19.バカと芸術論
午前五時。夜の残滓が冷たく澱む資材置き場、ソサイエティの溜まり場で一夜を明かした七海は、大学敷地内の、錆びたトタン屋根が重なり合う駐輪場の隙間から、鈍色の空を見上げた。夜が明けきらぬ帳は、遠くの街灯の光さえ吸い込み、すべてを曖昧な輪郭に包んでいた。
「そんじゃあ、俺はシャワー行ってくる」
背後から、馬渕東海の声がした。黒色のリュックサックを担いでいる。その中には、一日の垢を落とすためのシャンプーやタオルなど、生活の必需品が一式収められているのだろう。
七海もまた、この澱んだ空気と、肌に薄くまとわりつく夜の湿気から逃れたく、一度自分のアパートへ帰ることを決めた。シャワーを浴び、清潔な服に着替えたい。ロードバイクならば、往復で二十分ほど。最初の授業には充分に間に合う計算だった。
七海は、愛用のロードバイクを引き、しばらく馬渕と並んで裏門へと歩いた。
銀杏並木の続くアスファルトの上に、異様な光景が広がっていた。数枚のビニールシートが敷かれ、その上に、色とりどりの寝袋に包まれた人々が、まるで芋虫のように規則正しく並んでいた。夜露に濡れた寝袋は、朝の光に鈍く光り、異様な静けさを醸し出している。
馬渕東海は、その光景を見て、深く、そして呆れたように息を吐き出した。
「それ、何してんすか?」
青色の寝袋から、顔だけを出し、眠りから覚めたばかりで覚束ない目をした学生に、馬渕は尋ねた。
「これは、都市空間と身体の関係を再構築し、芸術と生活・展示と行為の境界を問い直す。その実践だ……」
その言葉は、冷え切った朝の空気に吸い込まれ、薄い膜となって七海の耳に届いた。
「……野宿、にしか見えないんすけど……」
馬渕の素直な感想に、寝袋の男は、痛烈な侮蔑を含んだため息をついた。
「はぁ、やはり。アートというものの本質を、何も理解していないようだなぁ。馬渕東海……」
「はあ、すみません……」
馬渕は、心のない、空疎な返事を返した。関わりを断ち切りたいという意思が、その声のトーンに如実に表れていた。
「ところで、そちらの、君は、一年生かな?」
突然、寝袋の男の視線が、七海に向けられた。七海は、その視線に射抜かれ、思わず息を詰めた。
「えっ? あっ、はい」
言葉が喉に張り付いた。
「老婆心ながら忠告させてもらうが、付き合う人間は選んだ方がいい。その男のような紛い物とつるんでいては、君の為にならない……」
真剣な、まるで魂の救済を説くかのような表情で言われたが、七海は心の中で反発した。付き合う人間は選んでいるつもりだ。少なくとも、屋外で寝袋一つで夜を明かし、高尚な言葉を弄ぶこの連中とは、決してつるみたくはない。俗物と言われようと、清潔な布団と温かいシャワーこそが、七海にとってのリアリティだった。
「だ、そうだぞ」
馬渕が、七海に顔を向けた。その表情には、苛立ちと同時に、どこかこの茶番を楽しむような諦念が混じっていた。
「は、はあ。ご親切にどうも」
七海は、不快感を隠すこともせず、僅かに頭を下げた。
「それと、……見るに、君らは、例の溜まり場で一夜を明かしたようだが……。それは、つまり……、ヤッたのか?」
唐突な、あまりにも下品で、朝の清澄さを穢すような物言いだった。七海は、その直接的な誤解に羞恥を覚えるよりも早く、盛大な呆れに襲われた。感情が遠のき、すべてがどうでもよくなってしまった。
早々にこの、芸術の名のもとに異様な光景を繰り広げる場所から立ち去りたい。どうやら、馬渕もまた同じ心境だったらしく、何の言葉も合図もなく、七海よりも一歩速く歩き始めた。
「汚らわしい、まことに残念だよ。君たちのような欲望にまみれ、俗物的な衝動のみに生きる獣が、この神聖な学び舎にいることが……」
後ろから、寝袋の男の、呪詛にも似た声が追ってきた。
「うっせ! バーカ!! 死ね! クソっ!」
馬渕東海が、堪えきれなくなったのか、それとも意識的に切り裂いたのか、朝の静寂を木っ端微塵にするような、荒々しい怒鳴り声を吐き捨てた。その声は、七海の耳にも、心臓にも、鋭く突き刺さった。
寝袋に包まれた、謎の集団は、ただ横たわったまま、ジッと馬渕東海の背中を、有無を言わさぬ憎悪の視線で睨みつけていた。
二人は、再び、裏門に向けて歩き出す。一刻も早く、あの淀んだ空間から離れたい一心だった。
「なんだったんですか? あの人たち?」
七海は、吐息のように問いかけた。
「さっぱりわからん……。モテなすぎて、生きるのが辛すぎて、頭がおかしくなったんだろ?」
馬渕の返答は、あまりにも素朴で、そして、皮肉に満ちていた。確かに、そうかもしれない。美大という場所ゆえに、何か崇高な芸術論に裏打ちされた行為なのだろう、と一瞬でも考えてしまった自分が、ひどく馬鹿らしく、七海は恥じた。
裏門を潜り抜け、「じゃあ、また」と短い挨拶を交わし、二人は別々の方向へと足を向けた。
七海は、ペダルを半回転させ、その勢いのまま、ロードバイクに飛び乗るように跨った。路地を抜け、ようやく大通りへと出る。広い歩道には、まだ人影は疎らだった。冷たく湿った風が、七海の顔を切り裂いていく。
その風の中で、ふと胸にこみ上げてきたのは、馬渕東海の、あの飾り気のない怒声だった。「うっせ、バーカ、死ね、クソ」。
七海には、そんなにもシンプルに、そして直情的に、己の感情のまま他人を罵倒した経験が、これまでの人生で一度もなかった。もし、あの馬渕のように、何の躊躇もなく、ありのままの怒りを言葉にできたら、もう少し、この生きづらい世界を、軽く生き抜くことができるのだろうか。
七海は、そんな似合わない妄想を胸に抱きながら、ペダルを強く踏み込んだ。早朝の街路樹の影が、七海の後ろを、無言のまま追いかけてくるようだった。




