちわび、青信号と共に渡りきった先にあるファミリーマートに入店する。

 七海は逸る気持ちを抑えながら、早速ATMに向かった。タッチパネルを操作し、まずは残高照会。暗証番号を入力する。

 表示された金額に、驚きと安堵が綯い交ぜになった、熱い感情が湧き上がった。


 残高、二十七万八千四百円……。


 お年玉の貯金、母からの仕送り、そしてフードデリバリーの報酬。その合算だ。ここから家賃を引き、食費を引き、通信費を引いても、かなりの余裕がある。 

 その事実に、七海は内側からドキドキしてきた。

 とりあえず、二万円だけ、出金することにし、再び暗証番号を入力する。

 ネットショップの支払いがあったらしい槇村は、先に店先に出ていた。七海は、ペットボトルのミルクティーと、グミだけを購入し、自動ドアを出た。


「あれ? 七海さん。メシ、買わなくていいの?」


 と槇村が問う。


 七海は、弾んだ声で言った。


「槇村先輩。カレーパン、買いに行きませんか? なんか、有名なキッチンカーが近くにあるんですよね?」


「あー。ありますけど、ちょっと高いんすよぉ」


「いいですよ。私の奢りです!」


「えっ! いや、流石にそれは……」


「ロードバイクのお礼、まだしてないですし。そのくらいさせてくれませんか?」


「あー。いや、気にしなくていいのに……」


「お願いです。奢らせて下さい」


 七海は、言い募る。槇村は困ったようすで、しかし最終的には、


「わかりました……。じゃあ、今日のところは、大人しく、奢られます!」


「それと、はいこれ!」


 七海は、購入したばかりのグミの袋を、槇村の手に渡した。


「それも奢りです」


 初めて手にした労働の対価。財布に仕舞った、その生々しいたった二枚の証が、七海の背筋を伸ばし、なんだか自分はカッコいいのではないか、という高揚感に満たされていた。

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