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2.伝統と学食カレー

 学食の喧騒は、七海にとって未だ慣れない音の洪水だった。地方の静かな町から上京してきたばかりの七海にとって、この美術大学のキャンパスは、あらゆる意味で刺激的だった。

 とりわけ、食堂の二百円カレーライスは、その代表格と言えるだろう。


 七海はその日も、カウンターで受け取ったトレーを抱え、空いている席を探していた。大学の広報誌で「学生に優しい価格設定!」と謳われていた二百円カレーは、七海の乏しい生活費を思えば、まさに救世主のように感じられた。しかし、七海の目の前に置かれたそれは、期待とは少々かけ離れた代物だった。

 白いご飯の上に、とろりとした琥珀色の液体がかけられている。それはカレールーというよりは、ソースと呼ぶのが相応しい。野菜の形跡は愚か、肉の気配すら微塵も感じられない。皿の上で、その得体の知れない液体は、まるで水たまりのように微かに波打っていた。


 一口、スプーンで掬って口に運ぶ。味は、悪くない。むしろ、ほんのりとした甘みと、舌に残る微かな辛みが、この簡素な食事にささやかな幸福感を与えてくれる。しかし、それは決して「美味しい」という類のものではなかった。ただ、空っぽの胃に液体が流れ込み、腹が満たされるという、生理的な欲求が満たされるだけの行為。都会の荒波に揉まれる七海にとって、それだけでも救いかもしれないと、半ば諦めのような、或いは感謝のような、複雑な感情を抱きながら七海はスプーンを進めた。


 その時だった。


「あのー。油彩の一年生よね?」


 突然、頭上から降ってきた声に、七海はスプーンを止めた。咀嚼中のご飯が喉に詰まる。まさか、この見知らぬ場所で、誰かに話しかけられるとは夢にも思っていなかった。


「あ、あ、あ、はい!」


 ほとんど反射的に、どもりながら返事をする。視線を上げると、そこには快活そうな笑顔を浮かべた女性が立っていた。七海よりも背が高く、どこか都会的な雰囲気を纏っている。


「私、戸川って言います! 三年ね! 同じ学科だから、ちょっと話したいなーって」


 戸川と名乗った女性は、人懐っこい笑顔を七海に向けた。同じ油彩学科の先輩。そう聞いても、七海の頭はまだうまく状況を把握できていなかった。田舎では、見知らぬ人に突然話しかけられることなど滅多にない。ましてや、こんな馴れ馴れしい口調で。


「は、はい。石動七海です!」


 自分の名前を告げるのが精一杯だった。戸川先輩は、七海の前の空席に腰を下ろすと、にこやかな顔で七海のカレーを覗き込んだ。


「それでお腹足りるのー? なんなら、先輩としてトンカツ奢ってあげる!」


「いえ! そんな、あの……」


 反射的に断ろうとした七海の言葉を遮るように、戸川先輩は手をひらひらと振った。


「いいのいいの。ここの伝統なのよ」


「はぁ」


 七海は戸惑うばかりだった。伝統。それが何を指すのか、皆目見当もつかない。故郷を離れ、友人の一人もいない七海にとって、この申し出は確かにありがたいものだった。飢えた胃袋は、トンカツという魅惑的な響きに微かに反応している。

 しかし、同時に、いささか馴れ馴れしすぎるのではないかという疑念も拭えなかった。彼女の屈託のない笑顔の裏に、何か別の意図があるのではないか。都会の人間は、皆こんなにもオープンなのだろうか。それとも、この大学特有の文化なのだろうか。


 カレーを食べる手は止まったままだった。七海の目の前で、戸川先輩は屈託なく笑っている。その笑顔が、七海にはまだ、ひどく遠いもののように感じられた。

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